医者望、〇〇な一日
数年前、無事国立医大を卒業した村井 望は、今現在地元の小さな病院で内科医として働いている。
いつも多忙な医者の望だったのだが、なぜかその日に限ってはソワソワと落ち着かないほどに暇だった。
あまりにも暇だったので、仕方なく玄関前で仁王立ちしてみた。
「のぞむおじちゃ」
「むむ…………咲哉か。一体いつの間にそこにいた」
「さくや、いた」
「ちゃんといい子にしてたか」
「さくや、いいこ」
「そうか、だったらピーマンも食べられるようになったんだな?」
「さくや、たべた」
「よし、よくやった。だったら1人でおしっこも行けるようになったんだな?」
「さくや、がんばる」
「それはまだか…………はっ! 咲哉もしかしてお前、今日は1人でおじさんに会いに来たのか?」
「さくや、きた」
「そでちゅか、そでちゅか。おじちゃんずっとまってまちたよ―――――!」
「キモ。望、すっかりキャラ崩壊してるぞ」
勘違いでなければ、確か連載当初はシビアクール兄キャラとして登場していたはずの望だったが、あっという間にガラガラと崩れ落ち、甥が出来た今現在とんでもないことに成り果てていた。
「ゴホン…………おい妹、一体いつの間にそこにいた」
いつの間にか目の前に立っていたかなり引き気味の妹にわざとらしく咳払いで誤魔化す。
「いや、ずっと一緒にいたけど」
小っちゃい甥は一瞬で見つけられたのに大きい妹は一瞬も視界に入らないほど甥を溺愛してやまない望は、再びゴホンと無駄に咳払いし表情をシビアに引き締めた。
「おい馬鹿妹、突然帰って来るな。俺はいつも忙しい」
「ふーん……そうだったんだ? お父さんとお母さんは?」
いつも突然帰ってもいつも玄関前で仁王立ちしているのに忙しいらしい兄に、妹が不思議そうに首傾げながら両親の所在を尋ねる。
「ただいま旅行中だ」
両親は連休を利用し、ちょうど仲良く温泉旅行中だった。
「そういうわけで俺は忙しい。俺の邪魔をするな」
「のぞむおじちゃ」
「なんでちゅか、なんでちゅか。おじちゃんはここにいまちゅよ――――?」
「おちっこ」
「おちっこでちゅね、そうなんでちゅね。おじちゃんといっちょにおトイレいきまちょね――――?」
大変キモい望はそのまま甥を抱っこすると、慌ててトイレに駆け込んで行った。
「おい妹、どうして突然家に帰ってきた」
両親不在をいいことに、なぜか茶の間のテーブル前で腕を組み威張り始めた望は、向かいに無理やり正座させた妹を厳しい表情で見つめた。
「3日に1回は帰ってこないと永遠にラインスタンプ送りまくって嫌がらせするのは望じゃん」
「そんなこと今はどうでもいい。俺にも都合がある」
「のぞむおじちゃ」
「なんでちゅか、なんでちゅか。おじちゃんはいつでもここにいまちゅよ―――?」
「望、本当にちゃんと仕事してんのか……?」
医者のくせに暇だ暇だと思っていた兄が最近とにかく家にいるので、妹はひどく訝しがり始めた。
「勘違いするな、俺は医者だぞ。寝る間も惜しんで働いてる。それで、どうして今日は突然帰ってきた」
「うん、まあ……ちょっと話があってさ……………咲哉も望に会いたがってたし」
「のぞむおじちゃ」
「そなんでちゅね、そなんでちゅね。おじちゃんもすっごく会いたかったでちゅよ―――? それで突然の話とはなんだ」
膝にしっかり抱えて絶対離さない甥に無駄にしつこくブチュブチュしまくると、再び向かいの妹を厳しく見つめた。
「うん……まあ、実は………………へへへ」
