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さがなし

ねむい

 スーパーマーケットは白と黒で几帳面に彩られ、甲はそのただ中で、桜に咲くものを見つめて逡巡しつつ嘆いていた。

 この手元に残った蛋白質と脂質の塊は、普遍的に「豚肉」と呼ばれている。この「豚肉」と呼ばれているものについて、甲は深く、あたかも深海を行き来するかのように、反省していたのであった。

「——ああ、どうして。どうして、こんなことに」

 甲は手元の肉塊に目を落とす。見慣れた光景だ。甲の目の先で閉じこもっている。発泡スチロールと、ラップの世界の中で静かに時を待っている。いつもと同じ。そのはずであった。

 しかし、甲の目には。甲だけの目には、その残忍さがありありと映っている。総じてありありと。歌う鳥たちを、水の中に沈め、溺れさせるような。あるいは、桜の散りゆく様、そのもの。眼前に映し出されている風景は、甲の首元すら、狙っていた。

 そして甲の首元に、ナイフが押し当てられる。100グラムあたり10円値上げ。そのナイフを。


 甲はピンクに輝く宝石を宝箱へと戻した。残念無念。購入資金に不足している。甲は「御肉売場」と書かれた広場を後にする。お預けだ。宝石は石油王にのみ持たれるのだから。

 代替手段を考える。「御肉売場」を背に、甲はスーパーマーケットという万国博覧会を一望する。ぐるり。ぐるり。目玉が景色に追いついて動く。

 スーパーマーケット「しひ」は、白と黒に染められた店内がウリだ。どの棚も、どの広告も、どの看板も、何もかも、白と黒。白の次に、黒。黒の次に、白。こうして、交互に白黒を繰り出すことで、このスーパーマーケットは独自のスーパーマーケットとしてのブランド確立に成功した。色を排除することによって、金を勝ち得たわけである。甲もまた、そんな愛に囲まれて、買い物に精を出していた。

 何を買おうかしら。ぐるぐる目玉を突き出して、ぐるぐると考える。目玉は頭蓋を遥かに飛び出し、「御肉売場」から遥かに離れた「みどり売場」まで伸び切っている。その長さは、ゆうに10メートルを越えているらしい。以前、店員さんが教えてくれた。毛細血管が立派だと。

 そんなことは良い。

 ああ、今日もダメだ。眼球を頭蓋に戻しつつ、脳に手を突っ込む。肌も頭蓋も絹で、簡単にすり抜けて深層へと至る。豆腐のように柔らかく、肌のように生ぬるい感触が手をくすぐる。その感触を頼りに、甲は不思議な物体をかき混ぜる。ああ、落ち着く。安息の最中、甲は手を器用に用いて、ふわふわの怨嗟を脳内に設置する。整理、というのが適切か。

 「みどり売場」に並ぶもの。

・ち 100グラム4せん

・たま 60キロ3おく

・さくら 1アワー2せん

・その他 W(TD)

 これらの事柄を整え終えると、脳から手を引き抜く。そして嘔吐。

 残念ながら、こんな高いものは買えない。石油王を親に持っていれば、話は別かもしれないが。私はあいにく、ごく一般的に幸せな家庭の育ちだもんで。

 悠然の失望。自嘲を込めた嘆き。自刃の怨恨。こういう感情を、甲は耳から戻して床を穢す。溜息も良いが、こちらは失望を明示できて便利だ。床には黄土色の大地が現れていくが、どこからともなく店員さんが片付けるので、すぐさまモノクロの調和へと戻っていく。

 もうダメだ。何も買えない。また断食だ。何日目かしら? 甲はそういう類の爆笑が上り詰めているのを感じる。耐える。でも耐えかねる。自動ドアにお辞儀して、質素な店内を飛び出す。店外に備え付けられた大音量スピーカーは「落伍者ども」とがなり立てる。公害ではないのかしら。

 男はそのまま、ガンジス川のほとりを歩く。未舗装の道路を、電気自動車が駆け抜け、粉塵を撒き散らす。咳き込みつつ、目前の最寄り駅を目指す。目指す、と言っても、徒歩300秒程度。

 空は漆黒で焦点すら合わせられないというのに、建物はそれぞれ昼の光を浴びているかのように色めいている。蛍光塗料の進歩は科学にすら及んでいる。そういえば、人もまばらだ。無人化の影か。ゆゆしきかな。

