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神秘主義は、まず「あらゆる現実の根底に存する」「絶対的実在」を「闇冥なる衝動的なるもの」だとみなす。この実在はただ「我々の情緒に於いて感悟味得」され、「瞑想の機縁」とされるのみであって、理性の対象として概念化されることはないし、我々の道徳的思想となることもない。神秘主義は外部的形式的なものに全くとらわれることなく、またそれを追い求めることなく「唯純粋に内的なる心的活動に於いて」この絶対的実在との「直接なる融合一致を経験することに集中」しようとする。神秘主義にとって、歴史的社会的に現れたものは、その内的経験において神に向おうとするあり方を妨げる障害物といえる。
水谷誠「石原 謙における宗教と神秘主義――とくにシュライエルマッハーの「宗教論」をめぐって」より引用
――人間とは、どこまでが人間で、どこからが人間ではないのか?
昔、寺院の僧侶にそんな質問をされた事がある。まだまだガキだった当時の僕は、その質問について大して考えることもせずに直ぐに答えを求めた。
「もう少し考えて良かったかもな」
僕はそんな事を呟きながら、磔にされた人間至上主義者達の死体を列車の窓ごしに眺めていた。死体はどれも腐敗が酷く、子供のつくった出来損ないの人形のように曖昧な造型をしている。
列車が滑るように動き出し、線路際に並べられた死体が次々と横に引き伸ばされていきどろどろの水で滲ませたようにどんどんに視覚による認識が困難になっていく。
彼らが人間離れしているのは何もその外見だけではない。生命活動を停止した肉体は、あらゆる化学反応の循環が止まり、細胞レベルで見てもその構造は大きく人間のそれとは異なった存在だ。
それでも人間達はこれら死体を人間として捉える。だからこそ、磔にしているのだろう。
彼ら死体は人間、あるいは人間だったからこそ、こうして戒めのモニュメントとして機能が与えられている。ただのタンパク質の人形には出来ない役割だ。
あの時、寺院の僧侶は続けてこう言った。
「人間とは、人間と思われた時、人間になるのだ」
当時はくだらない屁理屈だと鼻で嗤った。でも今ならその意味がなんとなくわかる。
昇華者となり人間として扱われなくなった今、僕はその言葉の真意に触れる事ができた。
あの顔の剥がれ落ちた死体は人間だ。でも僕は人間じゃない、人間として扱われない。最初はそれが納得ができなかったが……
そこまで考えていたところで、電車が再び減速するのを感じた。
ホームが見えてきた。磔の列はただちに途切れ、閑散とした長閑な町並みが見えた。僕は立ち上がると、ドアの方へと向う。
空気の抜ける音がする、それから一拍置いてドアが開いく。赤錆の混じった生ぬるい空気が鼻腔を擽った。僕は鞄を背負いなおすと、ゆっくりと脚を動かして電車を降りた。
オゾンとガスで汚れた大気の匂い、黒ずんだ鉄で作られた背の低い建築物の森、そんな懐かしい風景が僕を包み込んだ。
「煙の街」
上位存在達はこの人類最後の都市をそう呼んでいるらしい。でも彼らの付けた名にしては判りやす過ぎるから、多分ガセだと思う。
ホームには一人の男がいた。
クタクタの革製のジャケット、腰には軽火器を収納したホルスター、一目で守堂の人間だとわかる。
「何故帰ってきた?」
この地区の守堂、そして古い知人である「オギワラ」という名の男は偉そうに腕組みしながら、電車を降りたばかりの僕にそう問いただしてきた。
「帰りたくなったからですよ」
僕はそういって肩を竦めてみせるが、彼の表情は険しいままだ。
「ディクロノーシス――」僕の名前が呼ばれる、笑ってしまうが、こんなのが今の僕の名前だ「――お前はもう解放された。もう我々と『関わらなくて良い』権利を得たのだ」
オギワラの瞳には悲しそうな光が揺らめいている。
僕はわざとらしいため息を吐き、その瞳から視線を逸らす。
「なんだっていいでしょう。僕は帰ってきた、そして貴方達『守堂』は僕に頼みたい仕事がある。それだけの話では?」
そうだな。男は短くそう言うとジャケットの内側から一冊の薄いファイルを取り出した。
「……この男を捜して欲しい」
僕はファイルを受け取る。
彼の瞳の感情の波はもうすっかり消え、冷たい意志が横たわっていた。
「人捜しね……『見つけろ、殺せ』ですか?」
ファイルを捲ると直ぐに一枚のアナログフィルムが目についた。
「まさか、殺すだなんてとんでもない。彼の名は『キョウゴク』、元揺り篭の研究者、稀代の天才科学者様だ」
フィルムの男の人相はかなり迫力がある。
ぎらついた瞳、余計な肉が少なくそれでいて脂ぎった肌、やたら量の多い黒髪。
「天才ねぇ……聞き覚えはありませんが」
「お前の揺り篭の調整にも関わっていたのだがな」
憶えていない。
昇華の影響が海馬体に及んできたのかもしれない。
「『元揺り篭の研究者』っていうことは、定年でも迎えたんですか?」
「その辺りは話すと長くなる、場所を変えよう」
男の提案に僕は黙って頷いた。