【編ノ七】ひねくれサンタと少女の聖夜 ~袋下げ~
「チッ…降ってきやがった」
どんよりと曇った空は、その身に抱えた冬の寒さに耐えかねたように、白い欠片を吐き出し始めた。
この根性なしめ。
これで風邪でもひいたら、どうしてくれようか。
胸の中で悪態をつきながら、俺…狟下 宝太は、ねぐらである安アパートを目指す。
今年一番の寒気とやらが、ここ降神町に到達して三日目。
遂にこの町にも初雪がお目見えって訳だ。
舞い踊る白い雪に、俺は再度舌打ちした。
くそったれ。
この雪じゃ、明日の現場はろくすっぽ動かねぇだろう。
下手すりゃあ、休みかも知れねぇな。
どうやら、神様はこの日雇い仕事専門の貧乏暮らしに、ささやかな日当すらケチる気らしい。
世間はクリスマスとかで浮かれてるってぇのに、この俺にはチキンの骨程度の幸せもないっってことかよ。
何が「清しこの夜」だ。
こちとら「飢えしこの夜」だっつーの。
そう考えると、思い出したように腹が鳴った。
ここんところ、切り詰めていたからパンの耳くらいしか口にしていない。
そろそろ、パンの耳をかじっただけで「こいつは、あのパン屋のだな」とか言い当てられそうなくらいだ。
「ん?」
空きっ腹をなだめながらアパートの前まで来ると、白い世界に赤い色彩があった。
女の子だ。
小学生に見えるそのガキは、陰気な面を空に向け、アパートの塀に背中を預けて一人佇んでいる。
俺は小さくため息をついた。
このガキは同じアパートの一階に住んでいる。
毎朝仕事に行く時に、通学路をトボトボ歩いているこのガキを、俺が追い越していくのが習慣になっている。
なので、顔見知りではあるが、声を掛けたことも掛けられたこともない。
別段、親しくなる必要のない相手だし、このご時世に下手に声を掛け、変質者扱いされても厄介だ。
何よりも。
俺はこのガキが嫌いだった。
顔が陰気だ。
態度も陰気だ。
身なりも陰気だ。
大事そうに抱えている草臥れた人形が陰気だ。
そして…その目が一番陰気だった。
普通、ガキってのは、むやみに好奇心を発揮し、周囲の迷惑も顧みず、ただやたらと騒がしい。
が、このガキからはその一切が感じられない。
大人しいのはいいし、騒がしいのが苦手な俺には都合のいいガキだが、そんな面を毎日朝一番で拝むのは、どうにもウザい。
だから、この時も俺はこのガキを無視した。
その前を通り過ぎ、二階にある自室へ向かう。
いつもなら、それで終わる邂逅だった。
が、不意にそのガキが口を開く。
「お帰りなさい」
俺は思わず足を止めた。
振り向く俺の視線と、ガキの視線が真っ向からぶつかった。
おいおい。
勘弁しろよ。
こっちは疲れている上に、腹も減ってる。
だから、そんな死んだ魚のような目で見るな。
ただでさえ鬱屈してるのに、自殺したくなるだろうが。
「ああ」
内心とは裏腹に、俺は応じてしまった。
アホか、俺は。
こんなガキの他愛のない気まぐれに、何で付き合わなくちゃならないんだよ。
「…入らないのか?」
またも内心とは裏腹に、俺の口が動く。
俺の視線はこのガキの部屋の扉を見ていた。
それを追ってから、ガキは小さな声で言った。
「…うん」
「風邪ひくぞ」
「…うん」
ケッ…
何て陰気さだ。
この冬空さえ晴天に見えてくる。
「雪、見てたの」
「そうか」
俺は踵を返した。
いい加減、うんざりしてきた。
体の芯も冷えてきたし、早くひとっ風呂浴びたい気分だった。
そのまま階段を上る。
声は追ってこなかった。
ドアを閉める寸前、ガキは自分の手に息を吹きかけているのが見えた。
同時に、その手に残る痣も。
俺は無言でドアを閉めた。
それで、陰気な空気とはおさらばした。
その夜遅く。
階下から、男の怒鳴り声が聞こえてきた。
小さく、悲鳴とすすり泣く声も。
せんべい布団と畳を通して、冷たい空気みたいに横たわる俺の耳に染み入ってくる。
「うるせぇな」