 ゆゆしさは最寄り駅においても変化せず残っている。

 相模国営鉄道ふぢ沢路・しやう難だい驛。

 誰も居ない。広々とした駅だ。果てが見えない。コンクリート打ちで温かみのある素敵な駅舎。

 やれやれ、無人駅だったか。


——————


 気づけば甲は特急に乗車していた。

 特急・ふぢ。「しやう難だい」以降の停車は、ゑん行驛・ぜん行驛・そして終点ふぢ沢驛。数秒で到着。

 また気づけば、甲はふぢ沢驛の改札を抜け出ている。これもまた無人駅のよう。誰も居ない。そんなことがあろうか。甲は周囲をぐる、ぐると見渡す。それでも誰も居ない。音もしない。ただ、鉄がむき出しの粗末な駅舎に、藤の花がそこかしこに咲き乱れている。その艶なる紫が、やおら輝き出す。そういう感じ。色だけだ。そこにあるものは。

 いや、音はしている。何の音だろう。歩を進める。靴音ではない。靴音すらしない。突き当りまで、どこまで行っても紫。紫。紫。藤の花が鉄骨にまとわりついてこちらを覗いている。

 ぴちゃ。音が目下にて成った。覗き込む。

 冠水している。鉄板の引かれたわびの床には、水があたり一面に張っている。気づけば、あたりは水で満たされている。感触こそなけれ、足元は、すっかり水の支配に覆われていた。

 甲はふと、ふぢ沢のことを思い出す。

「ああ、このあたりは海なんだ」

 洋上のまち。ふぢ沢。無理もない。突き当りを、右に折れる。

「みなみ!」

 鉄骨に巻きつけられた看板が叫ぶ。途端に藤が二倍に殖える。流石はふぢ沢。鼓膜が破れそう。それでも進む。

 ふじ沢驛は直結する砂浜で有名だ。南口を出れば、すぐさまそこには一面の砂浜が広がっている。浸水しているので一般的なビーチとは程遠いが、それでも、砂浜は砂浜。水の先に、青がかった砂が見えている。広大な砂だ。水と一体化しているからだろうか、果てまで砂の連鎖が見える。

 甲は海岸線に沿って歩く。何をしに、ここまで来たのか。それは思い出さずに、ただ歩く。左にはふぢ沢驛の鉄骨たち。右には海。その狭間を、さまよい続ける。

ぴちゃ。ぴちゃ。歩くたびに水の音——海の音が跳ね返る。ささがにの糸気取りで雲も音を跳ね返す。音が全天に響き渡る。海の音。母なる大地。周囲には誰も居ないけれど。

 ふと、はるか遠方に何か点を見出す。なんだろう。誰か居るのか。甲はそちらに目掛けて走る。ふぢ沢の鉄骨は続く、どこまでも。そして海も、どこまでも。その点と、走る音だけが、大きさを増す。相変わらず海に濡れる感触は排他的だ。

 それでも走る。走るたび、点のディティールが明らかになっていく。点は茶色。点は球にあらざるもの。点は一つの太い横倒し楕円注と、四つの細い支えの円柱。点は——動物?

そして点は極大を迎える。ディティールは明確となり、その点は点であることをやめていた。その点は、自身を明らかにした。甲は突如としてときめく。

「——こんなところに、ニホンオオカミがいるなんて!」

 それはニホンオオカミであった。茶色の毛皮に、鋭い歯に、凛々しい目に、長い足に、短い耳。それがニホンオオカミの特徴。ニホンオオカミも、いやニホンオオカミだけが、ふぢ沢を知っていた。

ニホンオオカミは小さい。がんばって二本足で立ち上がったところで、人間のへそあたりの高さしか無い。それでも、それだからこそ、ニホンオオカミは正しく威厳を放っている。正しさのままに、甲の声に反応して、歩み寄る。見ると、男だった。

 甲は座る。彼は吻を甲の胸元に埋める。そして、温もりを甲に押し当ててくる。彼の温もりが、甲にもじんわり、伝わってくる。服を着ているはずなのに、直接身体の内部に伝わってくる。毛の漣が、海の音に呼応する。温もりだけは、甲に伝わっていた。

甲は幸運に感謝した。幸運なのだ。ニホンオオカミはめったに見られないから。ずっと見たかった。このオオカミを。眼前で、撫でてみたかった。

この幸運を噛み締めて、オオカミを抱きしめ、せいいっぱい、撫で回す。ふわふわの毛が、甲の手を安らかに祝福していた。

 安らかに。


——————


 瞼の閉じているような感覚がする。ぞっと、甲の背筋に寒気が走る。

 甲は瞼を押しやる。

 眼前には、かの太く、くろぐろと光る、筋の何本も走る幹が、枝の削がれた木が、一本、立っていた。その立派な木材さんには、こう、掘られていた。

「貴方は私を見ます。それは百二十を残します。」

 ところで甲の手足は、十字架に縛られていた。

ほんとうは四月中に投稿しておきたかったんだけれどもネ。

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