3-皿屋敷(2/2)
「……あの、ちょっとにおいません?」
「わがまま言うたらあかんで。ここなら人通りもあるし、稽古には持ってこいやないの」
「でも、厠というのはちょっと……」
はい、お菊さんは厠(お手洗いのことですね)の中から情けない声をあげております。
「なあに、おばちゃんの言う通り、悪い場所じゃないさ。ここを使う連中はみんな気が緩んでるだろうし、簡単に仰天すること請け合いだ。自信をつけるのには持ってこいじゃないか」
河童の寅次郎が励まします。
「そうかしら……」
「せやで。うちらの世界では便所いうたら、おばけなんて仰山おるからな。……ほら、ええからええから」
「でも、厠の中に入ってしまったら、姿が見えないような」
「見えへんのも怖さのうちや。数えるやろ? なんやと思って出てくるやろ? そんで、“いちまい足りない”で扉を開けたらええねん」
「おっ、そりゃいいね。たまげるに違えねえ。ほら、お菊ちゃん。さっそく誰か来たようだぜ」
おばちゃんと寅次郎は物陰へと隠れます。
「漏れる漏れる、漏っちまう!」
よたよたと腰を抑えながら駆けて来たのは大家の百々爺さん。
「まったく、腰をいわせちまったから厠へ行くにも一苦労だ」
大家さんは厠の一室に入って行きます。
「いちま~い……にま~い……さんま~い」
「あん? なんだい? 何か聞こえてくるね? ……まあいいや、となり失礼するよっと」
「よんま~い……ごま~い……」
大家さんの居る厠の中が静かになります。きっと肝を冷やしたのでしょう。
「……きゅうま~い……いちまいたりなぁ~い!」
「なに? 落とし紙が足りねえのかい? それならこっちにあるの使いねい」
大家さんの厠からお菊さんの居る厠へと紙が投げ込まれます。落とし紙というのは、……ええと、“といれっとぺーぱー”のことでございます。
「ちょいと小言言うようで悪いけどね、便所の落とし紙もただじゃないんだよ。長屋の備え付けのもんは俺が仕入れてるんだ。糞をひとつひるのに10枚も使われちゃたまらないよ!」
「申し訳ありません……」
「いいよいいよ。わかってくれりゃあ。そいじゃ、俺はお先にね」
大家さんはぶうといっぱつ景気の良いおみやげを残して厠を後にしました。
「どうやった? お菊ちゃん?」
「だめでした……。叱られて。私、大きい方なんてしてないのに……」
さめざめと泣き始めるお菊さん。
「ああ、お菊ちゃん。泣かんでええで。よしよし」
「おや、なんだか泣いてる方が湿っぽくて良いじゃないか。ついでに色っぽい」
「寅さん、そないなこと言ってたら女の子にもてへんで。お菊ちゃん、顔をあげてこれで鼻をかみ」
おばちゃんはお菊さんの頭に乗っかった落とし紙を手渡します。ちーん。
「なに、大家の百々爺さんには店子はみんな頭があがらないからね。さあ、また次のお客が来たみたいだよ。隠れて隠れて」
「こんなところに厠があるな。どれ、一仕事するか」
お次に現れましたのは袈裟をまとったはげ頭のおやじ。大家さんもはげ頭でしたが。
「なあ、寅さん。あのおっちゃん見かけない顔やなあ」
「そうだね、おばちゃん。寺子屋の妖怪じゃないね」
坊主の妖怪はきょろきょろと辺りを見回すと、厠の裏手へと回っていきます。用足しではないようです。
――キョッキョッ、キョキョキョキョ!
