2.プロポーズ
ニルド殿下は凛々しい王子だ。陽光のようなブロンドと琥珀色の瞳。華やかなオーラ。考えたこともなかったが、エメラルドグリーンの瞳とピンクブロンド、咲き始めの花のような初々しいリリアとの組み合わせは、物語の絵のようだった。
想定外のインパクトに、俺の息が詰まった。
俺が生徒会室に踏み込んだ一拍後、リリアは「ひゃああぁぁぁぁぁ!」と叫んだ。同時に、ニルド殿下を突き飛ばす。
ドンッと押されると、ニルド殿下はあっさりとリリアを解放した。
「ノ、ノ、ノ、ノエル様……! ち、違うんです! これは……!」
リリアは、俺のところへダッシュしてくると、青くなって言い募った。リリアって、動揺するとどもる癖があるよな。
涙目になっているリリアに、俺はかえって平静になれた。顔を向けると、ニルド殿下は両手をあげて降参のポーズ。
──ああ、これは、もしかして。
俺は安心したが、しかしリリアは大混乱しているようだ。わたわたわたっと手を振ろうとして、その手に握っている物体に、更に青ざめる。
そこに収まっていたのは、プラチナの校章。
そしてニルド殿下の胸元には、ゴールドの校章。
リリアの心中から、ひいいいぃぃぃという悲鳴が聞こえた。
「──すみません! お返しします!」
リリアは何と、校章をニルド殿下に向かって投げ返した。プラチナの輝きが、ニルド殿下の胸にベシッと当たって、ポトッと落ちる。
「お願い、ノエル様! 誤解しないでください! スイッチです! これはスイッチですからー!!」
「……うん。分かっているから、落ち着いて」
俺は宥めるために微笑んだ。ふるふる震えるリリアは可愛いけれど、部外者に聞かれたら面倒だ。
後ろ手に扉を閉めると、リリアの頭をぽんぽん、と撫でる。
眼前で揺れる、柔らかいピンクゴールドの髪。ふんわりと香るシャンプーの匂い。こぼれそうなエメラルドグリーンの瞳。小柄で華奢な体。
リリアが焦って駆け寄ってきたせいだろう。距離が近い。少し腕を伸ばせば、すっぽりと包み込めそうなほどに。
気をつけないと、そのまま抱き締めてしまいそうだった。
我に返ったリリアが、えへへ、と照れ笑いをするのが可愛いくて仕方なかった。
ニルド殿下が、床に落ちた校章を拾うと、前髪をかきあげた。
「リリア、減点だぜ。しかも過去最高レベル」
「あっ……。ハイ。ゴメンナサイ」
しおしおと、リリアが小さくなる。何の話だ?
顔に疑問が出ていたのだろう。ニルド殿下がニヤっと笑う。
「マナーに反した行動をしたら、その場で指摘することになってんだよ。おかげでかなり上達してきたぜ。さっきのは久しぶりのアウトだな。まぁタイミングがタイミングだったから、気持ちは分かるが」
「遭遇したのが、俺で良かったですね」
スイッチのことを知らない誰かが、あのシーンを見たらどうなるかなど、考えたくもない。
「そうか? リリアにとっては最悪だったと思うぜ? なぁリリア、俺とイチャイチャしてるところ、好きな男には見られたくなかったよな?」
リリアは赤くなった。
「……ノーコメントでお願いします……」
可愛い。俺は胸が浮き立つのを感じた。今の返答は、肯定の意味だ。
それだけで俺は満足だったが、ニルド殿下には思うところがあったらしい。真顔で追撃をかけた。
「リリア、そんな生ぬるいことを言っていると、手遅れになるぜ。ノエルは卒業したら、即婚約するって知っているのか」
「え……」
リリアが大きな瞳を、零れそうなくらい見開いた。
俺は焦った。それは、リリアに言うつもりは無かったことだ。
「ニルド殿下、その話は」
制しようとした俺を、ニルド殿下は目線で抑えた。
「そうやって変な遠慮をしているから、お前らは話が進まねえんだよ。人の恋路に手を出す趣味はねえが、黙って見ているのも限界だ。リリア。ノエルに婚約者候補さえいねえことを、おかしいと思ったことはねえか?」
「……あります……」
