5 主人公と女王
長く伸びた癖のない紺色の髪。瑞々しく白い肌。女性的な魅力にあふれた、それでいて均斉の取れた体つき。少し垂れた気だるげな目つきが色っぽい。
妖艶な美女。
まさにその言葉がピッタリとくる女性だった。
「ごきげんよう。私はフレデリカ・ディナイア。ディナイア伯爵家の長女よ。それぐらいご存知だったかしら? 私のことを嗅ぎ回っていたのだものね」
(…………いいえ、ご存知ではなかったです)
心の中で返答する。そんなことを口走れる雰囲気ではなかったのだ。
殊更丁寧に名乗ったフレデリカは、綺麗な顔に嘲笑を浮かべる。
問答無用でフレデリカの部屋に連れて来られたベリアは、彼女の圧に押されて縮こまっていた。
「そんなに緊張なさらなくても。お茶でもいかが? 口に合うかは知らないけれど」
「……」
冷たい水色の瞳で睨めつけられ、何も言えなくなる。
寮室に備え付けの簡素な戸棚から茶葉を取り出したフレデリカは、手慣れた動きで紅茶を淹れていく。
寮内に使用人を連れてきてはいけないという規則はないが、フレデリカの世話をする人間はいないみたいだ。人を顎で使っていそうな雰囲気すらあるのに、これまた意外だ。
意外と言えば、室内もこざっぱりとしている。……というか、ほとんど手が入っていない。フレデリカは同じ一学年なので、入寮したばかりでまだ手が回っていないだけという可能性もあるが、どこか引っ越しを目前にした部屋のような寂しさがある。
(あと、何か違和感が……――あ)
化粧台がない。
寮内の部屋の設備が全て同じなら、鏡付きの化粧台が備え付けられているはずなのだ。だが、室内のどこにも見当たらない。そのために余計閑散として見えるのだろうか。
手際よく紅茶を淹れたフレデリカは、ベリアの前にカップを置いた。自分も席に着き、優雅に紅茶を口に含む。
「ベリア・コグニス。ルトリード王国北西部に位置する自然豊かな土地、コグニス伯爵領で生まれ育ち、十二歳からは苦しい家計を支えるために、ロシュード子爵領にある大衆酒場で働き始める。ロシュード子爵一家とは八歳の頃から交流があり、嫡男のルース・ロシュードとは婚約の噂もあるほどの仲の良さ。家族構成は、両親、五つ離れた双子の弟妹、七つ離れた弟。性格は一言で言って、向こう見ずなお人好し。入学の三日前にもその性質を発揮して、市街地でルース・ロシュードの手を借りつつもひったくりの捕縛に貢献した――」
「――」
すらすらと淀みなく、ベリアの個人情報を喋り始めたフレデリカに背筋が寒くなる。
緊張を誤魔化すために飲んだ紅茶は味がしなかった。
「どこか、間違っているところはあったかしら?」
「いえ……ありません」
(強いて言えば、婚約の噂は知らない……)
が、今言うべきことではない気がしたので口を噤む。
フレデリカのそれはそれは美しい微笑に、ベリアはうっとりするどころかぞっとした。
唇は弧を描いていても、目は笑っていない。
何か見たことのある目だと記憶を掘り起こすと、猛禽類が獲物を狩る目だと思い当たる。
(フレデリカ……様って、わたしが心配するまでもない人だったのかも)
数日見守っていたことが全て無駄だったような気がしてくる。
ここまで情報収集能力があって、猛禽類の目をする彼女がストーカー相手に泣き寝入りするタイプには思えない。どころか、ストーカーも気づいた上で敢えて泳がせている可能性が高い。
一応弁明させてもらえないだろうか、と緊張しながら口を開く。
「あの……誤解があるかもしれないんですが、わたしはあなたを追いかけ回したくて跡をつけていたわけじゃなくて……」
「心配していたんでしょう?」
「へ?」
「向こう見ずなお人好しだものね。全く見ず知らずの人間であっても、男に追いかけ回されている私を見て、何かあったときのために見守っていた。違うかしら?」
「そう、です」
呆然とする。
彼女を意味もなく付け回していたわけではないとは分かっていたのか。それならば、何故。
水色の目が何もかも見通すかのようにきらめく。静かな水面のように、ベリアの顔を映していた。
「分かっていて、どうして怒っているのかって顔ね? 当然でしょう。頼んでもないのに守られても嬉しくないわ。むしろ鬱陶しい視線が増えて苛立ちが募っただけ。親切の押し売りってタチが悪いわね。自分は良いことをしているつもりなんだもの。ありがた迷惑だって相手に受け入れられないと、せっかく親切してあげてるのに、人の気持ちを無碍にしてって勝手なことを思うんだわ。こっちからしてみれば、『頼んでない』この一言に尽きるというのに。ねぇ、それに――」
立ち上がったフレデリカは、書き物机の引き出しから二、三枚の紙の束を取り出して、ベリアの座るテーブルに置いた。
「――理由が何であれ、こそこそ調べ回られるのって、不快だと思わない?」
その紙は、報告書らしい。手を伸ばして読むと、先程フレデリカが話したベリアについての情報が書き連ねられていた。それもフレデリカが口頭で言ったものより、もっと詳しく。
