3?
寺院「ラルムカルム」は謝肉祭を終えたばかりで、施設内はまさに地獄絵図と呼ぶに相応しい状況であった。
濃厚な血液と臓物の酸化臭が、大伽藍に踏み込んだ僕の鼻腔に殺到した。
ビザンティン様式の荘厳な円盤屋根の下、リノリウムの床一面に広がる血液、変質した人間の屍の山、内部から崩壊した人間の放つ独特の熱気、それらがこの大伽藍をまるで異界のような様相へと変化させていた。
雨合羽風の清掃着を装備した僧侶達が、黙々と散らばった骨や肉の塊をゴミ袋へと押し込んでいる。
僕は血でぬかるんだ床に足を捕られないよう注意しながら、ゆっくりと身廊を進んでいく。
天井からボタボタと胆液が落ちてきた。見上げると、肥大化した臓器に内側から破られた死体が垂れ幕にいくつもぶら下がっている。
――我らの頭蓋の盃を、上位存在の唾液で満たそう――
そんなお決まりのスローガンが、そこには大きく書かれていた。
「救いが無いねぇ」
僕はぼやきながら、寺院の通路を進んでいく。
大伽藍の奥で、僧侶達のリーダーと思わしき人物が周囲の人間に指示を飛ばしていた。
こちらには背を向けているため顔は見えないが、その燃えるような真っ赤な髪の毛から誰だか容易に特定できる。
「クドウさん、クドウキョウコさんですね」
僕の声に反応して、数人の清掃員が死肉回収の手を止めこちらに視線を向けた。
しかし赤髪の女は振り返らない。
「何度来ても無駄ってわからない? 寺院の自治は認められているはず。あまりしつこいと警察を呼ぶけど」
赤髪の女は振り返りもせずに大声で僕の問いかけに応える。
僕はぺたぺたと血糊で覆われた床を踏み歩きながら彼女との距離を詰める。
「別に呼んでも構いませんよ。僕は守人と違って免責特権を持っていますので」
そこまで言うと、やっと彼女は振り返ってくれた。
「貴方、まさか……昇華者?」
キョウゴクの彼女と噂される赤髪の女、クドウ。
キリリとした引き絞られた狐目、異様に広い額。僕の第一印象は「写真ほど美人じゃないな」だった。顔の半分が濡れた血で覆われた彼女の表情は読み取りづらい。
「始めましてクドウさん。私は第二世代昇華者、ディクロノーシスと申します。今日は守人の使いとして伺わせて頂きました」
周囲の清掃員達がどよめく。
クドウだけが、冷めた瞳で僕をジッと観察していた。
「……守人ども、こんな物を持ち出してくるとはな。そこまであの男は大事か」
僧侶達の内、特に信心深いのであろう何人かが跪き、祝詞を捧げ始めた。それ以外の者たちも、一応といった様子で軽く頭を下げ始める。
いまや顔を上げているのは僕と彼女の二人だけだ。彼女が上位存在信仰の浅いタイプの人間で良かった。
「十七日前、貴方はキョウゴクに会ったはずです。そしてその後彼は守堂を去った」
「らしいね、その話は守人達に何度も聞かされた」
「彼は貴女に何を話したんですか?」
彼女はうつむくと、心底めんどくさそうに髪を掻き揚げる。こびりついた血がばりばりと音を立てた。
「……場所を変えよう、ついて来て」
彼女が足早に歩き出す、僕は僕は遅れないように後を追う。
荘厳な身廊を抜け、暗く簡素な側廊に入る。そこでは事態をまだ飲み込めていない僧侶の何人かが通路の端で「何事か?」といった様子で僕とクドウの姿を見ていた。
「どこに向ってるんですか?」
「処理室だよ。そこならしばらくは邪魔が入らない」
「処理室?」
僕はその意味を尋ねたが、彼女は無視した。
想像だが、おそらく死体の「処理室」なのだろう。きっとそこではこの大伽藍に広がる100以上の死体の処理がこれから行われるのだろう。
「……できれば来賓室みたいな、話しやすい場を提供してくれるとありがたいんですけどねぇ」
「嫌なら帰れば良い」
取り付く島もない返答だ。
薄暗く真っ赤な通路はまだまだ続く。
鉄格子で囲われた窓があり、外の風景が見えた。
バカバカしいほどに喉かな緑地帯の風景が見えた。
外の世界には日常がある。だが、たった一枚の石壁で覆われたここには地獄が産まれている。
「何人……この謝肉祭で死んだんですか?」
自然とそんな問いかけが僕の口から零れた。
「ここでは100人弱、内訳は志願者が70人程度、残りは実験体ってところかな」
「昇華者は産まれましたか?」
「いいや、いつも通り全員死亡で終了したよ」
この地獄から、外の世界に戻れた人間は居なかったのか。全員ここで果てた、上位存在の剥離体を口にし、拒絶反応により内部崩壊した。
「それで、ディクロノーシスさん――」
彼女の足が止まった。視線を正面に戻すと、重々しい鋼鉄の扉が僕らの前にあった。
「――貴方は、何故戻ってきたの?」
僕は何も答えられない。
「貴方は、この世界から逃げ出せた。拒絶反応を乗り越え、昇華者へと進化し、人であることから抜け出すことができた……そうでしょう?」
彼女は首を曲げ、肩越しに僕へと視線を飛ばした。
「どうして戻ってきたの?」
嫌な……視線だった。
昇華してから、ありとあらゆる人間から向けられて来た、まとわりつくような視線。
僕は目を伏せた。
「なんだっていいでしょう。早く終わらせましょう」
そうですね。彼女は短くそう応えると、鉄の扉に手を掛けた。