「エレノアには俺がいるが、ノエルの身辺は、綺麗に真っ白だ。それは、ノエルがランカード公爵と取引をしているからだ。卒業したら、父公爵の言うがままに結婚すると。その代わりに、卒業までの自由を許されているんだ」
暴露されて、俺は天を仰いだ。
父と約束をしたのは、もう随分昔だ。まだ王立学園に入学もしておらず、勿論リリアと知り合ってもおらず。いかにスイッチを避けるかに、毎日必死だった頃。
俺に女性が近づくと、エレノアはその女性を攻撃する。たとえ政略でも、俺に婚約者なんかができたら、妹はスイッチに何をさせられるか分からない、と思った。
だから父と約束をしたのだ。
スイッチが発動する期間が終わるまで──俺が王立学園を卒業するまでは、誰も寄せ付けないでくれと。噂さえも立たないほどに、徹底的に全ての縁談を潰して欲しいと。
その我が儘を通してもらえるのであれば、卒業してからは父の意思に従うから、と。
「ノエル様、本当ですか?」
リリアの問いかけに、俺は一つ息をついた。
「本当だよ」
「……そうですか……」
リリアの表情は、明らかに沈んでいる。
ニルド殿下が非難する目で俺を促した。言葉が足りない、フォローしろと言うのだろう。
ああ、まさか、こんな流れになるとは。
確かに元々今日はリリアに、クリスマスパーティーのパートナーを申し込むつもりだった。
しかし、ただそれだけのつもりだったのだ。それ以上リリアを追い込むつもりなど無かったのに。
──けれど、これではもう。覚悟を決めるしかない。
優しい猶予期間は、終わりだ。
「ニルド殿下。リリアを連れて退出する許可を」
申し出ながら、若干恨めしい目で、ニルド殿下を見てしまったのは仕方ない。予告なしで背中を突き飛ばされた気分だからだ。一応応援する気持ちはあるのだろうが、とんでもない仲人がいたものだ。
ニルド殿下は、胸元から金色の校章を外す。コツン、と応接セットのローテーブルに置いた。
「俺が帰る。ここを使っていいから、二人とも、腹を割って話し合えよ。この期に及んで、逃げるんじゃねえぞ」
ニルド殿下が部屋を出た後、俺はリリアをソファーに促した。ずっと立ちっぱなしで話すようなことでもない。
リリアが生徒会の備品で、お茶を入れてくれる。丁寧で綺麗な所作だ。普段から意識していないと、こうはならない。
学園に入学してからずっと、リリアが慣れない勉強やマナーに、必死になっていたことを知っている。その彼女の努力は、確かに実を結んでいるのだ。
だがリリアは、元々下町のパン屋の娘だ。王立学園を卒業してからの展望など、描いてはいまい。また元のように町での暮らしに戻るのだと、考えている可能性が高い。
そこへ、これから俺が突き付ける選択を、彼女はどう受け止めるだろうか。
俺は胸元から校章を外した。まだテーブルの上で光る金色の校章。その隣に、プラチナの輝きをそっと置く。
どうやって口火を切ろう。
迷った末に選んだのは、クリスマスパーティーでの決まり文句だった。ラストダンスを踊る前に、パートナーへ贈る言葉だ。
「……今夜、これほど美しい貴女に出逢えたことを、心から嬉しく思います」
恋するパートナーから、この言葉を贈られることは、乙女たちには憧れのシチュエーションだと聞いている。リリアも少しは、心を揺らしてくれるだろうか。
リリアが驚いた顔になった。
無言で待っていると、躊躇いながら決まり文句の続きを答える。
「素敵な時間は、短く感じるもの。でもお互いの気持ちが揃えば、幸せはこの先も、永遠に」
クリスマスパーティー当日は、この時にパートナー同士でプレゼントを交換する。
男性から女性へは薔薇を。
女性から男性へは鈴を。
リリアのピンクゴールドの髪に、鮮やかな赤薔薇を飾れば、どれほど華やかに映えるだろうか。
俺は、心を込めて決まり文句の最後を囁いた。
「聖夜の祝福が、貴女に降り注ぎますように」
リリアが鈴を振るような声で答えた。
「聖夜の祝福が、貴方に鳴り響きますように」