「きゃあ!」
何やら甲高い音とお菊さんの悲鳴が響いてまいりました。おばちゃんと寅さんは慌てて厠へと走ります。
「お菊ちゃん、どないしたん? 今の人に覗かれたんか?」
おばちゃんが厠を覗き込むと、一羽の鳥が飛び出してきました。
「あれはホトトギスだね。きっと、さっきの妖怪は加牟波理入道だ。他所からやって来て一仕事されちまったな」
加牟波理入道というのは口からホトトギスを吐き出して、厠に居る人を驚かすのを生業にしている妖怪でございます。昔から、厠に居るときにホトトギスの声を聞くのは縁起が悪いという言い伝えがございます。
「うう。脅かすつもりが逆に脅かされちゃって……」
「しゃあないわ。あの妖怪もベテランさんみたいやったし。お尻を撫でる妖怪やなかっただけましやと思わんとな。お菊ちゃんも、もうひとがんばり入道やで!」
三度目の正直でございます。お次に駆け込んでまいりましたのは豆腐小僧さんです。
「……ああよかった! 厠が空いていた。この前は全部埋まっちゃってて、大変だったもの」
小僧さんは傘の下からにこにこと笑顔を見せると、厠の中へと入ろうとします。
しかしそこで……。
「いちま~い……にま~い……」
「ひゃっ、誰かいらっしゃるんですか? 驚いたからひっこんじゃったよう」
「さんま~い、よんま~い、ごま~い」
「落とし紙を数えているのかしら」
「お皿がろくま~い……ななま~い……」
「ひい、お皿!? どうしたんですか?! あなた、おばけですか?!」
豆腐小僧さんはぶるぶると震えあがります。
「はちま~い……きゅうま~い……」
お皿を数え終わり、厠からの声が途切れます。
すると急に扉が開いて、
「いちまいたりなあ~い!!」
「ひゃあ!」
豆腐小僧さんはどしーんと尻もちをついてしまいました。
「おっ、やったやんお菊ちゃん!」
「えらいね!」
「やりました! 私! やりましたよ!」
「はあ、お菊さんだった! すっかりばかされちゃった! 漏らしちゃうところでしたよ」
「漏らしたらばっちいじゃねえか!」
「ばっちいのはそっちですよう。お皿なんか持ち出して。あたし、食べませんからね」
「食べるって何を食べるんだい?」
「そりゃ、ここは厠ですよ。出したものをお皿に乗っけて“おあがり”ってするんじゃないんですか?」
「ばっ。とんでもなくばっちいな。てめえはばかかい。豆腐じゃあるまいし」
「あっ、お豆腐。見てよ、おばちゃん。今度はおはしをちゃあんと付けたよ。……はい、おあがり」
豆腐小僧さんはどこからともなく豆腐の乗ったお盆を取り出すと、おばちゃんに差し出しました。
「ええなあ、冷ややっこ。今日は暑いからちょうどええわ」
「やったあ、食べて貰えた。おいしい?」
「おいしいわあ」
「も一度やったあ。お菊さんも食べて」
「いただきます。……おいしいわ、小僧さん」
「またまたやったあ。それじゃついでに寅さんもどうぞ」
「けっ! いらねえよ! なんだいついでって。俺は生魚ときゅうり以外は口にしねえって決めてんだ。豆腐なんて糞食らえってんだ」
寅さんは小僧さんの頭をぴしゃりとやります。
「はあ。笠を被っていて助かった。寅さんも“おあがり”ってするんですね」
「は? しねえよ?」
「だって、“糞食らえ”って。うふ」
「生意気言うんじゃないぜ!」
今度はこぶしを丸めて小僧さんの頭をごつんとやりました。
「きゃあ、痛い。お菊さん助けて!」
「てめえ、男の癖に女の後ろに隠れるたあどういう了見だ。尻子玉引っこ抜いてやろうか!」
「寅さん、あんまりいじめちゃ可哀想よ」
「お菊ちゃんは甘いね。こういうのは若えうちに躾けておかないと。俺もあと2、3発ぶん殴らないと気がすまないね。庇い立てするってえなら、へへ、お菊ちゃんの尻子玉も……」
――ごちん!
「あ、痛あ! 誰だい? 俺をぶったのは?」
「私だよ。寅さん、ええ加減にしいや。色男なら女子供には優しくせんと」
「ちぇっ、おばちゃんには敵わない。あんまり強くぶたれると、頭の皿が割れちまうよ」
「そしたら、寅さんも身投げせなあかんな。古井戸は無いから川やな」
「河童の川流れってか! ばか言うなよ。それじゃお菊ちゃんと被っちまうじゃねえか。それに皿は一枚しかねえから数えられねえよ」
「じゃあ寅さん、一枚貸したげるね」
お菊さんが寅さんの頭にお皿を乗せます。
「ちぇっ、お菊ちゃんにも敵わない。でもそれじゃあ、きみが二枚足りないになっちまう」
「いいじゃないの。寅さんが二枚目になるんだから!」
かくして、自信をつけた皿屋敷のお菊さんは、たびたび厠でお稽古をするようになり、「厠のお菊さん」と呼ばれるようになったとかならなかったとか。
はて、現世にも似たような妖怪があったようななかったような?
――ちゃんちゃん!
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