黒い戯曲
・ガキの頃から、昴の世界は他人と少し違った。
周りの人間が猿か、虫か、はたまた小動物に見えた。
精神的な病気なのか、視覚的な病気なのか、あるいは無能な連中に対して昴が下した評価が具現化しているのか。
どちらにしても、彼にまとわりついてくるのは、生きても死んでも変わらない金魚の糞ばかりだ。
そんな異様な世界を見てきた彼は、高校ニ年生にして『王』になった。
特別喧嘩が強かったわけではない。
何か特技があったわけではない。
ただ驚異的に彼は、『悪のカリスマ』だった。
警察の目を欺いて俺を殺し、教員の目を欺いて学級を支配し、その天才的な知識と迫力によって、非合法な組織とも渡り合うことができた。
子犬のような弱さを見せつけ、油断した獲物が十分に近づいた、その瞬間に本性を現す。
比喩でも誇張でもなく、街で彼にかなうものはいなかった。
「昴、何を見てた?」
制服姿のまま、バーカウンターで腹心の翔吾と一緒に酒を飲んでいた昴。
警察の補導も彼の目には届かない。
というか本当に、彼の視界には入らないのである。
ここら一帯の警官は、昴の両親が残した莫大な遺産によって買収されているのだから。
「金魚がな……グラスの中を泳いでるんだ」
「また幻覚か……お前本当に一度病院にいけって」
翔吾の警告も、昴の耳には入らない。
実際のところ昴は、翔吾のことを信頼していたわけではない。
昴がヤクザから拳銃を奪い、命乞いを無視して撃ち殺した。
そのシーンを目撃し、翔吾が儲け話を持ってきた。それがたまたま長く続いているにすぎない関係だった。
翔吾自身も、彼の妄言にはうんざりしていた。
この前なんかはすごかった。
自分に表現力を纏う悪霊がくっついて、他人の嘘が見抜ける能力を得たとか中二全開な訳のわからないことを言われた。
「ロイヤルベアの連中はどうするんだ?」
「マスター、ジントニック」
質問には答えずに次の酒を注文する昴。
ロイヤルベアは、今現在下北沢の街で悪事を働く不良グループ。
当初はダンスチームに過ぎなかったが、勢力を拡大するにつれて凶暴化し今では裏の社会と繋がって薬物の流動も一役買っていると言う。
喧嘩と黒い噂が絶えず、昴達とっては目の上のたんこぶだ。
「生意気な奴がいたんだよ。そいつはさ、車椅子でバスに乗ったんだ」
マスターがシェイカーを取り出すと同時に、天井を見たまま昴が語り出した。
「そいつのせいでバスの出発は2分遅れた。なのにあいつは、当たり前みたいにバスに乗って落とし前つけずに行ったんだ。おかしいよな。」
「あ、あぁ……」
「俺が終点でバスを降りた時さ、隆史の奴が電話で変なこと言ってきたんだ。例のやつを袋にしときましたってさ」
昴が返事を求めたり、ニヤリと笑った時。大抵ろくな事をしでかさない。
昴は内ポケットに手を突っ込むと、ハンカチに包まれた何かを取り出した。
「ヤクザの世界ではさ、親を裏切ったら指を落とすんだってよ。男気溢れるシステムだよなぁ〜……お前もそう思わない?」
昴が人を殺したり傷つけたり、そういうシーンを幾度となく見てきたが、自分の思惑を達成してニヤリと笑うその顔だけが、翔吾は何度見ても見慣れず、嫌悪感を催してしまった。
「お前それ……」
「俺は知らないよ。隆史が、何か知らないけど送ってきたんだ。お前……開けてみれば?」
翔吾が何を言わんとしているのか、昴は手に取るようによくわかった。そしてハンカチの中身を確認することなどできないと。
こいつはここで切り時だ。前々から思っていたことを、実行に移そうとした。
「こいつの弟がさぁ、高校辞めてウチに入ろうとしてたんだって。でもよくよく調べたらロイヤルベアの連中に金もらってウチの事調べてたって言うから、怖いよな全く」
「……」
「何のペナルティもなきゃ示しつかねえだろだから、知り合いに話に行かせたら指だけになっちゃって。悪い事したよ」
えくぼがぐにゃりとつり上がった。
「他にも誰か情報を流してる奴がいるんだよ。誰だろうな、俺には見当もつかねーや。」
嘘をつくのが楽しくてしょうがない時の顔だ。
二人の間を流れる空気がどっしりと重くなった。
こいつはわざわざそんなことを報告するためにこの時間ここに呼び出したのか?
