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あんなことがあった後もリサにも、その肉体にも変わった様子はなかった。
もしかしたら、とも思ったのだが。
笑い、驚き、拗ねる。
リサと共に過ごすようになって彩り豊かで鮮やかな日々になった。
孤児院にいた子供の頃にはそんなことを思う余裕はなかったが、長い間ずっと一人孤独の中にあったケインにとって、〝独りではない〟ということでこんなにも物事が色鮮やかに写り、感情の起伏を伴い、安堵感をもたらすものだとは思わなかった。
ケインは初めて、他者と共にいる幸福というものを感じた気がした。
どうしたら惹かれずにいられただろうか。
堰を切るように加速していく思い。
なにごともなく普通であるのが一番だとは思うが、ただ日々を過ごごすということと、日々を生きるということの違いをまざまざと思い知らされた。
厭世的な生活を送る日々。
この国で自分たった一人が動いたところで、なにも変わりはしないだろう。それでも、誰かの心に楔を打ち込むことができたのではないか、足掻くことをしてみてもよかったのではないか、リサを見ていてそう思うようになった。
自分はただ、どうしようもない現実から目を背け逃げ出しただけだったのではないか、と。
その身に触れようとしてもすり抜けて温もりを感じることもできず、声を聴くことも叶わない。
それでもその動きから温度を感じ、その表情のひとつひとつが言葉にするよりも雄弁に気持ちを伝えてきた。
こんな毎日がずっと続けば、と願わずにはいられないほど幸せだった。
だからこそ、ケインはリサを失うことをとても恐れていた。
元々この手にしているものがとても少なかったために、一度手中に納めてしまうと手離すことなど考えられるはずもなかった。
肉体が目覚めた時か、あるいは記憶を取り戻した時か。
そうなった時にリサの中にケインは存在するのか。
いつ失ってしまうのか、迫りくる恐怖感や焦燥感に思い悩み、葛藤する日々。込み上げてくる気持ちを抑えられずに、散々挙動不審な言動と行動を幾日も繰り返した。
今の関係を変えたくない。だけどもっと近づいて安心感が欲しい。そんなジレンマに苛まれる日々だった。そしてケインはそのことに耐えきれなくなり、不意に思い出した、ただ一度子供の頃に目にした男女が生涯を誓う儀式。それをリサとしてみたいと思った。
リサの様なこの世ならざる存在でも、特別な宣誓の言霊なら自分の傍らに繋ぎ止められるかもしれない、という考えからだった。
散々思い悩んだが、〝夫婦〟の誓いを交わし今より距離を縮めてみないか、とリサに言ってみることにした。
リサがそのことの意味をきちんと理解できるかは甚だ疑問ではあったし、このことが非常識な選択だということは、よく理解していた。
本当の意味で〝夫婦〟になることが叶わないであろうことも、不安感が払拭されないであろうことも、わかっていた。
それでも、自分の身勝手だと重々承知していても、もう手段を選んでいられる心の余裕はなく、藁にも縋る思いだった。
リサにとってはケインしか頼れる人間がいないこの状況下、それを承知の上で無知につけこむ形だ。赤子の手をひねるように簡単であろうことが予想できる。
束の間のまやかし、簡単に解けてしまう絆とわかっていても、それを欲してしまった。
言葉を使わないリサを言葉で縛る。なんとも皮肉なことであり、浅はかな願いでもある。
そんなものに縋らざるをえないのも、ケインの脆弱さ故だった。
「……リサ」
窓際で外の様子を見ているリサに、躊躇いがちに呼び掛ける。
無邪気な笑みを称えた表情で振り向き、尋ねるように子首をかしげたリサから全幅の信頼感や期待が読み取れて、これから自分がしようとしていることに胸がいたむ。
ケインがすることは自分の望んでいることのために、リサにそうと悟られないように犠牲を強いることになる。顔に力を入れて、罪悪感から変に歪みそうになる表情を引き締めた。
「リサ、あのな、俺はリサともっと、ずっと一緒に居たいと思う。だから、……」
押し出した声は低く掠れていて、自分にとっても耳障りだった。
「そうするために、夫婦に、なる必要があるんだ」
リサは不思議そうにしている。
案の定というべきか。夫婦の意味が分からないようだ。
初めて大切だと思った存在を、こういう形でしか繋ぎとめられないと思う自分が哀れなのか、それとも信じる〝核〟がケインしかないリサこそが哀れなのか。
どのくらい沈黙を通しただろうか。
……やはり間違いだ。
何度も目の当たりにしてきたリサの無条件で自分を信じきる様子に、その瞳に、やはり違うと思った。
そんなことをして許されるはずはないし、本当に願うのは……。
ケインは奥歯を噛み締め、告げた言葉を撤回しようとした。
しかし口を開きかけたケインを遮ったのは、当のリサ本人だった。
ケインの腕を抱え込む仕草で首を上下に何度も動かし、ケインをキラキラとした瞳で見上げている。
「……夫婦、の意味がわかるのか?」
もしやと思いリサの顔を覗き込むような姿勢で問うが、首を横に振り否定の意を表した。
それならば、
「……俺とずっと一緒に居たい?」
再度の問いには驚くほど大きな仕草で頷いた。
その様子につい先程決めたことが簡単に揺らぎ、決心を翻される。
思い寄せる存在に好意を示されて動じず、流されないほどケインは人間性ができていない。
ごくりと唾を飲み込む音が、一際大きく聞こえる気がした。
「……夫婦になると宣誓すれば、ずっと一緒に居られるんだ。して、みないか?」
これにもリサは嬉しそうに大きく何度も頷いた。
やはり騙しているような罪悪感に駆られる。
だけど今度はもう、後には引けなかった。
ケインはリサから体を引き離し、触れることの叶わないその手を両手で包むようにした。
そして、昔子供の頃に一度だけ見た光景を思い浮かべ、その言葉を紡ぐ。
「私は、病めるときも健やかなるときも、生涯リサと共に在ることを、誓います」
少し記憶にあるのと違うような気もするが、こんな苦い気持ちでこの言葉を宣誓するのは自分ぐらいだな、と自然と表情が苦笑いに歪む。
しかしリサにそうと悟られないように顔に力を入れ、気持ちを立て直した。
まだ終わりではない。
「リサ、目を閉じてくれないか」
素直に従ったリサの背にあわせて屈み、ケインも目を閉じてその唇に唇をそっと重ねた。
誓いの口づけは当然ながら、温もりも空気に触れるような感触でさえも感じられず、また伝わることもなかった。
リサは何をされたのかさえ、分かってないだろう。そのことに虚しさを感じる身勝手さに、自分を責めたくなる。
屈んでいた上体を起こし、顔を上げ目蓋を開く。
「……もう目を開けていい」
押さえた声で囁くように告げると、やはり不思議そうな表情をしたリサ。
そのことや、甘く夢見てたその瞬間、その唇の吐息にすら触れることも叶わなかった。それらの事をせつないと思ってしまうことに自分の欲の深さを思い知る。
勿論その後の生活は何ら変わることはなく、一人芝居のままごとのような日々が過ぎていった。