第3話 三途の川と死者の国
ちゃぷちゃぷ……。
黙々とローブの男が漕ぐ舟はゆっくりと、いまだ姿を見せない靄のかかった向こう岸へと静かに向かっていた。
猫の紳士の話によると、到着するのにはまだまだかかるらしい。
どうも手持ち無沙汰な僕は、舟のへりから手を出したり、少し固まりかけた血を洗い流したり、水面をなぞる様に水に触れ、その温度の低さを確認したりして、退屈を紛らわしていた。
僕のその様子を見ていた猫の紳士は、髭をちょいちょいと正し、またちらりとこちらを見ては、まるで好奇心旺盛な子供のように話し始めた。
「この静寂に包まれていると、なんとも不思議な感覚になるだろう。もし退屈ならば、わたしと少し世間話でもしないか?」
渡しに舟。とは言ったものだ。
退屈を持て余していた僕は、さっきからモヤモヤしていた疑問を猫の紳士にぶつけてみることにした。
「さっき、死者の国へ案内と言っていたけれど。……そうするとこの川は噂に聞く『三途の川』ってやつなのか?」
「うむ、その通り。如何にもこの川は『三途の川』ってやつだ」
「じゃあやっぱり僕は……やっとこっちに来れたんだ」
僕のその反応に、猫の紳士は不思議そうに首を傾げる。
水に手を入れて濡れた僕の指先を見て、猫の紳士は胸のポケットから取り出した少し猫くさいハンケチーフを差し出して言った。
「随分と君は落ち着いているんだな。わたしが昔、案内を担当した大男は、舟が死者の国へ向かっていることを知り、ひどく落胆して『嫌だ嫌だ』と川に飛び込もうとしていたぞ」
「僕はね、ここに来たくて、何度も何度も自殺を試みたんだ。あまりに報われない人生に疲れて果ててね」
僕は長い長い悪夢から、ようやく解放されたように晴れやかに言った。
まるで肩にのしかかっていた沢山の荷物を、どすんと降ろしたような気分。
「ほう……実に興味深い。ヒトは生にしがみつき、一生をどのようにして美しく生きるかをとてもこだわる生き物だと、わたしは思っていた」
そう言うと猫の紳士は、あれ? と何かに気づいた様子で続けた。
「いや……待て……だとするとおかしい」
僕は猫の紳士の様子を見て、何がおかしいのだろうと考える。
猫の紳士は、あごをさすりながら言った。
「そもそもここは『三途の川』――定められた運命をまっとうした死者だけが通る川なのだ。だから生をまっとうせず自ら命を投げ捨てた者、つまり自殺者というのは、この三途の川を渡ることはできない決まりなのだ。何か不具合でもあったのだろうか……」
何かの書物かオカルトめいた噂のようなもので、それは聞いたことがある。
ぶつぶつと猫の紳士は、何かを呟いている。
「まぁ簡単な手違い程度ならば、正せばいいだけだが。しかし如何せん何か不吉な予感がする。今日はいつになく川の空気もどんよりと気持ちが悪い……」
猫の紳士は不満そうな顔で、髭をしきりにいじっていた。
「しかし、仮にもしも君が自殺をしていたなら、ここには存在しないはずだ。もっと恐ろしいところへ強制的に転送されているはずだからな」
少し聞き捨てならない猫の紳士の不穏な言葉で、僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。
そして僕はふと考える。
おかしい――。
「ところで君の最後、どう死んだんだい?」
まるで僕の心を読んだかのような猫の紳士の言葉。
その言葉に返答するべき答えが、僕は咄嗟に出てこなかった。
そういえば僕は、どうやってここへ来たのだろう。
僕の自殺はことごとく、未遂に終わったはず――。
「ふむ、まだ記憶が定まってないようだな。なぁに、無情にも時間はまだ優にある。ここは三途の川。生前の記憶を手繰り寄せては、死に憂い、悔い嘆く。そのための川なのだから――」
まるで猫の紳士の言葉に促されるようにして、走馬灯の如くさまざまな記憶が僕の頭の中を駆け巡り始める。
少しズキズキする後頭部の出血が乾いたのを、手でまさぐり確認しながら、僕はうっすら取り戻しつつある記憶の切れ端を、ぎゅっと掴むようにして、僕が死に至った経緯を再び思い出す作業に入った。