否、断じて否。
こいつは何かを知っている。そしてそれを翔吾に隠している。
「お前は俺を裏切ったりしねーよな?」
これは尋問だ。否、最後のチャンスを与えるつもりなのだろう。
ここで秘密を暴露すれば許されるか?
いや、ここはポーカーフェイスを気取り、表向きはお前を裏切らないと誓った上で本当にやつらとの交流を着れば無罪放免。
「当たり前だろ。」
世界一重い息を吐いて、一言ようやくそう呟いた。
冷や汗が噴き出た。血液の流れが加速した。
口と目の中がカラカラに乾き、体毛がピリピリとした。
数秒の沈黙の後不自然ににこりと笑った昴は、そっか、とだけ言った。
「悪い……俺、もう帰るわ。」
「おう、気をつけてな。」
そそくさとコートを羽織り、カウンターの上に万券を置いて帰ろうとした瞬間、声が聞こえた。
その声は間違いなく、席に座ったままの昴の背中から聞こえたのだが、翔吾の聞き知らぬ地の底から響くような声だ。
「お前……神を信じるか?」
「え?」
次の瞬間。
頭に強烈な痛みが走った。風邪の時の偏頭痛は気圧の変化によるものとも違う。巨大な腕に掴まれそのままぶらぶらと浮いているような気分になった。
「っあぁ……ぐっ……あぁあぁ!!」
頭をそのまま握り潰されるかと思うほど強い力に圧迫され、視界は巨大な腕のようなものに封じられ、かすかに見えた光景。
窓ガラスにだけそいつが写っていた。
黒くて巨大な人型の影。
エクトプラズムのように背中からにゅっと伸びたそいつは、翔吾の頭を鷲掴みにしている。
「お前は神を信じるか。」
「あ……ががっ……ああっ!!!」
骨が軋むような痛みに耐えかねた翔吾は、頭の中で必死にイエスと念じ続けた。
怪物はそのまま無慈悲に翔吾の頭をねじ切ってしまった。
不思議なことに誰も彼の存在に気付かず、悲鳴ひとつあげない。
「相棒……来世は裏切らないでくれよ」
薄れゆく意識の中で、翔吾が認識できた最後の言葉だった。
※※※※※
バー店内は大騒ぎになった。
突然首をちぎられた死体と、その生首が天井から降ってきたのだから。
店の中でその死体の身元と何が起こったのかを知っているのは昴だけ。彼とてここで殺すのは想定外だったが、こうなってはもう警察が動いてくるだろう。
今事情聴取を受けるのも面倒なので、人の流れに逆らって店を出た。
裏路地に入った途端携帯が鳴った。
「昴さん、隆史です。」
「なに?」
「今能力出したの昴さんですよね?まさか翔吾さんやっちまったんですか?」
「だってアイツ裏切ったんだもん。」
「でも!!あんだけ長いこと一緒にいたじゃないですか!それにあの人はうちのナンバー2ですよ!?」
「っせーなもう!!ナンバー2とかお前がやればいいだろ!?」
「昴さん……」
「分かるよ。お前あいつに可愛がられてたけどさ、しょうがないじゃん。裏切った奴はどうにか殺さなきゃいけないんだから。」
仮に仲間意識というものは存在しなかった。
あの店のマスターも、翔吾も、少なくとも彼にとっては人間以下の存在価値だったのだ。
今電話をしている隆史も、昴から見れば小猿程度のものだ。
喧しくキーキーと喚きやがって、くらいにしか思えない。
それともお前が俺を殺しに来る?と尋ねようとした時。
「あー、ちょっとタンマ」
電話口では隆史がまだ何か言いたそうだったが、急いで電話を切った。
人に後ろを取られることも滅多にないが、今彼の後ろをうごめいている気配は尋常ではなかった。
すぐにでも振り返って身構えなければ殺される。
あらゆる喧嘩を他人ごとのように諦観してきた昴が、久方ぶりに土俵に降りて来た気分だ。
「おい」
男の声だった、年の頃にして40代ぐらいだろうか。
声は低くくぐもっており、まるで何日も人と会話していなかったかのようだ。
振り返ってみて笑うのを必死にこらえた。
煙草を咥えたまま白いT シャツとジーパン姿でうろついている。その辺にいるただの落伍者とまるで代わり映えしない。
多少筋肉質なようだが、万が一の時いくらでも殺す手段はある。
「はい、なんですか?」
「酒を飲める店、しらねーか?」
