Sequence,1 『縁』 1-2
御守山は、妖怪が支配する原諏訪藩の山々の中で比較的安全に人間が登山できる山の一つである。その理由は極めて単純だ。
この山には一つの神社が建っている。御守神社、と言う。
原諏訪に数か所ある神社の中でも、原諏訪の魑魅魍魎を調伏するための陰陽師がかつて多く住み込んでいた。彼らは日々研鑽を重ね、人里に被害が出ればヤマに赴いて妖怪を退治した。今は陰陽師のほとんどが神社にいない。妖怪が好き勝手に暴れ始めたのは、これに起因する。彼らはどこへ行ってしまったのか。
――関ヶ原の大戦だ。
原諏訪における彼らは、大名・魑魅魍魎・陰陽師擁する御守神社という三大勢力を形成していた。大名と神社の勢力が戦で削がれたために、妖怪達の勢力が頭一つ抜きん出始めたのだ。
……などと、ぼんやりと原諏訪の現状に思いを馳せながら、一人の陰陽師が居室に転がっていた。開いた本を眺めながら、くぁ、と欠伸を飛ばす。
彼こそは、現在、御守神社で唯一の武装神官である男だ。妖怪退治や人里の揉め事における調停などをして日々食いつないでいる。名を御守神楽。神社における神主代行を務め、めっきり人間のいなくなってしまった神社を一人で何とか切り盛りしている。
神楽を指して、神官と思う者はいない。少なくとも、彼の経験上では一人もいなかった。……何故、こうなってしまったのか。自答しても胸クソ悪い答えが返ってくるので考えないように努めている。
神楽の外見は、神職にある人間とは思えないほどの体格だ。身長は六尺と少し。普通の人間の頭二つ分は背がある。身体には無駄な筋肉も脂肪もなく、引き絞られた古木のよう。神官であるというよりも、兵法者との印象が強い。
そのことは神楽自身も納得している。だが、“武装神官”としてならば、彼の体格は職分に相応しいものとなる。妖に対する武装神社であるということは、人間よりも格上の存在を相手にせねばならないため、極限に、かつ最適な体作りが基本中の基本なのだ。
ぺら、ぺら、と書物をめくりながら、神楽は溜息をついた。と、同時に腹の音もなる。
神楽はここ三日ほど何も口にしていない。断っておくが、彼の空腹は修業とは無関係である。ただ単に、金がなく、口にするものもないと言うだけの話。
――木の皮って食えるのかな……。
などと、人間として口にするのはどうかと思われるような考えをしているような男だ。神楽は口に出来れば何でも良い、と思っている節がある。時折ヤマに出て鹿や兎を狩り、焼いて食べる。藩民は肉を平気で常食する神楽を「なまぐさ陰陽師」などと呼んでいるらしい。神楽はそれを、事務をさせている幽《、》霊《、》から聞かされた。
「か~ぐ~ら~」
ふわふわと宙空を漂いながら、一人の少女が神楽の居室に入ってくる。襖をすり抜けて、だ。神楽はちらりと侵入者に一瞥をくれると、再び本に目を落とした。
彼はさして驚いた様子もなく、
「……なんだよ」
ぶっきらぼうな声を少女へと投げかける。
「おやーつー」
「あるわけないだろ、無駄飯喰らいめ」
空腹なため、普段と比べて多分に棘が含まれてしまっているが、神楽は構わず言い放った。
「ここ三日、人間様がメシも食ってないってのに、いい身分だぜ。……幽霊のクセして」
――幽霊のクセして。
神楽が放ったその言葉が、少女の全てを表している。
「ええー、無駄飯喰らいは酷いんじゃないの?」
「うるさい。幽霊の分際で人様の何倍も食いやがって。だいたいお前、食わなくても生きていけるんじゃないのか」
「それはまあ、そうだけれど」
「なら食わないでくれよ! せめて食うもんが少ない時くらい!」
「お侍の癖して、ずいぶんと吝嗇なことをおっしゃるのね」
「オレをお侍から引きずり下した張本人が、よく言う……。ともかく、オレの部屋を漁ったって食うモノはない。わかったらどっか行っちまえ、ユウ」
夕雨。それが空中を漂う幽霊少女の名前である。苗字はなく、その名前も神楽が付けた名前だ。彼女に憑りつかれているせいで、神楽は原諏訪から逃げようにも逃げられないのだ。
全く、妙な縁ができたものだ、と神楽は心中で溜息をこぼす。
合縁奇縁、というが、むしろ夕雨とは合縁も奇縁も持ちたくなかった、と悔悟の念を抱かずにいられない。
幽霊の癖してよく食うわ、気ままの癖して食事時には絶対に帰ってくるわ。それでいて訳の解らない、ありがたみも何もない助言をくれるわ。掴みどころの欠片もない幽霊である。……幽霊なので、直截に手掴みすることはできないが。
「あらー、怖い怖い。でも本当に食べるものないの?」
「しつこいな。そんなに腹が減ったなら、木の皮でも剥いで食えよ」
「食べられるわけないじゃない……」
「なら我慢しろ」
「うーっ。おやつ、おやつ、おやつ、おやつ……」
うるさいな、と思いながらも書籍から目を離すことはない。