「だらしないぞ妹! 何だその締まりのない表情は!」
「ふえ、のぞむおじちゃ……」
「おこってまちぇんよ――? おじちゃんはいっつも笑顔でちゅよ――? それで一体何があった」
愛する甥に絶対嫌われたくなくてひどく締まりのない表情のまま、再び妹に厳しく問い詰めた。
「じ、実はさ……えっと…………その」
「キモいぞ妹! らしくもなく何をもじもじしてる!」
「ふえ……」
「おじちゃんはいっつもクネクネのふにゃふにゃでちゅよ――――? それで一体どうした妹」
愛する甥の為にタコにまで成り下がった望は、タコのまま妹に再び厳しく問い詰めた。
「じ、実はさ…………ふた」
「ふた? 蓋がどうした。もったいぶらずにさっさと言え」
「実はさ…………2人」
「今度は2人か。蓋はどうした。急に話を変えるな。さっさと言え」
「実はさ……2人目がね」
「何だ、2人眼鏡とは。ふざけるのもいい加減にしろ!」
「ふえ……」
「おじちゃんは2人眼鏡でちゅよ――――? それで一体話とはなんだ」
「さっさと喋らせろよ!」
愛する甥の為にタコになりながら2人眼鏡にまで成り下がった望に、激しく妹が突っ込んだ。
「2人目がね、出来たんだよ」
「そうか、出来たのか………………それで結局2人眼鏡とは何だ」
愛する甥の為に2人眼鏡にまで成り下がったくせに今だ2人眼鏡を知らない望は、2人眼鏡とは何かを恥を忍んで妹に尋ねた。
「望、お前もしかして天然だったのかよ……」
今まで散々兄に馬鹿だ馬鹿だと馬鹿にされ続けた妹は、馬鹿ゆえに今までまったく気付けなかったが、この日とうとう兄が天然馬鹿だったことにようやく初めて気付かされた。
天然とポンコツ、結局似たもの馬鹿兄妹である。
「赤ちゃんだよ、赤ちゃん」
「あかちゃん…………それは2人眼鏡の新種か。それとも新商品か」
「もう2人眼鏡は忘れろよ! お腹に赤ちゃんが出来たんだよ」
いつまでも2人眼鏡が忘れられないほど気に入ってしまった望にはっきりと妹がつっこみ報告した。
「赤ちゃん…………つまり出来たのは2人眼鏡じゃなく赤子だってことか」
「うん……そう」
「おいポンコツ馬鹿! ふざけるのもいい加減にしろ! 赤子なら赤子だと最初からそう言え! なんだ2人眼鏡とは!」
「おい天然馬鹿! お前が勝手に勘違いしたんだろ!」
生粋の天然馬鹿だった兄が勝手に2人眼鏡が出来たと勘違いしたくせに結局赤子だと知り激しく怒り始めたので、妹もカチンと頭にきて激しく激怒した。
天然馬鹿VSポンコツ馬鹿の馬鹿馬鹿しい馬鹿兄妹喧嘩である。
「赤子か………………ふん、また世話の焼ける」
まだ何も頼まれちゃいないのにすでに子育てする気満々の望は愛する甥を膝に抱えながら体を揺らし、すでにウズウズし始めた。
「それでさ…………まだ咲哉も小さいし、子供が生まれたらこっちに戻ろうかと思って」
「む………どういうことだ」
「お父さんからも前から言われてたんだよね、お前は馬鹿だから2人目が出来たら戻ってこいって。幸いここは広いから部屋も十分余ってるしさ」
「つまり…………ここで暮らすってことか」
「うん、そう…………望、だめか?」
「つまり…………別れるということか」
「別れる……? うん、まあ今のマンションは出てくけど」
「そんなこと絶対許さんぞ! 一体俺がどれだけお前達の世話で苦労したと思ってるんだ! 心配で心配で彼女の1人すら作ることができなかったんだぞ!」
「作れよ! 逆に怖いわ!」