昴はムッとした。この男は何を言っているんだろう。あなたの後ろにあるのは飲み屋じゃないか。
いやその前に。一体なぜ昴がこんな飲み屋街の裏路地にいるのか、ツッコミが入らないのが疑問だ。
内情を知らない大人から見れば、昴はただのひ弱な男子高校生。
そんな人間がこの辺をほっつき歩いていることについて突っ込まないあたり、この人間もおそらくまともではないのだろう。
殺したい。
それは生物的な反応だった。
こういう自分より無能なくせに光を浴びて、自分より無能なくせに社会の足を引っ張る人間を見ると、無性に殺したくなるのは彼の昔からの癖だった。
ほんの一瞬、腹にナイフを突き立てられば、あとは命の主導権はこちらのもの。
ノートを探るような素振りで鞄の中のナイフを探り、目の前の中年男を突き刺す用意を整える。
あくまでニコリと子犬のように笑うが、このとこが出血して倒れるその瞬間まで1 mm たりとも油断はしない。
男は奇妙だった。死んだ魚のような、しかしてサメのような鋭くなおかつ無機質な瞳。
魂があるのかないのか、こちらをボーっと眺めているのか睨んでいるのか分からない。
こんな人間は初めてだった。未知との遭遇を体現されたような、君の悪い感触。
こいつを早く殺さなくては、という理由なき悪意の説得力を高めた。
それにつけても、先ほどからなぜこいつは黙っているのだろう。
睨んでいるにしても眺めているにしてもどこを見てるのか分からない。いや、昴と目が合うことが確かだが、いったい何を見ているのかがわからない。
包丁に手をかけ、ゆっくり歩み寄る。まだ作り笑顔は崩さない。
「それと、ここの角を右に曲がって……」
ゆっくり男に近づき、包丁を突き立て……とその時。
刃が、否。昴の体が止まった。
動かない。全く1ミリも動かない。呼吸はできるが首から下が全く動かないのだ。
何が起きた?いや何をされた?
最も答えに近いであろう男の表情を確認するが、建物の陰に隠れて全く見えない。
包丁握ったままの掌を、今度は男のゴツゴツとした手が掴んだ。
「お前さー、子供がこんなもん振り回すんじゃねえよ危ねーな」
まるで子供のいたずらを叱るように、あっさりと男がいった。
「袋入りの大麻は100グラム、注射器が四つか」
誓って男は1ミリたりとも動いていないのに、鞄の中に入っている『見られてはならないもの』を次々言い当てていく。
そして何より、男の視線が何を捉えているのか分かった途端、昴は随分久しぶりに恐怖を感じた。
「あと、コイツは厄介だよなぁ〜……」
蜜を垂れ流すように呟いたが、男は口で言うより何倍もそいつの危険性を理解していただろう。
最初に体が動かなくなった理由が分かった。
昴自身ではなく、昴の背後にいつも控えているそいつの首から下を押さえ込まれていたからだ。
そいつと本人は一心同体。そいつが動きを封じられるば、必然的に本人も同じ目に遭う。
こいつに警戒心がないように見えたのは、最初からこちらの隠し玉が見えていた。見えていたがゆえに対策が打てたからだ。
それは同時に、この男も同じ存在を飼い慣らしていることを意味する。
「こいつ、一体……!!」
声に出したつもりだったが、少なくとも相手には届いていないはずだ。
「まあとにかくあれだ。少なくとも外っ面は良さそうだし、交番引っ張って親くるの待てば、更生の余地はあるわな。」
激しい怒りに襲われた。
こいつは僕をしただと思っている。こんな死んだ目をした落伍者に、僕は下に見られている。許されざる屈辱だった。
何ヶ月ぶりか冷静さを欠き弱さの仮面をつけるのを忘れて男に刃向かった気がついたとき地面に倒れていたのは自分の方だった。
男は丸腰。自分の凶器を奪われたわけでもなければ、魔法を使われたわけでもない。
昴の持っていた包丁は折れ曲がり、男はタバコをビニールに捨てて悠然と立っている。
「元気なのは良いが、噛み付くならそれ相応の準備をしろや。クソガキ」
薄れゆく意識の中で、男に言われた言葉だけが染み付く。
スバルは心に誓った。
何年かかっても何を犠牲に支払ってもいい。
必ずこの男を殺してやると