彼女とあくびとマスク
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふわわ〜、あ〜あ。
ふう、しんどいなあ。あくびが出て出て仕方ないよ。今日の会議、たいしたことも話さないのに、長いのなんのって。途中で何度意識が飛びかけたことか。あくびをかみ殺すのも、一苦労だったぜ、まったく。
そういや、つぶらやはどうして人間はあくびをするのか、知っているか? 専門家たちがいろいろな説をあげているものの、「これだ!」って答えは出ていないらしいぜ。
脳が目を覚まさせようとしているため。体の中にこもった熱を逃がすため。酸欠状態を回復させようと酸素を取り込むため……。ひょっとしたら、そのどれもが正解で、場合によって使い分けている可能性も、なくはない。
だが、人前でだいだいてきにやることは、はばかられる。「お前のやること、なすこと。俺にとっては退屈極まりないんだよ」って、これ以上ないサインだしな。リアルファイトにも発展しかねん。
そんな、ひとつ間違えりゃトラブルの種にもなりかねない、あくび。こいつに関して、俺は少し妙な記憶がある。そのときのこと、聞いてみないか?
俺が中学生だったころ。ちょうど二年生の二学期に入ったところで、不織布の白いマスクをつけ始めた女子がいた。
それだけなら、別におかしな話じゃない。風邪なり花粉症なりの気配がするときは、俺だって身に着ける。一学期の間、みじんもマスクが必要な気配を見せなかったからといって、それが二学期に入って着け出したら、おかしいという理由にはなりづらいだろう。
隣の席ということもあって、顔を突き合わせる機会は多い。それとなく彼女を視界に入れることがあったんだが、そこで気づいたのが、あくびの件だ。
授業中、ときどき彼女の表情が崩れるときがある。
目を細めて、しわを集めながら、もごもごとマスクの下が動く気配がした。彼女はあくびをしていたんだ。それも、かなり頻繁にだ。
彼女、成績はかなり上位の方だったからな。数学の先生の、言っちゃ悪いがへたっぴ、退屈な授業など、まじめに聞かなくてもいいだろう。かといって、正面切ってあくびをするわけにもいかないし、下を向いたら向いたで、目ざとく見つけて注意してくることもある。
その点、マスクで口を覆ってしまえば、少しは目立たなくなるという寸法だろう。そして涙がこぼれそうになると、マスクをぐいっと持ち上げるしぐさ。ハンカチやティッシュを出すことなく、あくびの痕跡を減らしている。
「うまいな」と、当時の俺は感心しきりだ。
その日からずっと、彼女はマスクをつけて学校へ来ている。外すのはうがいと食事のときくらい。それ以外は友達としゃべるときだろうが、体育中だろうが徹底している。
事情を知らないと思しき子たちから、体調不良を心配されることがあるも、彼女は「ぜんぜん大丈夫」との返し。それから一か月たち、二か月がたち、中間テストが終わって期末テストが近づいてきても、変わらず彼女の口から顎をマスクが隠し続けていた。
なまじ顔立ちがいいものだから、よそのクラスの連中は、口裂け女の正体じゃないかと、勘ぐってもいたらしいな。もちろん、そのマスクの下に異変がないことも、俺たちはすでに知っていたんだが。
やがて、期末テストを2週間前に控えたころ。彼女に装備に新たなものが追加される。
ハンカチだ。柄のないピンク色のハンカチが、彼女の筆箱に添えられる形で、置かれるようになったんだ。
ここのところ、彼女のあくび回数は増えてきている。一学期のときは、そんなあからさまにあくびする奴じゃなかったんだがなあ、と俺はいぶかしんださ。
――何事も真剣に取り組む、優等生キャラづくりに疲れたんだろうか?
そんなことを考え出したところで、先生が黒板に向かったところで、また彼女は大あくびしたんだ。
ぽちゃんと、小さな音を立てて、彼女の机に跳ねるものがある。
水滴だ。一瞬、あくびのときの涙がこぼれたのかと思ったが、違った。
彼女のマスク。そのあごの先を伝い、やがて離れて真下の木を濡らしたんだ。
いつものように、引き上げたマスクが目元にかかっている。まぎれもなく、マスクが涙を吸っている。
けれども、それがいま、水音を立てていたんだ。水音を立てて、じゅるりとわずかに動いた末に、垂れたんだ。尋常な状態じゃない。
彼女はそのまま、さも当然のように、筆箱ごと上に乗せたハンカチを引き寄せる。先ほど垂れたところをさっと拭い、その上に重ねて筆箱を乗せてしまう。
マスクの涙は、止まらない。
彼女はもう遠慮することなく、大きく、大きく。マスク越しにもはっきり分かるほど、口を開けていた。これ以上ないほど、しっかり目を閉じるのも忘れずに。
涙はいずれも、引き上げたマスクの中。垂れるものはいずれも、引き上げたマスクの下。
そこから落ちる水滴は、もはや音を殺されて、ぽつりぽつりとたたんだハンカチを濡らし続けていくばかり。俺がぐっと息を呑んで、その数秒間、見入っていると。
たたんだハンカチの内側が、もごもごとうごめいた。寒い日の布団にもぐりこみ、「出たくない、出たくない」と抵抗を示す人の、下半身のように。
そうして、何度も作られた山と谷が、ふっと消える。ほどなく、ぴらりとわずかにめくれたすき間から、俺の顔へまっすぐ飛んできたものがあった。
水。連なり、身を成し、俺の両目へあやまたず飛んできた物体は、まぎれもない水流だったんだ。そしてそれが、俺がまともな視界に別れを告げた瞬間でもあったよ。
予想だにしない強い衝撃に、思わず声をあげた俺はクラス中の注目を集めてしまう。
目を拭いながら授業を続けてくれるよう頼む俺だが、その視界から「うるみ」がぜんぜん消えない。こすってこすって、取り戻せるのはわずか数秒。そこからすぐに涙がにじみ、ぼやけた世界が広がっていく。
しかもこの状況、他に見る誰も、俺の目は涙をたたえていないというんだ。はためには当の俺だけが、モザイクかけたようだという視界を前に、ぎゃあぎゃあ騒いでいるだけ。メガネもコンタクトレンズも功を奏しはしなかった。
結局、この視界がもとに戻るには5年ほどかかった。
マスクのこと、ハンカチのこと、彼女自身のこと。やぶへびになりそうで尋ねはしなかったんだが、俺は彼女が涙を使って、ハンカチの中にいた何かを育てていたんじゃないかと思っている。
彼女の涙と、時間をかけてそれをしみこませたマスク。そうしてろ過したものが、あのハンカチのはざまにいる奴の、肥しとなっていたんだろう。