――いつの間に。
「いい顔ね。こんなのもあるわよ?」
追加でもう数枚の紙束を置く。
「! なんで、ルースまで……」
そちらの内容はルースについて。ベリアのものと同様、生い立ちや親族、交友関係など調べたことがつらつらと書かれていた。
知られてまずいような事は互いにしていないはずだが、それでも、無関係のルースまで勝手に調べ回られていたことに、少し怒りが湧いてくる。フレデリカに対してではない。自分自身に対してだ。
「貴女みたいなお人好しは、本人よりも大事にしている人を攻撃した方が堪えるものよね。そうそうルース・ロシュードについては面白い情報があったわね。貴女と出会った頃だったかしら。とある骨董商の子供を殺そうとしたんですって?」
「それは――っ、」
抗議の言葉をぐっと飲み込む。それは間違った情報ではないのだ。「違う」とは、言い返せなかった。事情を知ってもらうために、他人に詳しく語ることでもない。……語りたいことでもない。
唇を噛んで青ざめたベリアを見て、フレデリカは微笑を浮かべる。口元だけのほんのわずかな笑み。
湖面のように静かな瞳は情報の真偽など興味がないと語っている。
彼女の目的は思い知らせることだ。どんな理由であれ、嗅ぎ回られることが不快な行為であると。
「これで懲りたでしょう? 私を付け回しているあの男もこっちで適当に処理するわ。もう放って置いてくださるわよね?」
ベリアは頷こうとして途中で止まり、テーブルの上の紙束に手を置いた。
「――これ。この報告書を、わたしにくれるなら」
この紙が他の誰かの手に渡らない保証はない。自分のことはともかくルースのことまで調べ上げられた紙など放っては置けなかった。
フレデリカがにんまりと笑う。罠にかかった獲物を嘲笑うように。
「ええ。いいわよ。安心して。私が調べさせた報告書はそれだけだから。写しも取っていないわ」
「……ありがとう」
ほっとして反射的に出たベリアの言葉に、フレデリカは虚を突かれたように目を見開いた。その一瞬だけ、彼女の仮面が剥がれたような気がした。
「底抜けのお人好しね……」
すぐさま表情を繕い直し、微笑を浮かべたフレデリカは小声で呟く。
小声でもしっかりベリアの耳に届いていた。
底抜けのお人好し。
フレデリカに対して思うところはあれども、怒りや不快な感情が湧いてこない自分は確かにそうなのかもしれない。
(……底抜けのお人好し、なら、いいよね)
報告書を持って、フレデリカの部屋を出る直前、ベリアは振り返った。
「ねぇ、もしも何かあったら、言って。わたしなんかじゃ頼りないかもしれないけど、全く何の助けにもなれないってこともないと思う。こうして出会ったのも、何かの縁だと思うから」
目を見開くフレデリカに小さく笑いかけて、ベリアは扉を閉めた。
返事を聞いたところできっと否と言うだろうから。
フレデリカと相対して湧いたのは自分への怒りだ。
自分の知らない内に、誰かを傷つけることがある。どれだけ気をつけていようと、同じ場所で生きる以上、感情を持つ以上、皆幸福・平等になんて生きられない。避けられない衝突がある。
けれどフレデリカを不快にさせ、衝突する事態を招いたのはベリアの浅慮な行動のせいだ。気をつけていれば避けられたこと。
迷惑をかけたのはフレデリカに対してだけではない。ルースにもだ。
手に持った報告書をギュッと握りしめる。
フレデリカが意図していたかどうかは分からないが、今回のことでベリアは思い知った。……いや、一度思い知っていたはずなのに、忘れていたのだ。
自分の行動の結果が、自分以外の者にも降りかかる可能性があることを。
望むと望まざるとにかかわらず、身近な人間も巻き込んでしまう可能性があることを。
自分の行動で自分が害を被るのは構わない。自業自得だ。
だが。
関係の無いはずの人に害が及ぶのは、許容できない。
(気をつけないと、わたしはすぐ間違えそうになる……)
行動する前にそれがどんな未来に繋がるか考えることもせず、目の前のことばかりに夢中になる。ルースがいれば冷静に止めてくれるが、ベリア一人だとその行動がどんな結果を生むか、立ち止まって考えずに突っ込んでしまう。
フレデリカの報告書に言わせれば、向こう見ず。ルースに言わせれば、阿呆だ。
それで一度、失敗して失っているというのに。まるで身体に染みついたように変わらない。変えられない。
自室に戻ったベリアは、フレデリカにもらった報告書を、鍵付きの引き出しにしまった。明日の朝、早起きをして厨房の火にでもこっそりくべてしまおうと決めて。
「……っ?」
ふと目眩がして、床に膝をつく。
(何……? 急に、眠たく……)
瞼が重い。身体も。
視界がぼんやりとぼやけて思考が緩慢になる。
なんとかベッドまで辿り着こうともがいてみたものの、全く動いた気がしない。
不自然なほどに抗えない眠気に、ベリアは意識を手放した。