Sequence,1 『縁』 1-3
――原諏訪はヤマの中腹。
人間はほとんど通りかからず、ましてや日没後ともなれば尚更だ。したがって、妖怪達が“死の沢”と呼ばう小さな沢から聞こえてくる歌声を聞いているものは皆無である。
「ふん、ふふふん、ふふん、ふふふふ~」
流れる鼻唄は、華麗な音階をなぞり、ヤマの闇に溶けてゆく。
「ふんっ、ふふっふふん、ふふ……」
もう一つの音の流れはたどたどしい。聞くものがいたとしても、鼻で笑って歩き去るだろう。
「うのちゃんはお歌が下手だね~」
「お母さんが上手すぎるだけだもんっ。わたしだって、いっぱい練習すればーっ」
「いっぱいいっぱい、練習しなきゃねー」
「うんっ。お母さんが教えてくれれば、大丈夫なのっ」
「そうだねー。うのちゃんは狩りもすぐに上手になったし、きっとお歌も上手になるよー」
「うんっ!」
死の沢を根城にする妖怪がいる。より正確には、死の沢の脇にある小さな洞窟が彼女達の住まいである。河鼠実利と娘のうのだ。彼女達は人間を喰らう、人喰い妖怪だ。
洞窟の中では、小さな灯りがともっている。実利とうのには十分すぎる灯りだ。洞窟の奥では、足を吊るされた死体がある。首はなく、鋭利な切断面からは血がぽたり、ぽたり、と垂れ落ちる。大きな甕に、ぽたり、ぽたり。
血は理想的な栄養食品だ。人間が生きてゆくために必要な要素が全て詰まっている。それも、過不足なく、だ。そのまま飲んでよし、調味料に加工してもよし。まさに万能。強いて欠点を上げるなら、うのに古い血を飲ませると身体を壊すということくらいだ。
母は手で肉を捌き、石を積んで作った小さな竈の鍋に肉を入れてゆく。人間の食べられる内臓だ。娘は母の歌を真似ながら、摘んできた山菜をどこからか拾ってきた包丁で食べられる大きさに刻んでゆく。
妖怪の河鼠実利は、調理など必要せずに生でも肉を食べられる。だが、人間のうのはそうはいかない。何故だかしらないが、生肉は人間に毒らしいということは長い子育て生活の中で知ったことだ。実利が生で食べれば、うのが真似をしてしまう。だから、母子で肩を並べて調理するのだ。
「お母さん、のどかわいたよー」
「いいよー。今日はごちそうだからねー。無礼講だよー」
「わーいっ」
うのは包丁をまな板に突き立てると、柄杓をとっつかんで甕から生血を掬う。こく、こく、と飲み干し、
「うまーい!」
もう一杯。
生血は鮮度が肝心だ。半日も立たずとうのには飲めなくなってしまうのだ。柄杓を甕の縁に置くと、たたた、と調理場に戻る。
「口の周りに血がついてるよー」
と、実利が布で口を拭いてやれば、うのはくすぐったそうに顔を引いた。
こうした肌の触れ合いが実利にも、うのにも心地よい。二人が家族としての絆を強く感じるのは、二人で触れ合って笑っている時なのだ。
うのは笑っている。実利も、だ。
刻んだ山菜を鍋に放り込み、うのは実利の腰に抱きついた。
「うのは大きくなっても甘えん坊さんだねぇ」
「うんっ」
すりすりと母の腰に頬釣りしながら、うのは甘えた声で母に頷く。
実利は娘の頭を撫でてやり、それから、突き出た大腿骨をY字の金具に引っ掛けてある炙り腿を大皿に移した。人間の腿ともなれば、多少ははみ出てしまうが仕方がないだろう。人間の腿肉は特に美味い。人間一人分の体重を支える部位であるが故に、筋肉が発達しているからだ。女のそれは適度に脂肪分が乗っていて柔らかく、尚美味い。
本日の河鼠家の食卓は、豪勢なものだ。人間が獲れることは滅多にない。ここ最近が少し異常なだけだ。春の残雪が消え、夏になればヤマに入ってくる人間は少なくなる。人間が陰陽師を連れていれば実利の手には負えない。獲物がふらふらと無防備にヤマに入ってくるのは、たまたま今季の冬が長引いたお陰なのだ。
実利はその事を重々承知している。だからこその、連日の人間狩りだ。愛するうのには美味しいものを食べさせてやりたい、という親心である。
腿の炙りに、山菜と肩肉の煮込み汁。とろける様な乳房の似姿。食後には木の実と目玉の盛り合わせ。本来ならば滅多に食べられないようなご馳走だ。
「うずうず」
「口で言うもんじゃないのよー」
「じゅるり」
「それもー」
二人して、席に着き、手を合わせる。
「いっただっきまーすっ!」
「はい、お上がんなさいー」
幸せそうに肉を口いっぱいに頬張るうのをみて、実利もまた顔をほころばせるのだった。