そう一つ呟くと、俺は目を閉じた。
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開けて朝。
世界は予想通り銀世界だった、畜生め。
携帯にはメールが一通。
「雪かきをやる」だとよ。
ため息をつくと、俺はゆっくり着替えた。
コケないように階段を下りると、あのガキの部屋のドアが開いていた。
このクソ寒いのに。
前を通ると、あのガキが玄関に立っていた。
目と頬が赤く腫れている。
あのくたびれた人形は無かった。
俺は目を逸らして通り過ぎようとすると、
「いってらっしゃい」
と、小さい声がした。
俺はその声を世界の中から遠ざけた。
現場に向かうと、威勢のいい連中が既に雪かき真っ最中だった。
親方が、おっとり刀でやって来た俺に、臆面もなく笑って言った。
「すまねぇな、せっかくのクリスマスによ」
それに適当に応じながら、俺は飯場に掛かっているカレンダーを見る。
そうか。
今日は「清しこの夜」か
道理で、町中も騒がしい訳だ。
途中で出会った親子連れやカップルの姿が脳裏によみがえる。
同時に、例の陰気な面も。
俺は小さく舌打ちした。
ああ、本当にウザい。
何もかもが、ウザくてたまらなかった。
こういうムシャクシャした時は、体を動かすに限る。
俺はタンクトップ一枚になると、目を丸くする親方に告げた。
「現場、入るッス」
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薄暗くなる頃、ようやく雪かきが終わった。
薄着一枚だったが、体がカラカラに乾いていた。
やべぇ。
両手が痺れてら。
散々スコップを振るい、酷使しすぎた代償だ。
いつもは見せないがむしゃらな俺の姿に、同僚達は最初呆れていた。
が、いつの間にか触発されたのか、上半身裸で雪かきに挑む者も出始め、現場は異様なノリになった。
知らねぇ。
俺は何もしてねぇ。
そう言う俺に、何を勘違いしたのか同僚達は色んな言葉を掛けていった。
あんまり詳しく説明すると、尻がムズ痒くなりそうなので、言わないけどな。
そんな感じでさっさと帰ろうとする俺達を、親方が引き留めた。
「皆、よく頑張ってくれたな。コイツは俺からのクリスマスプレゼントだ」
そう言うと、親方は一人ひとりに厚めの封筒を手渡した。
中を覗くと、そこそこの札が入っていた。
同僚達から歓声が上がる。
「よう、お前も来いよ。コイツで一杯飲ろうぜ?」
一人の同僚がそう声を掛けてくる。
俺はでかいジョッキに注がれる金色の輝きを思い出し、思わず喉を鳴らした。
へっ。
それもいいか。
「そうだな…」
俺はくすんだ赤い安物のコートに袖を通した。
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夜になり、雪はまた町に降り注いだ。
それを自宅のアパートの前に一人立ち尽くし、少女は昏い瞳で見ていた。
背中に当たる電柱の感触が、少女の心を僅かに支えていた。
寒かった。
手はかじかんで、ポケットの中で痛みを訴えている。
傷んだ靴は、夜の冷気を素通りさせ、つま先を痛めつけていた。
思わず背後のドアを見たくなる。
あの中でなら、ここよりは寒さをしのげるだろう。
だが、少女にはそれが出来なかった。
中に入れば、新しい父親が、容赦なく自分をいじめるだろう。
守ってくれる筈の母親は、今日も夜の街で働いていて不在だ。
くう、とお腹が鳴いた。
今日は朝から何も食べていない。
母親が用意してくれた朝食は、残らず捨てられていた。
誰がやったかは、言うまでもない。
が、それを口にすれば、また酷い目にあわされるだろう。
凍える少女の前を、家族連れが通り過ぎていく。
父親と母親、そして自分とそう変わらない年の女の子が一人。
皆、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
