おめでたう
わかつちの
甲は塊然と両目を開く。空と月と、そして界線の曼荼羅は、文句も言わず枯れ続ける。地の黒は、もはや完膚なきまでに敗北していた。何に敗北していたか。土である。
大量の木が、座っていた。枝も葉もない、ただ幹と根だけによって構成されている木々が、そこには数え切れないほど設置されていた。大地は土へと変貌を遂げ、木々は枝なくして、しかし確かに、地へと根を張っている。この薄黒い棒きれの軍団が、甲の眼前に控えている。
師団ともなれば、ただ黒く、響き渡るのみ。まるで木場。木々たちは確かに根を、それはそれはしつこいほど太く土へと押しやって、離れていなかった。
それでも彼らは、もう木材と呼ばれることを望んでいるようだった。彼らの枝葉は、見事に切り落とされている。まるで材木屋に並べられた商品のように、彼らは曼荼羅の光を浴びて、どこまでも長く、果てまで届きそうな影を落とす。自然、甲にも落ちる。
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甲はまた瞬きをする。両目を開く。
甲は周囲を見渡す。手無し木たちが、幾重も幾重も、幾万もこちらを取り囲んでいる。こちらとは、何か。甲だけではなかった。
左を見た。左には、一般的な枝葉を持つ木々も数十本、生うていた。彼らはうつつ——もはや「現実」と呼ぶことが求められよう——と同じ、緑の輝きをしている。この玉虫に照る未練の中で、優しさを持っている。この安寧を、処刑待ちの木材はせめている。あとは胴体を切断され、倒れ、焼かれて果てる。そんな未来の予想される者たち。それらは、若木数十本と人間一人を取り囲んでいる。曼荼羅は依然として咲いて。いつの間にか、咲いたままになっている。玉虫色で世界が固定されている。
「珍妙なことも、あるもんだなあ」
甲が呟く。地の揺らぎを感じる。小刻みに揺れている。土を伝って、身体の中にも何か冷たいものが逆流してくる。その冷たさに、さらに揺らぎは大きく殖える。あまりの揺れに心筋も、驚駭の中で倒れようかと悩む。
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甲はまた瞬きをする。両目を開く。
心筋の逡巡など素知らぬ顔で、甲は前を見つめる。甲の前には、とりわけ太い木材さんが一つ。表上には何本もの筋が通っていて、筋肉を思わせる見事な線画を記している。幹もたいそうご立派だ。煎りに煎られたのだろう、しめやかにくすけた茶が、玉虫に踊らされ、くろぐろと光っている。何も曼荼羅を反射した、と論ずるべきでなかった。幹自身が光って、黒き明星たらん、そうしているかのようであった。
そして明星は語り出す。声がした。そしてその声は、木のものであった。そうとしか、判断しようがなかった。
「地獄へようこそ。私たちは貴方たちを歓迎します。私は繰り返します。地獄へようこそ。私たちは貴方たちを歓迎します」
甲の鼓膜に、この声が届いた。いや、この声が、甲の鼓膜に触れた。単に触れただけである。
地獄へようこそ。地獄。確かにこの木はそのように放った。この痛みを伴う哀しみが、地獄そのものと、この幹は説明した。この異質で、ともすればテーマパークか何かのような輝きを、かの木は地獄と表現した。では僕はいま、地獄に居るのか?
