6 主人公と女王2
――赤。
顔面に降りかかる、ぬめりとした感触。
背筋が粟立つ生温い温度。
濃い、焦げ茶色の髪が不気味にゆらりと揺れ、見開かれた深紅の瞳が夜に呑まれそうな弱い光を放つ。
『――――』
唇が、呆然と彼女の名を紡いだ。
だが、ゆっくりと倒れてくる少女から返答はない。じわりと生温い液体をその胸からこぼすだけ。
倒れてゆく彼女の後ろから覗いたのは、苛烈な藍色の瞳。
少女が地面に――ベリアの上に倒れ伏すと、彼は歪な顔で、笑った。
一滴の涙を流しながら。唇の端を振るわせながら。頬を引きつらせながら。苦しげに。
――――違う。
違う。違う。違うッ!!
こんなことをしたかったわけじゃない。こんな結末を望んだわけじゃない。こんな顔をさせたかったんじゃない。
ごめんなさい。ごめんなさい。わたしが。わたしのせいで――
嗚咽と共に、言葉を吐き出す。きっと自分が楽になるための言葉。
『おまえだけのせいじゃない』
彼は優しかった。
おまえのせいだとも、おまえのせいじゃないとも言わなかった。
『俺も一緒に背負うから』
そうして、逃げることをせず、手を差し伸べた。
「――――っ」
飛び起きたベリアは、肩で息をする。
とても怖い夢を見た気がする。だが、起きた瞬間に全て忘れてしまった。恐怖だけが胸の内に残り、鼓動を強く刻む。耳のすぐ後ろで鳴っているんじゃないかと思うぐらい大きな心音だった。
息を殺すようにじっとしていると、しばらくして呼吸が落ち着いてきて背中の不快感に気づく。悪夢を見ていたことを証拠づけるように、嫌な汗で背中がぐっしょりと濡れていた。ぶるっと一度肩を震わせて立ち上がる。ふと、そこがベッドではなく床であったことに気づき、何故床にと思うと同時に思い出す。
「…………」
急に眠気がやってきて、抗えず眠ってしまったのだ。あれは、何だったのだろう。学園生活の疲れが一気に出たのだろうか。
窓の外は真っ暗。部屋の中も真っ暗だ。
寮内はしんと静まっていて、夜も深いことが感じられる。
フレデリカの部屋を出たのが日が傾き始めた頃だったから、かなりぐっすり眠っていたようだ。
硬い床で眠っていたため、関節がぎしぎしと痛む。首と肩のあたりを軽くほぐして、寝間着に着替える。
ぐっすり眠ったせいで、目はスッキリと冴えていた。
「……喉、渇いた」
たくさん汗をかいたせいだろう。ひりつくように喉が渇いていた。
からからに渇いた喉を潤すため、ベリアは部屋を出て厨房へ向かう。
廊下に等間隔に配置されたランプは全て消され、真っ暗だ。
壁に手を当てながら、進んでいく。夜中なので、なるべく物音を立てないように慎重に。
立派な設備の揃った厨房には、冷蔵庫はないものの水道は引かれている。
田舎村はともかく、王都や主要な街ともなれば、水道設備はしっかりと整っているのだ。
ベリアの故郷では未だに井戸水を汲んで飲み水にしているので、気軽に水が手に入るのは羨ましい限りだ。
(まあでも、井戸水は井戸水で美味しいし)
何にでも善し悪しはあるものだ。
利便性を取るか、味を取るか。
水道を引く手間と費用を考えたら、今のところ後者が勝つ。
不便で非効率的なのも、穏やかでのびのびとしている空気の中にあってはあまり気にならない。
ベリアは自分の家の領地が、領民が好きだ。優しく穏やかで、少し時間にルーズなところもあるけれど、のびのびしている。領主家族含め、金銭的に貧しい暮らしをしている人ばかりだが、心は豊かだと思っている。あの家に生まれて不幸だなんて思ったこともない。
だからベリアは、家族に、領地に貢献したい。ほんの少し卑怯な手を使ってでも。
(――と思ってたけど、やっぱりズルは駄目ってことなのかなぁ)
ベリアが第二王子を狙っていた理由は、単純。金と権力が一番あるから、だ。
乙女ゲーム主人公にあるまじき思考回路だが、それを手に入れるのが手っ取り早く家族と領地を手助けすることに繋がると思ったのだ。
どうすれば手に入れられるか分かっていて見逃す手はない。
いくら貧しくとも幸せと言っても、この先は分からない。不作にでもなったら、餓死する領民も出るかもしれない。医者もいない田舎なので、一度流行病が起きれば大量の命が失われるかもしれない。
領地をきちんと整備して備えておけば防げることはいくらでもある。
だが、備えるための金がないのだ。
これがルースのように金儲けの役に立ちそうな前世の知識のひとつでもあれば、また違ったのだろうが、ベリアにそんなものはない。あるのはこの世界によく似た乙女ゲームの一部の記憶だけ。ならばそれを活用しようと、意気込んで学園にやって来たのだ。
……出だしから躓いているわけだが。
(いやでも、学園生活はまだ始まったばかりだし! チャンスはあるよね。攻略キャラじゃなくても。金持ちの貴族、捕まえよう!)
ハードルを少し下げる。
現在学園にいる将来性のある高位貴族の大半は、攻略対象だということから目を背けつつ。
そうでなくとも、金や権力のある貴族ほど大抵婚約者が既にいるということからも目を逸らしつつ。
水を飲み、喉を潤したベリアは、決意を新たに厨房を出た。
どん、という重たい物が落ちるような音が聞こえたのは、ちょうどフレデリカの部屋の前を通ったときだった。
足を止めたベリアの耳に、何かが割れるような音が聞こえる。
暴れているような激しい物音。
思わず手にかけたドアは抵抗なく開いた。
(鍵が閉まっていない……? っ!)