少女は思う。
「何で、自分はあんな風に笑えないんだろう」と。
今夜はクリスマスだ。
きっと、たくさんの人があんな風に幸せな笑顔に包まれている筈なのに。
何で、自分はこんなに…
『下を向くんじゃねぇよ』
不意に。
俯いていた少女に、そう声が掛けられる。
少女は慌てて周囲を見回すが、周囲には誰もいない。
電柱の街灯が、寂しく少女を照らしているだけだ。
『辛くても上を向いてろ。少なくとも、涙が流れ落ちるのはこらえられるだろ?』
再び声。
逃げ出そうとする少女の目の前に、スルスルと白い袋が降りてきたのはその時だった。
ビックリする少女へ。
『メリークリスマスだ、クソガキ。とっとと受け取れ』
ぶっきらぼうな声に押され、少女は恐々と袋のひもを解いた。
その中には…
「うわぁ…」
思わずそう声を上げる少女。
見ると、袋の中には可愛いクマのぬいぐるみやおいしそうなケーキの箱、その他にもたくさんのお菓子などが入っていた。
『三日我慢しろ』
あふれんばかりのプレゼントに呆然となる少女へ、声が続ける。
『そうすりゃあ、降神町役場の連中が、お前を助けに来る。そこで全部を話せ』
少女が袋が降りてきた方…電柱の上へ目を向ける。
が、見通せるはずの電柱の先は、妙な暗闇が邪魔をしていて、声の主の姿を覆い隠していた。
「あなたは…だれなの?」
少女の誰何に、声の主は少し沈黙した後、
『サンタに決まってるだろ』
その声と共に、暗闇が薄らいでいく。
後にはプレゼントに囲まれた少女だけが残された。
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翌朝。
俺はまた舌打ちをした。
昨晩降り続いたであろう雪は、昨日の俺たちの努力を見事に灰燼に帰してくれた。
そして、今日もおなじみのメール。
昨日と違うのは「今日も期待している」という余計な一文だ。
ああ、畜生。
クリスマスのアホめ。
空気を読んで雪なんか降らせるんじゃねぇよ、まったく。
俺は生乾きのくたびれた赤いコートに袖を通す。
階段を用心しいしい降りると、赤い色彩と出くわした。
いつもの陰気な目が俺をとらえる。
チッ。
また、あいつか。
俺は無視を決め込むことにし、ガキの前を通り過ぎた。
その時、
「いってらっしゃい」
ガキがそう告げる。
昨日と同じ台詞だった。
しかし。
チラリと見た俺の目に、朝日を反射してきらめく雪に照らされた、ガキの笑顔があった。
「おう」
何故か、急な対抗心が芽生える。
俺はニヤリと笑い返した。
へへ、目を目を丸くしてやがる。
遠ざかる俺の背中に、ガキがクスクス笑う声が届いた。
俺は晴れ渡った青い空を見上げた。
「やりゃあ出来るじゃねぇか」
誰とはなしに、そう呟く。
ま、それならクソ寒い中、妖力を使った甲斐があったってもんだ。
例え、袋をただ下げるしかない能力とはいえ、誰かを笑顔に出来るなら、無いよりはマシだろう。
俺は携帯電話を取り出し、登録された番号に電話をかけた。
「はい、降神町役場特別住民支援課です」
とっぽい男の声が応じる。
「あ、俺だ。狟下だよ“袋下げ”の」
「ああ、狟下さん!お久し振りです。お変わりないですか?」
昔、世話になった役場の兄ちゃんが、嬉しそうな声を出す。
へっ、人間の癖に。
さては、妖怪好きは相変わらずか。
「まあな、ボチボチやってるよ」
「それは良かった。僕の方もボチボチです」
本当にうれしそうな声を出すな、コイツは。
セミナーでも落ちこぼれで、ろくでなしだった俺からの電話なのに。
「で、どうしたんです?こんな朝早くから」
俺はもう一度晴れ渡った青空を見上げた。
「あんたに頼みがあるんだ」
身を切るような寒さの中だが、陽は暖かく俺を包んでくれた。
それは。
かつて、同じ妖怪の仲間達と共に役場のセミナーで過ごした、あの毎日のようだった。