6?
裏路地の汚い階段を降りた先、腐りかけた木のドアの向こう。そこにその「バー」はあった。
薄暗い店内、水を多く含んだ木で作られたカウンターテーブル、壁に埋め込まれた大量のアルコール嗜好品、そしていかにもな装飾に身を包んだバーテン。
古いフィルムフィクションでしか見たことのない「バー」という空間がそこにはあった。
「まさか本当に……全部本物ですか?」
カタヤマは自身のコートを畳みながら、得意げに微笑む。
「断っておくが、古いカビついた酒を並べているわけではない。ちゃんと俺達が製造した新しい酒だ、安心して飲むといい」
アルコール類の民間製造が衰退して久しい。こういった類の娯楽施設はとうの昔に絶滅したと思っていた。
「どうやって……これほどの量を」
「別に不思議な事はない、ここはそういう街なのさ――」
彼はそう言うと僕に手を差し伸べ、上着を要求する。
僕はとりあえず素直に脱いで渡す。彼はそれを手際よく畳み、背後の壁のフックにかける。
「――ところで、君、名前は? 私はカタヤマ、カタヤマクニヒロ」
昇華者としての本名か、偽名を答えるか少し考える。
「ディクロノーシスです」
嘘をついても意味は無いか。
つい数分前に僕を襲った二名の男は、僕達より先にバーの中へと担ぎ込まれ、いまだ後ろの革張りのアンティークソファーの上で気絶している。彼らが目覚めればすぐに僕が昇華者だということは知るだろう。
偽名を使って人間の演技をすることは、あまり得策とは思えない。
「ディクロノーシスさん、飲酒の経験は?」
「ありませんね」
「それはもったいない、酒の旨さは飲み手の場数にも影響されるんだ」
彼は僕の隣に座ると、慣れた様子でバーテンに何かを注文をする。
「ブルーハワイを二つ」
バーテンは静かにうなずくと、振り返り、酒の準備を始めた。
巨大な銀コップに液体を手際よく注ぎ込んでいく、その様子は何処と無く不慣れなようにみえた。
「あまり客は来ないようですね」
「年中閑古鳥が鳴いている。今日日酒を飲む人間は減った――」
カタヤマは苦笑いを浮かべる。
「――二十年前に興った禁欲ムーヴメントは今もなお続いている。愚民共は肉欲や酒を断った見せ掛けの美徳で、侵略者に媚を売るのに必死だ」
侵略者、人間至上主義者たちは上位存在をそう呼ぶ。上位存在を一切信用していないのだ。人間達を家畜に貶めた卑しい異星人としてしか見ていない。
「彼らなりに必死なんですよ」
「必死になり方がズレてる。そもそも知性を持ってるかも疑わしい侵略者に、なぜ禁欲なんて物の美徳が伝わると思ってる? 根拠は? 客観的なデータは? 何も無い。何も無いのに、人々はそれを信じて縋ってる」
彼の口調は、反体制の若者らしい強い感情と意志に満ちている。世界への苛立ちと自らの信奉への陶酔に満ち溢れていた。
「貴方のそのチンケな思想を熱弁したくて僕をここへ? だったらそこのお仲間とやっていればいい――」
僕はそう言って付近のソファーでこちらを伺う人々をあごでしゃくる。
「――僕がここに来たのは情報を得るためだ、それが無いなら帰るつもりだ」
僕の言葉に彼が苦笑して目を逸らした。
かなり気分を害したようで、視線の動きや筋肉の流れに苛立ちが見て取れた。
「随分と気が早いな。俺はただ、君に俺たちの事を理解して貰おうと……ね。そしてそれが、最後の交渉に良い成果をもたらすと考えてる」
「交渉?」
「良い取引には、良い相互理解が必須だ。相手が何を求めいて、それが何故必要なのか」
無理に冷静さを装っている、会話の主導権が握りたいのだろう。
僕はうんざりとした表情を浮かべながら、話の速度を上げるよう迫る。
「まず貴方の持つ情報を提示してください、僕が貴方を理解しようと試みるか否かはそれ次第ですよ」
「……寺院の赤毛女、クドウキョウコを数ヶ月に渡って監視してる連中がいる」
周囲の音が遠ざかったような感覚に襲われた。
僕は可能な限り素早く脳みそを動かす。監視? 誰に? 普通に考えれば守堂の人間だがわざわざ僕に話すということはそれ以外の組織。
「それで、僕は何をすればその情報を頂くことができるんですか?」
反応に満足したのだろう、彼は勝ち誇ったような満面の笑みを浮かべた。
「約束してくれ、本件の捜査の手を我々人間至上主義者には伸ばさないことを。我々は無関係だ」
僕は思わず苦笑を漏らしてしまう。失礼だと思ったので一応右手で口を覆った。
彼はその様子を不思議そうに眺めている。
「どうした?」
「いや……なに、仮にも反体制派の組織が、体制に『手を出さないでくれ』なんて懇願をするなんてね」
小さくガラスの鳴る音がした。
みると青い色の液体が注がれた二つのグラスが、僕とカタヤマの前に置かれていた。
彼は片一方のグラスを手に取ると、僕の目の前に翳してみせた。
「……綺麗な酒だろ?」
まるで話題を逸らすかのように、そんな問いかけをぶつけてきた。
「派手な色合いですね」
夜の海のような暗い青が、グラスのなかで間接照明の弱い光を吸い取って揺らめいていた。
「このブルーハワイという酒はね、遠い昔、未成年の子供達でも飲むことが許され、また頻繁に嗜まれていたものなんだよ」
