第29話 審査官の憂鬱
――ぬるい、ぬるすぎる!
ミルクを入れすぎたのが敗因か。
私はすっかりぬるくなってしまった紅茶を飲みながら、いつもより人気の無い食堂でひとりランチをとっていた。
「おや、室長代理。今日のランチは少しばかり遅いのだな」
嫌味にも聞こえたその声の主は、我が上司にして友人でもある、室長アヌビスのものだった。
「私のランチがこんな時間になったのは、あなたが後先考えずに受け入れ人数を増やしたからでしょう?」
「はははっ、それはすまなかったな。それにしてもその新しいチャコールグレイのスーツ、とても良く似合っているね」
「あら室長、その発言はセクハラですよ。私が昼食を取る間も無くこんな時間に至ってしまったというのに、貴方は優雅にまたティータイムですか?」
「あっはっは、さすがバステト君。君はとてもいい洞察力だ。期待しているよ」
機嫌の悪い私を察して、アヌビスはそそくさと逃げるように食堂を出て行った。
調子のいい言葉と愛嬌のあるその笑顔で、部下の機嫌を取ろうとする彼の行動は、いかにも良い上司を演じ、周りにアピールしたいというその下心が見え透いていて、私にとって不愉快極まりないものだった。
仮に私がまだ勝手をよく知らない入局したてのド新人ならば、妙に敏感に女性の変化を感じ取るその嗅覚と、皮肉にも可愛らしい笑顔で、コロッとどうにかなっていたのかもしれない。
しかしもはや彼の常套手段を知り尽くしている私にとっては、上っ面だけの軟派な気遣いなど、火に油を注ぐようなものなのだ。
だいたい彼の仕事への取り組み方はとても時代遅れで、正確さと厳格さを強く求められているこのご時世に、いまだ『気合い』でどうにかなるものだと精神論を語りだすのだ。
アヌビスはこの国が出来た頃からの古株で、死者の国における入出国管理行政を管轄する我が入国管理局の創設者だ。
もちろん創設者である彼は、当局の局長にして、その優秀な手腕により私の担当する第4審査室の室長をも兼任していた。
しかし私はそのアヌビスのせいで、本来とても優雅なランチタイムを過ごしているはずのこの時間に、途切れない仕事に追われることになり、もはや数時間後にはディナータイムになろうかという時間にランチを取っているのだ。
その忌々しい元凶とも言える出来事は、先月末に局で実施された人口増加問題対策委員会で、突如アヌビスが言い出した改善提案によるものだ。
その改善案はとても熱血漢(ただの単細胞)な彼らしい内容で、審査室にて審査受け入れを行う一日当たりの死者の人数を、単純に増やすというものだった。
改善案が採用される前は、局内にある5つの審査室にて、一日当たり受け入れを行う死者の数が40名(1つの審査室にて死者8名を担当)だった。
1時間1名のペースで8時間労働。まぁ無理なく働ける適度なものだったのだ。
しかしその改善案が採用された現在は、一日当たり受け入れを行う死者人数は二倍の80名で、死者一人当たりの持ち時間30分で全ての審査を済ませるという……、それはもう遥かに許容範囲を超える数字だったのだ。
確かに入国希望者はあとを絶たない。それは理解しているし、早くなんとかしないと。という気持ちはある。
ただ、だからと言って回転率を上げるのは、少し違うと私は思うのだ。
入国審査という仕事は、客観的で公正さはもちろんだが、その内容は厳格であり確実あるべきだと思っている。さらに短く限られる時間によって、粗雑になり、冷静な判断をしかねる状況を作ってしまっては本末転倒なのだ。
だから私は受け入れ人数を増やすのであれば、それこそ新たに審査室を増設すべきだと思っていた。
しかし私はまだ室長『代理』の立場であり、一つの審査室を完全に任せられたわけではない半人前なのだ。つまり私は文句を言いながらも、それに従うほかにないのだ。
私はそんな不満を抱えながら、もさもさとサンドイッチを詰め込み、もうすっかり冷めてしまった紅茶で流し込んだ。
「室長代理! 間もなく次の死者がお越しです。そろそろお願いします」
甲冑の猫に慌ただしく促され、ゆっくりと息を着く間もなく、やれやれ。と私は重い腰を上げた。
そして私はランチの殻を手早く片づけ、念のため新調したてのチャコールグレイのバンツスーツを汚していないか姿見で確認し、首から下げていた金縁の眼鏡をかけた。
少し重い足取りでカツコツとヒールを鳴らし、私は後ろ髪を引かれる想いで食堂をあとにした。
あー、毎日毎日毎日毎日……ほんとうんざりする。温泉行きたい。
有給休暇、あと何日残ってたっけ……。
そんなことを考えながら、いつもついつい忘れてしまうネームプレートをテーブルに立てた。
――『第4審査室 室長代理 バステト』
そして私はいつものふかふかの、審査官席に腰を下ろした。
扉の向こうで何やら話し声が聞こえたので、そろそろ来たな。と感じた私は、扉の向こうに聞こえる声で叫んだ。
「次の方!」
ガチャ……。
部屋に入ってきたのは、なんとも幸の薄そうな若いの男だった。
「どうぞ。お掛けになってください」
私は向かい側の椅子へ座るよう促した。しかし何やら彼の背後にもうひとり猫がいた。
うわ……なんだこいつ……。白のスーツとかセンス悪いな……。
その白のスーツの猫は、どこか、見覚えのある猫だった。




