16?
夕闇の中、僕は待合室の座席に俯きながら座っていた。
床は全てアクリル板で組み立てられている、そこにはさまざまな子供達の夢が泡沫で表現されていた。
足音がする。ぺたりぺたりと湿度の高い音が。
アクリルの下を一匹の魚が泳いできた。それはやがて人に進化する旧い魚だった。
「ディクロノーシス……」
魚が言葉を並べる。
「……悲しまないで」
僕はそっと苦笑を漏らすと、彼に言葉を返す。
「どうして貴方達上位存在は、僕から感情を奪わなかったのですか?」
言葉は臓腑に波紋し、座席を電波し、アクリル板を抜けて、夢の泉へと落ちて行く。
「奪うまでもなく、失っていたから。人の表現の定義はとても小さい、人の定義は人の脳を持つ存在にしか適用されない。貴方は脳を失ったその時から人の表現する全てを失っていた」
「詭弁だ。貴方は現に先刻、『悲しまないで』そう言った」
「えぇ、だって泣いていたから」
魚は静かに夢の狭間をたゆたう。全身の瞳が蠢き、周囲夢の一つ一つを舐め取っていく。
「貴方の言ってることの意味がわからない」
質問をする前から解っていた結論だ。
この上位存在「エウダイモニア」と会話が成立したことは一度たりともない。
「ディクロノーシスは、感情を取り戻したいのですね」
魚の言葉、周囲の夢が共鳴して僕に間接的に伝える。
人の夢が、上位存在の意志の翻訳を担っている。
「……そう、だと思う」
「どうしてですか?」
「失った物の重さを確かめたいから、かな。僕が人間であったころ、大切にしていた物、それの供養がしたい」
「供養?」
「とても大切な儀式だよ。それは重みを知らないとできないんだ。何も感じない今では、それができない」
KID作戦で死んでいった仔らの命の重さ。
僕を最期まで僕と思い続けていたオギワラの命の重さ。
夢の中に一つの場面が映る。
『身構えろディクロノーシス!』
彼はそう言って、不死身の僕を庇った。
そこに何の意味も無いのに。
「重みとは、なんですか?」
「わからない」
昔は理解できていたのだろうか?
理解できていた気がする。
当たり前のように、善意や命、道徳や倫理の尊さを語れた気がする。
でもひょっとしたら、昔から何も理解できてなかったのかも知れない。解ったつもりになっていただけかもしれない。
人で無くなった今、その答えはもうわからない。
「そろそろ行きなさい」
夢の群れはいつの間にか足元から消えかかっていた。
魚は体をくねらせ、ここから離れようとしている。
「行くって、何処へですか?」
「言葉では表現できません」
魚は流れ、僕は待合室に一人残された。
無数の刃が僕の体めがけて振り下ろされた。
それらは大動脈や心臓、脾臓などの重要器官を破壊する。
循環機能を失った直ちに生命活動を停止した。
僕の死体を男達が見下ろす。
「あっけなかったな」
キョウゴクの言葉。
全員が顔を上げ、キョウゴクを見つめる。
不気味な間が空いた。
「なんだよ? どうした?」
次の瞬間、男達が刃を構えた。
そして、互いに殺し合いを始めた。狂ったよう刃を叩き込み合う。
マッスルスーツの歪む音、そして飛び散る鮮血。クドウの悲鳴が木霊す。
毒と顔にかかれた男達の脳は、全て僕へと変化をはじめていた。彼らの脳髄に残るかすかな人間の残滓がそれを拒み、互いに互いを殺しあって止めようとしている。
だが無意味だ、彼らの体は不死になりつつある。
頭蓋骨に鉄の塊が食い込む。あばらが砕かれ臓腑が散乱する、だがそれらは直ぐに再生される。数人は運よく絶命できた模様だが、今生きている二人の男はもう全員完全な不死になってしまった。
クドウが怒号を上げながら、男の一人に飛び掛り毒を打ち込む。男は崩れる、同時に悲鳴をあげながら彼女も倒れこむ。
クドウの頭蓋の中の脳が耳から溶け出し、代わりの神経集合体が頭蓋の中の空洞を支配しはじめる。彼女の赤毛が流れ出た脳によってみるみる内に灰色に染まっていく。
彼女は悲鳴を上げながら自分に毒を打ち込み自決した。
キョウゴクはその地獄絵図から一歩、また一歩と後ずさる。
逃がさない。
僕が、彼を捕まえた。
渾身の力で引き寄せ、キョウゴクの頭を掴み持ち上げる。
彼は笑っていた。
「美しい……自身の拡散によって、死を回避するのか。いや、回避していないのか、死が意味を成していない」
彼の頭を壁に叩き込む。
甲高い音が響く、頭蓋骨にヒビが入ったのだろう。
「やはり、俺の推測が正しかった、上位存在は人類を、全てを、愛して――」
再び壁に叩き込む。
頭蓋骨は砕け、脳が噴き出た。壁に脳漿が飛び散り彼らは死んだ。
キョウゴクはもう、何も喋らなくなった。