「そんな馬鹿な。そんな馬鹿な。誰かがおちょくっているんだ。誰かが」
甲は影に隠れてひとりごつ。そんな馬鹿なこと、あるはずもない。寝落ちして、起きたら地獄に居た。そんな馬鹿な。何かの悪戯だろう。精巧で、手の混んでいて、資金も手間も膨大に費やされていて、それでいてたった一人、僕だけ騙すための、嫌がらせ。きっと、そんなところだ。
「私たちは歓迎します」
「私たちは歓迎します」
明星の物語に呼応するかのように、他の木々たちも声を立てる。いつの間にかボレロと化していた。声の。そのボレロは甲の耳にも入る。そして無機質に響く。
無機質であった。感情が入っていない。機械音声みたいだ。いいえ。そんな、温もりのある言葉で形容できるものではない。単に、平坦だった。甲高く耳に障るでも無く、底低く腹に唸るでもなく、単に、鼓膜に触れるだけだった。息遣いも、個性的なアクセントも、舌の擦れも、唾液の飛散も感じさせない。単に、平凡な音だった。
甲の脳裏に渦が走る。混乱である。痛みすら伴う。そしてますます、夢からの乖離を感じる。頭の中であらゆる考えが混ぜ込まれてぐちゃぐちゃになって、そして真っ白へと変貌する。何を考えれば良いのか。何を信じれば良いのか。これは何か。いま、どこに居るのか。私は誰か。わからない。わからなくなってくる。
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甲はまた瞬きをする。目を閉じた。脳裏の白を、追い出すため。ぢっと目を閉じる。
音は無論、容赦しない。容赦など存在しない。
「貴方たちは歓迎されます。そして、貴方たちは伐採されます」
誰かが、このように宣告した。矢張り、平凡なまま。
「はい、私は伐採されます」
左から、声が聴こえた。この声は、湿り気を持っている。人間の声だ。現世で当然のように聴いていた、少し甲高くて、寝不足の頭に響くような声。それが左から放たれていた。
ああ、よかった。甲は安堵する。きっと、他にも誰か人間が居たんだ。たぶん。
「驚くことではありませんが、地獄において、安心は簡単に壊れます。地獄において、貴方たちは獏を殺さなければならない」
後方から無機質な声と、左から生温い液体とが、同時に飛散する。左頬に、その温度がゆらりと伝わる。心臓がきゅっと閉まる。まさか。
目を急遽開ける。左頬を、左手で拭う。
赤く、僅かに黒い液体が左手にべっとりと付いていた。ねっとりと温かい。臭い。眩しい。春の陽気が触覚を呼び覚ます。鉄分の響きが渡って嗅覚に刺さる。玉虫色に焦がされて悄然と視覚をくすぐる。これが何か。言うまでもない。こんな液体、一つしか無い。
まさか。左側を見る。疑うまでもない。疑うまでもなかった。何が起こったのか。誰が、非業な死を迎えたのか。そして疑うべきであった。
人ではなかった。若木だった。事実だけ観察する。なぜか生えていた若木の枝が折れて、地面に落ちている。その折れた部分からは、勢いよく樹液が噴出している。
噴水だった。ドバイに展開する噴水。あるいはトレヴィの泉。ないし、近所の公園に座る、豪勢に重力へのレジスタンスを敢行し、弾けるように水を高みへと増していく。水しぶきが涼しい。跳ねる水の音が涼をもたらす。高みに至った水に、期待を打たせる。
そんな具合に、甘そうな樹液が、そこらじゅうにばらまかれていた。
甲はまた瞬きをする。両目を開く。
この世界は、樹液の海と化していた。そして、落ちた枝葉は燃えていた。空には樹液の雲が浮かんでいる。その雲はやがて雷を伴う。万雷が作用する。空の曼荼羅たちは破顔する。
若木たちは、木材さんたちになった。
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「貴方は獏を殺しません」
明星が話しかけてくる。甲は答えない。
「貴方が獏を殺さないとき、私たちは貴方が獏を殺すように求めます」
なおも甲は答えない。静寂を貫く。
「貴方は、ここから動くことを赦されない」
甲の足に、何かが絡まった。木の根のようなものである。甲は逃れようとする。足を強く引く。動かない。太い木の根、頭ほどあろう太い根は、甲の両足にまとわりついて離れない。
「貴方は獏を殺します」
左から合唱団の訪れ。相変わらず甲高い声。しかし凡百だった。
甲はまた瞬きをする。両目を開く。
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木々たちは、どこにも居ない。
曼荼羅も居ない。
ただ漆黒の闇に、覆い隠されていた。
くれどくらさじ