「駄目だ駄目だ、絶対却下だ」
「でも! お父さんとお母さんはそうしろって!」
「俺が許さん!」
「邪魔しないから!」
「絶対駄目だ!」
「嫌だ! 絶対帰ってくる!」
「俺が家に入れさせん!」
「無理やり入ってやる!」
天然VSポンコツ、話がまったく食い違っていることにエンドレスでまったく気付かない本当に馬鹿馬鹿しい馬鹿兄妹喧嘩である。
「ぱぱ、きた」
「お前達…………外にまで兄妹喧嘩がまる聞こえだぞ」
「あ、お帰り尚哉! ちょっと聞いてくれよ、望が!」
「おい尚哉、こっちに座れ」
望は甥があっさりと父親の元へ駆けて行ってしまったのでひどく不機嫌になりながら、たった今帰ってきたばかりの友人をテーブル前に座れと厳しい口調で命令した。
「何なんだ? 一体……」
「おい尚哉。お前は本当にそれでいいのか」
「…………ああ、その件か。俺も桜に賛成だよ。俺は次男だし、うちの両親もその方が安心できるって」
「お前はそれでも本当に男か! 引き止めろ!」
「……は? いや、俺は桜の気持ちを大事に……」
「まだそんなことを言ってるのか! 一体いつまでお前はウジウジと片思い気分でいるつもりなんだ!」
「ウジウジ片思い…………確かに俺はそうだった。意気地がなくウジウジといつまでもチャンスを待つことしかできなくて…………でも、それは桜に嫌われるのが怖くて…………」
「まだウジウジ言うか! お前は女心が全然わかってない! ガッとしてギュッだ! ガッとしてギュッ! これで女は一発コロリだ」
「のぞむおじちゃ、いたい」
たいして経験も少ないくせに身振り手振り友人に恋のアドバイスを施したついでに父親から引き裂こうと、無理やり愛する甥をガッ!と引き寄せギュッ!と抱きしめた。
「いいか尚哉、妹を引き止めたければ今日から1日5回ガッとしてギュッだ。わかったか」
「やめろよ望! 尚哉は全然悪くないんだよ! 毎朝いっつもギュッ!としてくれてるもん!」
「ギュッ! じゃ足りないんだ! ガッ! だ! ガッ!」
「尚哉は帰ってくると真っ先にギュ―――――――――だもん!」
「だったらガッ! ガッ! ギュッ! ギュッ!
ギュ―――――――――――――――――だ!」
「尚哉は毎晩もっとすごいよ! ギュッ! ギュッ! ギュッ!
チュ―――――――――――――――ガッ! バタン! だもん!」
「もうやめてくれ2人とも…………それ以上言わないでくれ」
天然VSポンコツ、聞いているのも恥ずかしくなるほど馬鹿馬鹿しい馬鹿兄妹の馬鹿なやりとりである。
「のぞむおじちゃ、ばいばい」
「バイバイ咲哉たん…………おじちゃんのこと絶対に忘れないでくれ」
また3日後会えるくせに泣く泣く愛する甥を渋々手離した望は、玄関外に佇む妹夫婦を見つめた。
「妹よ……身体には気を付けろ。絶対道路に突っ込むな。川にも飛び込むな」
「一体いつの話だよ……………ありがとな、お兄ちゃん」
「おい尚哉、妹と子供達をよろしく頼んだぞ」
「ああ、わかってる…………いつもありがとな、望」
「仕方ないから春から俺も一緒に面倒見てやる。安心して戻ってこい」
ようやく妹との誤解が解けた望は、春から戻ってくる妹家族に呆れながらも仕方なく受け入れることにした。
妹夫婦と一緒に帰って行く甥と手を振り合いながら別れると、小さく息を吐きようやく家の中に戻った。
「ふふふん」
春からの甥との新生活を待ちわびながら、望はようやく医者らしくこれから仕事に行くため忙しく準備を始めた。