人喰い妖怪と、人間の少女の運命が交わったのは、今から九年ほど前のことだ。
もともと河鼠実利は、加賀では名の知れた妖怪だった。加賀は大きな街だ。食うには困らないが、大きな街であるが故に妖怪に対抗できる手段を持つ人間も多い。ある日、実利は狩りをしくじった。一般人を装った陰陽師に、滅殺されかけたのだった。
――加賀にはもういられない。
恐怖に駆られた実利は、加賀をほとんど勢いだけで走り出た。
ところで、妖怪達の間では古来から持て囃された土地がある。原諏訪だ。日ノ本全体の霊脈の帰結する場所、原諏訪。あそこならば、力の弱い実利でも、恩恵を受けることができる。実利が目指したのは原諏訪だ。
「ふえええええええっ! ふぇぇえええええええぇえん!」
その道中のことだ、実利が赤ん坊を見つけたのは。可愛らしく、ぷくぷくとした頬は、食べる前から実利の頬が落ちてしまいそうなほど美味しそうだった。
「うっふふー。捨て子かぁ。美味しく食べちゃえそうだなー」
道中、ほとんど飲み食いをしていなかった実利にとって、赤子は神が与えた祝福のようにさえ思えたものだ。……しかし。
「ふぇええ、ふぇ、ぐじゃッ……ぐじゅっ」
と、赤子が辛そうに急き込んだ。
「……痛んでるのね……」
置き捨てにされているのだ。故なく捨てられることなどありえないだろう。大方、食うに困る貧乏百姓か、色町の貧乏女が望まずに生んでしまったために捨て去ったのだろうと、容易に予測がつく。当時は関ヶ原前であり、今以上に戦乱の火種が燻ぶっていたのだ。
「これじゃあ、食べられないー」
実利は捨てて行こう、と思った。食べられないのでは仕方がない、と。
「ん、んん?」
が、実利にも智慧はある。
……病気ならば、治してから食べればよいではないか、と。
「名案だねー。これも普段の行いが良いからかなー、うっふっふー」
赤子を拾い、原諏訪まで一緒にゆくことにしたのだ。
あくまで非常食として、だが。赤子は這って歩けるようになった程度であり、少女の姿の実利でも十分に連れて歩ける大きさだったのも赤子の命を助けた一因である。
赤子の風邪は、なかなか引かなかった。昼は背負いって山道を抜け、本来の実利には必要のない薪を集めて暖を取ってみたり。人間の振りをして行きがかりの農家を訪ねては、乳を分けてもらう。何度も何度も赤子を捨ててゆこうと思った。
強大な妖怪に襲われた時。人間の猟師に追われた時。逃げ回るのに赤子は邪魔だ。だが、一度捨てても二歩とゆかぬ間に戻り、赤子を胸に抱いた。全ては非常食のためだ、と実利はその都度自分に言い聞かせて。
旅の途上、ある日のことだ。
実利が一時の寝倉としていた洞窟に赤子を残し、自身は狩りに出かけていた。このころの赤子は、乳離れをし、柔らかいものを食べるようになっていた。また、実利も空腹の限界を感じての狩猟である。が、その日実利は獲物に遭遇できなかった。このこと自体は別に嘆くほどの話ではない。獲物に出くわさない日の方が多いのは狩猟では当たり前だからだ。ただ。帰ってみれば。
――洞窟においてきた赤子が、いなくなっていた。
(――やっちゃったなー。お昼の間に、這ってどこかに行っちゃったのかなー)
山は危険に溢れている。人間に見つかればまだマシと言えるが、山の住人にしてみれば赤子は上質なご馳走である。妖怪のみならず、野犬や猪に熊。彼らにとって人間の子供とは、柔らかい肉に、噛めば崩れる柔かな骨。舌鼓を打つのにこれほど適した素材は他にない。量が少ないので物足りないが、美味しいものとは、えてして食べ足りなく感じるものだ。
実利は僅かに逡巡した。山には実利よりも遥かに強大な妖怪がうじゃうじゃいる。その上、人間と交わったせいか彼女自身が妖怪として格段に弱まっている。逃げた非常食を追うには危険が大きすぎる。しかし、実利は探しに出た。今まで投資した分、赤子にそれなりの執着があったのだ、と自分に言い聞かせながら。
幸い、赤子はそう離れたところには行っていなかった。実利の足で十分ほど歩き回った時に、いつもの元気な鳴き声が聞こえてきたのだ。
「……あああああああん! まんまぁあああ!」
それと、もう一つの声。
「おー、よちよち。おかーちゃんと離れちゃったのけー。だいじょーぶ、だいじょーぶ」
赤子をあやす、人間の声。