俺は正面から、リリアの瞳を見つめた。緊張で胸が震えた。
「……俺は、この言葉を、クリスマスパーティーの夜、もう一度君に言いたい。リリア。俺のパートナーに、なってもらえませんか」
「ノエル様……」
リリアが少し頬を赤らめた。素直な少女だ。思っていることは、大体顔に出る。
羞恥と、躊躇い。少しの怯え。喜び。
「そして、クリスマスパーティーが終わっても、俺はリリアに、俺の隣にいて欲しい。『お互いの気持ちが揃えば、幸せはこの先も、永遠に』。この言葉を、俺も、求めてもいいだろうか」
本当は、これを言っていいのか、今でも迷っているけれど。
でも何もせず、黙ってリリアを諦めることは、出来そうにない。
リリアの足元にひざまづいた。
「ノ、ノエル様っ、何を」
「リリア嬢、私と結婚していただけませんか?──慣れない貴族の世界に、君を引きずり込むことになる。嫌な想いも沢山させることになるだろう。でも俺は、この先の自分の幸せを、君抜きで考えることができないんだ」
先日、父公爵に書斎に呼び出されて、言われたのだ。
父は、俺たちとそっくりの紫色の瞳に厳しい色を浮かべて、俺を叱責した。
「学園で、一人の女性と、噂になっているそうだな、ノエル。その女性は特例で入学した、下町の娘だとか。確かにお前の縁談は、学園を卒業するまで白紙にしておく約束だが、軽率な振る舞いまで許したつもりはないぞ」
「軽々しい気持ちで、リリアと接しているわけではありません」
「だから? 愛妾にでもするのか?」
当然のように出た父のその言葉は、俺の胸を抉った。
──リリアを愛妾になど。
その時俺は、どんな顔をしたのだろう。目付きだけで、父は俺の想いを見抜いたらしい。ふん、と鼻を鳴らした。
「嫌か」
父は腕を組むと、俺を睥睨した。
「それでは、卒業までの遊び相手か?」
次に差し出された選択肢は、愛妾よりなお悪くなって、俺は手を握りしめた。
「いいえ。俺は彼女を、たった一人の女性だと感じています。……リリアとの交際と結婚を、許して頂けませんか」
「下町のパン屋の娘に、ランカード公爵家の跡取りが本気で懸想する、か。しかも公爵夫人候補として。……相手の娘は、お前の気持ちを受け入れたのか? 普通の感性を持っていれば、到底頷ける話ではないがな。仮にお前の一方的な想いであれば、さぞ迷惑なことだろう」
痛いところを突かれて、俺は言い淀んだ。父にリリアとの結婚の許可を求めたのは、俺の完全なフライングだ。
嫌われてはいないだろうと思う。
でも俺たちは、言葉に出して、お互いの気持ちを確かめ合ったことがない。
リリアが身分の差を気にして、一歩引いているのは気付いていた。その壁を無理に突破するのは躊躇われたのだ。
俺とリリアの結婚で、負担を強いられるのはリリアの方だ。生まれ育った環境から離れ、貴族の常識の中で生きていかねばならなくなる。窮屈に感じることも多いだろう。
俺が守る、と言うのは簡単だが。本当に守り切れると楽観できるほど、子供ではなかった。どんなに俺が庇っても、リリアは貴族社会に傷つけられるだろう。
俺の幸せは、確かにリリアと共にある。彼女とこれから先の人生を歩めたら、どれほど幸せだろうと思う。
だが、リリアにとっての幸せはどうなのか。そう思うたびに、何度も恋を告げかけた言葉は、舌の上で溶けて消えた。
しかしそんな俺の弱さを、父は一刀両断した。
「話にならんな。許すとか許さないとか言う以前の問題だ。お前が真実彼女を想うなら、さっさと手を離してやれ。そうでなければ、卒業までに、私の前に胸を張って連れてきてみせろ。全てはそれからだ」
リリアは暫く沈黙した後、ソファーから降りた。床に両膝をつき、俺と視線を合わせる。立ってくれと促すのではなく、自分もしゃがんでしまうあたりがリリアである。
貴族の作法とは違うかもしれない。この姿をニルド殿下が見れば、また減点だと言うのだろう。でもそんな彼女が、俺は好きなのだ。