僕は思わず眉を顰める。
「こんなアルコールが?」
「それほど、飲酒という行為は今より身近だったのだよ。人の文化に根付いていた――」カタヤマは口にその青い液体を付ける。「――だから禁欲ムーヴメントが起きたとき、直ちに全ての民間醸造プラントが閉鎖されたわけではなかった。たとえば醸造が根幹産業だったこの地区とかね」
彼は実に旨そうにカクテルを口に運ぶ。
まるで、そうやって旨そうに飲むことが義務であるかのように。
「話がよく見えませんが……」
「俺達の本質はただのアルコール嗜好クラブに過ぎなかった。時代の流れによって反体制的な側面を微かに帯びたが、その根幹は今も変わらない」
僕は軽くグラスに口をつける。
芳醇な果物の香り、そしてアルコールの独特なエグ味が舌の上に広がる。
不味かった。
「ただの嗜好クラブは守人を街中で襲ったりはしませんよ。貴方達は正真正銘立派なテロリストです」
彼は苦々しく微笑むと、後ろのソファーに寝かされている部下を見た。
「弱くて臆病な生物ほど過剰な防衛をしがちだ。あの部下も見慣れぬ貴方の存在を恐れて暴走したのさ」
「恐れる?」
「警察の介入、俺達人間至上主義者の徹底的な殲滅。そんな最悪のシナリオの前兆と貴方を捉えた」
「……なるほどね」
僕は口を酒につけ、少し考える。
彼らのその見方はあながち間違いじゃない。
守堂は今回の件を持て余しつつある、これ以上事態が悪化すれば警察の出番だ。そうなれば、おのずと彼ら人間至上主義者が追跡される、逃げるのは困難だ。
彼らは警察と相対するだろう、非常に高い確率で。
「何故警察と闘おうとしないのですか?」
聞きながらも僕はバカらしくなる。まるで自分がテロリストを焚きつけてるみたいだ、これじゃああべこべだ。
「今の俺達にはそんな体力は無い、組織として老いすぎたんだ」
彼はおどけた様子でそういって見せたが、目は笑っていなかった。
「何があったんですか?」
「何かが起きたわけじゃない、ただ世間が変わったのさ。今この街に酒を楽しむ人間はもう老人か俺達のような社会落伍者しか残ってない――」
疲弊した怒り、恨み、悲しみ。色あせ錆び付いき膿み疲れた鉄像のような思い。そんな物が瞳の奥に見えた。
「――俺達はこのカクテルと一緒さ。かつては人々に必要とされ、量産され、持て囃された。だが時代ともに飽きられ、見捨てられ、疎まれ、忘れさられようとしてる。カクテルも俺達も何も変わっちゃいないのに」
彼はグラスの中身を飲み干すと、じっと僕を見つめる。
「同情してほしいんですか?」
「いいや違う、最初にも言ったはずだ。我々が欲しいのは理解だ」
「理解? 貴方達が時代遅れの遺物だという事は良く解りましたが、それでもまだ理解が足りないと?」
「あぁ足りないね。ディクロノーシスさん気づいてくれよ、俺達は似た者同士なんだってことに」
似た者同士。
彼のその言葉が理解できずに僕は固まる。
「わからないかディクロノーシスさん。君は社会に必要とされ、その身を犠牲にして昇華者になった――」
上位存在の分泌物を喰らい、その身を一度完全に破壊し、自分の中から何かを生み出しそれと混ざり合った。
無限の苦痛と永遠のような虚無を乗り越え昇華を遂げた。
「――今はちやほやされてる、でももし、社会の風潮が変わったら? 人々が上位存在を否定して、昇華者を忌み始めたら?」
人類は、未だ上位存在とのまともなコミュニケーションは一度と成功していない。人類は確たる根拠を持たずに彼らを救世主と信じ、その信仰に縋っている。
脆く危うい信仰の上で、今の人間社会は動いている。
僕は黙って彼の言葉の続きを待つ。
「人民っていうのは残酷だ。散々崇めていた神でも、恐怖の対象となれば火にくべる」
「将来、上位存在が人間に牙を向く。貴方はそう考えているんですか」
彼は嘲笑を浮かべ、あきれたように首を左右に振る。
「いいや違う。上位存在は変わらない、もちろん貴方達昇華者も。変わるのは人民だけだ、勝手に崇めて勝手に幻滅する、人間の歴史って言うのはそういった無明の繰り返しで作られている」
僕はそこでようやっと、彼の言わんとする事を理解する。
「つまり、君達の敵は昇華者や上位存在ではなく、愚かな一般大衆だ、だから僕の邪魔をすることは無い。そう言いたいんですね」
彼は再び笑う。今度は満足げに嬉しそうな微笑。
「そう。俺達は君のような昇華者と良い関係性を築けると信じている、『条件付の無干渉』という良い関係をね」
「つまり貴方はこう言いたいのですね『情報はやる、関わるな、邪魔はしない』と」
「えぇ。どうでしょう、良い交換条件では?」
彼は笑みを崩さない。まるでそれが唯一の武器であるかのように、その表情にしがみついている。
静かにため息を吐く。
僕に選択肢はない。例え虚実入り混じった物だとしてもクドウキョウコの情報は必要だし、無闇に人を傷つけるなと守堂から釘を刺されている。
だから強行手段は禁じ手、大人しく交換条件を飲むのが妥当。
「ディクロノーシスさん、なんなら酒の1本でも付けましょうか?」
カタヤマは声を掠らせながら、そんな軽口を無理やり叩いてみせた。