赤子を抱きかかえ、一人の女――おそらく、山菜摘みをしていたのだろう、籠を背負っている中年女が、優しげな声で語り掛けている。
その姿の。
その姿の、
なんと無防備なことか。
山に入った人間を捕えることの難しさの一つに、彼らの警戒心の強さがある。たいていは近づけば感づかれ、逃げられてしまう。人間は他の生物を捕食するために、気配に敏い。つまり警戒心が強いのである。
それが、はだか同然で、山にぽつんと。
実利は気配を殺し、無音に徹し。
その山菜摘みの女に飛びかかった。
一瞬の出来事だ。女は実利に気づくこともなく、心臓を貫かれて絶命した。
「……おおう、人間が釣れたーよ」
女の死体を前に、実利はポツリと呟いた。
尚も泣き叫ぶ赤子を抱き上げて、実利は自分の体を揺らしながら歌を歌う。抱き上げられた時点で安心していたのか赤子はほとんど泣き止んでいたが、歌を聞かされるとすやすやと眠り始めた。大人が歩いてわずかな距離であろうとも、赤子にとっては波乱に満ちた大冒険だったに違いない。
歌いながら、実利は赤子と食料とを何度も何度も見比べた。
赤子は、いい相方になる。
――思えばこの時からだったのだろう。実利と赤子が、本物の親子になったのは。
それからの二人は一層親密に過ごしてきた。
実利は赤子に「うの」と言う名前を授けた。人間をうの《、》みに出来るように、と実利の親心を込めた名前だ。名の通りに育ってくれれば、うのはきっと食に困ることはないだろう。妖怪も、人間も、存在し続ける限りは食べなければ死んでしまうのだから。
それから、言葉を教えた。会話ができなければ、人間だろうと妖怪だろうとそれは獣畜生と何も変わらなくなってしまう。うのは親心抜きで賢かった。布巾が水を吸うように知識を貪欲に取り込んでいった。言葉だけでなく、食べられる山菜やキノコ。これらを完全に網羅する頃に、原諏訪に行きついた。小さな沢をしの沢と名付け、狩り場兼の住処とした。
今では、強大な妖怪を相手取るような状況にでもならなければ、うのは立派に生きてゆける。実利はうのを立派に育て上げたのだ。人喰い妖怪が、ただの人間を、である。
河鼠親子が食事を終え、実利は食器や余った食材に適切な処置を施してゆく。いつ人間が沢の辺りに来なくなるかわからない。だから、余った肉を塩漬けにするのだ。塩漬けにし、湿気の少ない場所で保管しておけば数か月から数年は持つ。生きてゆくための知識だ。実利は体得するのに百年近くかかったが、うのには惜しげなくそれらの知識を授けている。
最初は非常食から始まった関係は、今や本物の母娘だ。血統ではなく、他者の流血によって固められた二人の絆。それは、誰にも絶ち切れない強固な繋がり。塩漬けの作業を止め、実利はうのを横目で眺める。愛しい我が子は座ったまま、うとうとと。眠気に抗い、目元を擦って何とか意識を保っているようだ。
「うのちゃーん、おねむなのー?」
「うん……眠たいよぅ」
「そっか。じゃあ、おねんねしようかー」
「う、ん……」
適当なところで作業を切り上げ、実利はござを敷く。実利は眠らないでも生きてゆけるが、うのはそうはいかない。何枚も重ねないと、洞窟の冷たさと固さは凌げない。うとうとしているうのを抱きかかえ、ござに寝かせてやる。実利が編んだそれは、お世辞にもよくできた品ではない。けれど、うのは文句を言ったことは一度もない。
本当に、できた娘なのだ。
横になったうのを抱きしめ、実利はうのの頭を撫でてやる。柔らかい髪の毛を手櫛で梳いてやりながら、歌を歌う。そうすればうのはすぐにでも寝込んでしまう。それが一層可愛らしい。猫のような愛娘を抱きしめ、半分以上眠ったうのを見つめる。
「……おかーさん……」
「んー?」
「だーいすきー」
うのは実利の薄い胸に顔を押し付け、すやすやと意識を夢の大海へと落とし込んでいった。
「わたしもだよー」
髪を撫でて、歌を歌う。すぐにうのは熟睡してしまう。そうすれば起き上がって、うのを起こさないように気を配りながらの塩漬け作業が待っている。うののためと思えば、塩漬けの作業など容易いものだ。可愛らしいうののためならば、なんだってできる。
妖怪だろうと人間だろうと。種族なんて関係ない。
母は強く、偉大なのだ。
うののためならば、百鬼羅刹とだって戦える。普段なら絶対に逃げ出す相手とだって、戦える。うののためならば、悪魔にだって魂を引き渡そう。
――うの、お母さんはお前を、愛してるよ。