リリアは珍しい膨れっ面で、上目遣いにじとっと見上げてきた。
「ノエル様。私、ちょっと怒ってます」
一世一代のプロポーズをしたのに、直後の台詞がこれとは、さすがに少しへこんだ。
「卒業したら婚約するなんて大事なことを、ずっと黙っていて、それがバレたら、今度はいきなりプロポーズなんて。私、どんな反応をしたらいいか、分からないじゃないですか! タイムを要求します! 私に、心を落ち着ける時間をくださいっ」
可愛い。いつもより早口で言い募るリリアの頬は、薄紅色に染まっている。
「うん。ごめん」
「私、ノエル様のプロポーズに、すぐには答えられません。ずっと避けてきたんです。自分の気持ちを、深く考えること。だって、スイッチがある間は、恋愛するなんて怖すぎる。こんなに身分違いなのに、恋人同士になるなんて怖すぎる。ノエル様と一緒にいると、ドキドキして幸せで、でも同じくらい、当たらず障らず過ごしたいって思っていました」
リリアがそう考えるのも当然だ。俺もニルド殿下に背中を押されなければ、今でも踏み込めずにいたはずだ。
俺はそっと、リリアの手を握った。指先に口付ける。
「ゆっくり考えてくれていい。待つから」
本当は、『いつまでも』待つから、と言いたかったが、それは無理なのでぐっと飲み込んだ。
俺に許された時間は、卒業までだ。それは揺るがない。公爵家嫡子としても、結婚相手を白紙にしておくのは、そこが限界なのだ。
全てを投げ捨てて市井に降りることを考えたこともあるが、それはしてはならないことだ、と自分を戒めていた。ランカード公爵家の全てをエレノア一人に押し付けて、逃れることなど出来ない。
リリアは後ろめたそうに俯いた。エメラルドグリーンの瞳が伏せられる。
「……待ってもらっても、私、お断りするかもしれませんよ。それに、すっごく時間をかけちゃうかも。ノエル様が卒業する時になっても、決心なんかできないかもしれません。今それくらい困ってます」
リリアは本当に正直者だ。
でも彼女は、今すぐには断らず、考えてくれるという。それだけでも俺にとっては、第一関門突破だ。
父が言う通り、彼女には酷な選択なのだ。しかも、仮に俺たちの気持ちが通じあったところで、周囲に認めてもらえる保証もない。それでも悩んでくれる程度には、俺に心を向けてくれているのだ。
これが、本当の俺たちのスタートラインなのかもしれない。あやふやなまま、友達以上恋人未満で過ごしてきた俺たちが、やっと真剣に向き合って。
「いいんだよ。もしそうなったら、俺の魅力と努力が足りないんだ。俺は、これから全力で君を口説くよ。全てを賭けることができるくらい、好きになってもらえるように」
リリアは、あわわわ、という顔をして、ますます赤くなった。ウロウロと視線をさ迷わせて、ある一点で目を止めた。
「あ、えと、その……。こ、校章! これ、私が預かってもいいですか?」
テーブルの上で鈍く光っている、俺の校章を手に取る。動揺を誤魔化したかったのだろうが、全然話題が変わっていない。
悩んでいても、クリスマスパーティーは一緒に過ごしてくれるらしいと分かって、俺は微笑んだ。やはりリリアは迂闊で可愛い。
「もちろん。リリア以外の女性と、クリスマスパーティーに出るつもりはないからね。貸して。つけてあげるよ」
リリアの胸元で、俺の校章が鮮やかにきらめいた。
「クリスマスパーティー、楽しみだね」
「あぅぅ……。はい」
リリアのはにかむような笑顔が、俺に未来への希望を信じさせたのだった。
そして、その日の帰宅後。自室へ戻った俺を、スイッチが襲った。
俺は無言で部屋を出ると、薬室へ向かう。簡単な傷薬から、公に出来ない劇薬まで、公爵家が様々な薬を収集し、保管している部屋だ。勿論誰にでも入れる部屋ではないが、嫡子たる俺は、鍵を与えられていた。
壁一面を埋め尽くす引き出しの中から、一つの薬を選び出す。
それは、『シイン』と呼ばれる毒薬だった。