ライブ
「えっと、今日は皆さん来てくれてありがとうございます」
ステージで耳の後ろをかきながら彼はようやく話し始めた。
懐かしいなと思った。数年という時間では、変わらないものもあるらしい。
ぎこちなく笑う姿も、とりあえず突っ走る歌い方も、それからステージとの距離感も。あの頃のままだと。
登場から3曲も休憩なしで歌い切ったところで、彼はようやくペットボトルの水を一口飲んだところだ。
会場として選ばれたライブハウスは、異様な熱気に包まれていた。
収容キャパがせいぜい500人。メディアへの露出もちらほら始めた彼らには、規模としては異様に小さいだろう。そんなところでゲリラライブとして告知なしで急に始まったものだから、幸運にも会場入りできたファンたちは浮かれて当然というものだ。
あぁお客さんの数だけは、全く違ったっけ。
ステージ上では決して上手とは言えない進行が行われていた。何万人規模のアリーナのライブとは勝手が違うのだろうことはなんとなく想像はできてはいたけれど、どうにもぎこちない。
MCって何話せばいいかわからなくて、苦手なんだよ。歌だけ歌えるライブがあればいいのに。
昔彼は私にそう言った。確かあの時もまいったような顔をして、耳の後ろをかいていたっけ。
「じゃあ、僕たちからのささやかなプレゼントを楽しんでいってください」
会場を震わせる歓声が起こった。どうやら機材調整の時間は何とか稼ぎ終わったらしい。
イントロが流れ始めるステージの最奥で、隠れたピアノだけが所在なさげに見えた。
3日前に父から封筒が届いた。
中には便箋が一枚と、チケットだった。
チケットの詳細が目に入った時、私の顔がこわばったのが分かった。
『僕はもう許したよ』
便箋には父の字でそれだけが書かれていた。
私が彼と出会った時には、彼はもう歌を歌っていたらしい。
高校生の時、無理やり連れていかれた合コンに彼はいたのだ。あとは特別なことなんてない。同じく乗り気ではない彼と帰る方向が同じだからと駅まで送るという口実に付き合い、たまたまライブに出ることを知った。
ほかの人とは違うことをしている彼がかっこよく思い、いつの間にか好意を抱いていた。どんなに掘り下げたって安っぽい物語しかない。そんなことはないと思いたいけれど、私は案外簡単に人を好きになるらしい。
初めて行ったライブハウスはとても小さくて、それから少し怖かった。お客さんなんて彼の身内か、この後に控える本命バンドのファンばかりだろうことは、ステージとの温度差を見ればすぐに分かった。
それでも彼のステージは衝撃的だった。
正直、周りがうるさくて歌詞がどんなだったかなんてわからないけれど、人の声が好きだと思ったのは初めてだった。
大きな音ときれいな声。私が彼を好きだと自覚するには十分すぎるほどの感動だった。
結局彼との交際は、その数か月後に始まり、大学を卒業し、就職をしてもまだ続いていた。
表面上は問題はなかった。
ただ彼が歌手として、音楽で生活をすると決めたこと以外は。
結論を言ってしまえばそんな甘いものではなかったということだ。バイトをしながら音楽活動をし、ライブが近くなるとチケットを売り歩く超多忙な日々。
最後に恋人らしいことしたのは私が学生をしていた時だったし、家にいるときも中古のキーボードで練習しているのを私が眺めているくらい。
私にお金を借りることもなかったわけじゃない。もちろん翌月のバイト代で必ず帰ってきてはいたけれど、限界は感じていた。
終止符を打ったのは私の父親だった。家に呼び出し、就職か、離別かを迫った。そして彼は離別を選んだ。
そうして、その数年後にメジャーデビューを果たしたことを、彼の公式SNSで知った。
そういえばライブはあんまり好きじゃなくなってたっけな。
久しぶりに聞く彼の歌声を聞きながら、苦い笑みが浮かんだ。
彼が一番輝くのがステージの上なのだ。恋人として歌に嫉妬するくらいは、彼は楽しそうに歌う。
ちょうど今みたいに。
歌詞なんて聞き取ることはできない。それでも楽しそうに歌う彼を見ると、きっとあの別れは正解だったのだろうと、思った。
「大丈夫ですか」
相変わらず何を話そうか必死に模索している彼を眺めていると、スタッフから声をかけられてしまった。
「辛そうですが、一度外に出られますか」
「え、」
思わず声が漏れた。
そんなことなどあるわけない。久しぶりに好きな歌が聴けた。選択が正解だと認識できた。また1ファンとして彼を応援できる。
「だいじょう、ぶ、です」