隙間から見えた光景に息を呑む。
咄嗟に扉を開けて室内に飛び込んだ。
「――フレデリカ!」
床に横たわるフレデリカの上に男が馬乗りになっていた。男は手に光るものを持っていて、それを彼女の首元に突付けている。
「――!」
頭が真っ白になったベリアは、部屋に飛び込んだ勢いそのままに、男に体当たりをする。
不意打ちを食らった男は、軽く転がり起き上がった。
ベリアも素早く体勢を立て直してフレデリカの前に立つと、男はひとつ舌打ちをして、窓から外へ逃げていった。二階なので、逃げられない高さではないのだろう。
外から割られたらしい空洞の窓から虚しく風が入り込み、カーテンが軽く揺れていた。
「……貴女、なんで」
ひとまず危機は去ったようだとほっと息を吐くと、震える声が背後からかかる。
放課後に相対したときとはまるで質の違う、か細い声。
振り返ると、上体を起こし力なく床に座り込んだフレデリカがいた。
すっかり暗闇に目が慣れたベリアには、彼女の瞳に光るものがあるのを見つけたが、見なかったことにする。おそらく彼女はそういうのを気にする人だ。
「怪我はない? ……ですか? フレデリカ様」
彼女のそばにしゃがみ込み、胸元がはだけた衣服を直す。
フレデリカは寝間着ではなく、制服姿だった。シャツのボタンがちぎられていて、かなり危ない状況にあったことを悟る。
フレデリカは震えた手でベリアの手を掴む。冷たい手には、ほとんど力が入っていなかった。
「フレデリカ様?」
「……っ、あり、がと……」
消え入りそうなほどか細い声。震える声。涙混じりの声。
ベリアはやっぱり気づかなかったふりをして、冷たいフレデリカの手を温めるように包み込んだ。
直後に、バタバタとした足音が聞こえてきて、灯りと共に寮母が部屋に飛び込んできた。
「夜中に何を騒いで――まあ! 何があったの!?」
部屋の惨状に驚き、床に座り込むフレデリカとベリアに気づき、異常事態を瞬時に正確に悟った寮母の行動は早かった。
フレデリカとベリアは寮母の部屋に連れて行かれ、寮母は学園の警備に当たっている警備隊に連絡を入れた。それから間もなく話を聞きに警備隊の人が寮母と共に部屋にやって来た。
フレデリカはその間に落ち着いたようで、寮母が用意してくれたホットワインを優雅に飲む。その取り澄ました顔には涙のあとなどひとつもない。
フレデリカは冷静に警備隊の人の質問に答えていった。
フレデリカの話によると、こうである。
夕方頃に突然眠気に襲われて、倒れるようにして眠ったところ、夜中に物音がして目が覚めた。すると目の前にはあの男がいて、咄嗟に突き飛ばし、部屋にあった物を投げて応戦。部屋を出ようと背を向けたところで捕まり、床に押し倒された。相手は刃物を持ちだして脅してきたために、身動きが取れず、身を固くしていたところに、ベリアが飛び込んできた、と。
もしベリアが夜中に起き出して物音に気づかなかったらと思うとぞっとする。
男に襲われた令嬢の末路など悲惨なものでしかない。
「犯人に心当たりは」
「残念ながら、ありますわ」
ふぅ、と気だるげに息を吐くフレデリカ。
「でも、名前は言えませんわね。きっと貴方たちでは、現行犯でもない限り、捕縛することは叶わないでしょうから」
簡単には手出しのできない高位の貴族であると仄めかす。
高位の貴族の権力は大きく、事件を揉み消すことも可能だ。下手に首を突っ込むと存在自治を消されかねない。
少し食い下がったものの、警備隊の人はフレデリカから容疑者の名前を聞き出すことなく立ち去って行った。
少ししてフレデリカの部屋や寮の周辺を調べている警備隊から呼ばれて、寮母も部屋を出て行ってしまう。
「…………」
二人きりになった部屋で、フレデリカは、気まずそうに視線をさまよわせてから口を開いた。
「ねぇ、貴女は……犯人の顔を見たかしら?」
「いえ……暗くて見えませんでしたけど、あのいつもフレデリカ様を追いかけてる人じゃないんですか?」
フレデリカは唇の端を持ち上げて悠然と微笑む。
肯定も否定も返さない沈黙は、どう取るべきなのだろうか。
「見てないならいいのよ。私のことはもう、放って置いてくれる約束だものね?」
「……」
その通りだ。ベリアは約束をした。取引と言い換えても良い。フレデリカを詮索しない代わりに、向こうもこちらを詮索しないという取引。ベリアから関わる道は既にフレデリカによって断たれている。
本人が良いと言うのなら、良いのだろう。物わかり良く頷いておけば。すぐにそれができないのは、ベリアの悪いところだ。見捨てることが苦手で。けれど全てを救える程万能でもない。
「助けてくれたことは感謝するわ。お礼もきちんとする。でも、もう私に関わらないで」
突き放す言葉に、ベリアには頷くしか選択肢がない。
「……分かりました。わたしからは関わりません。でも、フレデリカ様が誰かに頼りたいって思ったときの候補には入れといてくださいね。犯罪とか酷いことじゃなければ、きっと、力になります」
ホットワインを飲み干し、カップをテーブルに置いたフレデリカは、冷たい水色の目に呆れを滲ませて、呟いた。
「……本当、お人好し」