声が震えていた。頬が濡れているのが分かった。
あぁ、そうか。私はまだ傷ついていたのか。数年前の傷から、血が流れているくらい。別れが正解だと、そう感じてまた傷ついたのか。もう1ファンでしか、彼を応援できないのか。
私はまだ、彼が好きなのか。
「あの、ほんとに大丈夫ですか? 一度退出していただいても再入場できますよ」
優しく声をかけてくれるスタッフの申し出を首を振って断った。
予感があったのだ。彼の声を聴くのはこれで最後だ。きっと次に聞くのは心のありようが変わった時だ、と。
「ほんとに、大丈夫ですから」
気が付くと最後の一曲が始まった。最近CMソングに起用された新曲だ。
これならばとサビの部分だけ彼と一緒に口ずさむ。二人っきりではないのは惜しいけれど、それでもいいのだ。
涙はもう止まった。化粧は落ちてしまっているだろうが、幸いここではだれも気になんかしない。
あぁ終わる。
今日一番の歓声がライブハウスを震わせた。
彼が一礼して去っていくのを見届けると、今度はアンコールが始まった。
「アンコール、ありますけどもういいんですか」
扉で待機していたのは、先ほどとは違うスタッフだった。
小さく頷く。見えないけれどきっとひどい笑顔だ。
「それはもったいない。これからあなたのステージなのに」
「え?」
「アンコールありがとうございます」
ステージでは彼が服装を変えて、申し訳なさそうに出てきた。
「まず始めに皆さんに謝罪を。実はこの最後の一曲だけは僕たちバンドとしてではなく、僕個人として歌いたいんです」
安くはないだろうジャケットに袖を通し、慣れないステージに立つ前のような緊張感をにじませていた。
「たった一人に聞いてほしい曲です。だから、どうか出ていかず、最後まで聞いてほしい」
先ほどまで後ろで居場所のなかったピアノが、大きく前に出てくる。
彼は静かに一礼すると、丁寧に椅子に座った。
もう彼から目を離すことはできなかった。
丁寧に弾き始めた彼の音は、なぜだか安っぽいキーボードの音に聞こえる。
選択を迫られた日を今でも夢に見る。
最愛と最大の夢をあの日天秤にかけた。
答えなんて一つしかなく、僕に選ぶものなどない。
たった一つしか、生き方を知らないのだから
嗚咽が漏れた。私のものか、彼のものかはわからない。
選ばれた道は僕が望んでいたものではなかった。
色のないキャンパスの上を歩くだけの日々。
まっすぐ歩けているかなんてわかるはずもない。
コンパスを失ってしまったのだから。
立ってなどいられなかった。膝をついてこぼれるままに涙はあふれた。
ただ君が好きだった。君が好きなだけだった。
目をつむって歩いていたのだと知った。
ただ君が好きなんだ。僕の傍にいておくれ。
もう手を引かれるだけの僕ではないから。
「許されるのなら、どうかもう一度この手を握ってほしい」
その声に全身が歓喜する。どれほどこの光景を夢見ただろう。その声を忘れた振りする日々がどれほどつらかっただろう。
もういっそ、出会いごとなかったことに。そう考えるたびに、その声を聴いて血を流してきた。
「今度は離さないで」
なんて日だろう。きっとひどい顔だ。化粧は崩れ、目も腫れているだろう。なによりその顔を500人近いひとに見られるなんてただの公開処刑ではないか。
「天秤にかけることすら許さない」
顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。SNSで拡散なんてされようものなら、仕事を辞めて引きこもってしまう。
顔をあげると嬉しそうな幼い表情を浮かべる彼の姿があった。
「ちゃんとあなたが幸せにして」
変わらない。何年たっても、変わらない。
「今度こそ、僕のすべてで君とともに歩もう」
ほんとなんて日だろう。でもそんなもの関係ないのだ。彼の声でどうせ最高の日々になるのだから。
僕らの出会いは運命だったんだよと、彼は高らかに歌う。
あの時、選択を迫られることも、その後の別れも。
例えば、僕が普通に就職していたら、きっと幸せに別れの知らないオシドリ夫婦になっていただろう。
例えば、僕が君を選択していたら、苦労はするかもしれないけれど、君と最後まで寄り添っていただろう。
例えば、最初に僕と出会わなければ、どこか街中ですれ違って僕が君に一目ぼれするだろうね。
ほら、あの別れは確かにつらいものだったけれど、運命だったんだ。
だから、ここから先も運命だ。僕と一緒にあの運命の続きを歩もう。
彼はそうやって今日も歌うのだ。