神楽はこの一言目には「ごはん」、二言目には「おやつ」、三言目以降も全部「おやつ」の幽霊少女、彼女に憑りつかれた状態から抜け出すために四苦八苦しているのだ。神社のあらゆる書物に目を通し続け、四年と少し。呪縛から抜け出せそうな兆しは全く見受けられない。どころか、どの書物にも「その契約は絶対也。担い手が消滅せざれば、契約は永遠也」としか書かれていない。要約すれば、「死ななきゃ欠食幽霊とは離れられない」と言いたいらしい。
初めて会った日に、「死が二人を分かつまで」と、へにゃりとしたニヤケ面で告げられた場面が嫌でも思い起こされる。しとしとと降り注ぐ雨に、橙色の夕日。
――改めて思い出しただけで腹が立つ。
書籍は総て手書きであり、著者の癖のある文字に慣れるまでが一苦労。夕雨について記載された場面があればまだマシな方で、一切の記載がないことの方が多い。そういう場合は風呂の炉にでもくべてやりたい気持ちに駆られるが、風呂場まで夕雨のことを持ち込みたくないために何とか踏みとどまっている。
「神楽ー」
「…………」
無視だ。無視するに限る。そうすれば夕雨は神楽に飽きてどこかへ行ってしまう。四年の歳月を経て、夕雨の扱い方を覚えた昨今。捨て去るどころか、むしろ縁が深くなっているかもしれない事実に、神楽は魂を口から吐き出しそうになる。
「ねえ、神楽。
……わたしって、そんなに邪魔?」
「この際、はっきりと言うがね、邪魔だ。……そもそも、オレはなあっ」
顔を上げて夕雨をきつく睨みつけ、続く最低な言葉を吐き出そうとして。
「御守様」
と、別の声が燃え上がる神楽に水を差した。
「……なんだ」
声は、夕雨の眷属の亡霊の声だ。人がいなくなってしまった神社の小間使いを(夕雨に命じて)やらせている。神楽にしてみればそれくらいの役得がなければやっていられない、という気持ちだ。
「お客様です。城下の長老様が参られました。急ぎ取次ぎを、とのことです」
神楽と夕雨は思わず顔を突き合わせた。じゅるり、と夕雨から涎を飲み込む音がする。勿論、神楽も同じ思いだ。なんと言っても、数か月ぶりの――
「「飯の種!」」
なのだ。
「くれぐれも丁寧にもてなせよ! 客間できちんとお待ちいただけ、カモを絶対逃すな!」
「……かしこまりました」
少し引き気味な幽霊小間使いの気配が消え、
「夕雨」
「はいはい、用意はできてますよー」
阿吽の呼吸で夕雨は衣装を差し出した。
神への祝詞だとか、神事の執り行いなど全く知らないし、できない神楽だが、唯一つだけ、他の神社の連中に出来ない仕事がある。それこそが妖怪退治だ。神楽とおまけ一匹が食事にありつくには、もはや形振り構っていられる状態ではないのだ。
夕雨の手伝いもあり、茶を一服するよりも早くに着替えが終わる。襖をほとんど叩き付けるのに近いほど勢いよく開け、さっそうと神楽が居室を出てゆく。夕雨はもう食事の事しか頭になく、気の抜けた笑みを浮かべ、ふわふわと神楽の後を浮いて行った。
客間は十畳程度のささやかな部屋だ。
飾り棚には掛け軸と、壺に植えられた花があるのみ。
既に日は落ち、菜種油に火をつけて灯りとしている。光源は四つあり、それぞれが部屋の隅に置かれているために、室内は薄暗い。
上座には神楽、その背後に漂う幽霊の夕雨。
下座には三人の老人の姿がある。彼らは神社の門前町の長、人里の名主、城下の長老と、そうそうたる顔ぶれだった。思わぬ金ヅルに頬をほころばせそうになりながらも、神楽は全力で神妙な顔を演じてみせる。
三人が三人とも、頭を下げているのも神楽にとっては幸いだと言えた。一応、代理とはいえども神楽は神主であり、平民の彼らとは確たる身分の差がある。当然、それぞれの長が気軽にお願い申す、とはいかない。形式だけでも形はとらなければならないのだ。
ましてや、神事ともなれば儀礼こそが肝要となる。
「御守神楽様に至ってはご機嫌麗しくございます」
念仏でも唱えるような口調で、城下の長老が口を開いた。三人の中で、神楽と比較的親しい位置にいる城下の長が口上を述べるのは当然だな、と神楽も思う。
「やめてくれよ、辰巳さん。そんなに畏まられると、全身がこう、むず痒い」
神楽は神主代行のワリにその辺りの事情に疎い。元々が地侍の出なので、しゃちほこばっているのは苦手なのだ。……それを儀礼に疎い田舎侍、とも言うらしいが。
「いつも碁を打ってる時みたいに……とは、いかないか。それで、日も沈んだこの夜更けに、何の御用か」
神社を来訪してきた三人のうち、城下の長老を務めている辰巳は碁を囲う仲でもある。幽霊がうろつく御守神社において、最低限の人付き合いはこなしておかないと、ただでさえ参拝者の少ない神社に、更に人が寄り付かなくなってしまう。そう嘯いた夕雨の経営戦略的助言で始めてみた交友関係、なのだが……もっとも、辰巳との付き合いで参拝客が増えたという事実は今のところない。
これは夕雨が街中をふらふらして偶然聞きつけたそうだが、街の人間から御守神社は体のいい厄払い程度にしか思われていないらしい。「なまぐさ陰陽師」の件といい、檀家に全く慕われていないのだ。神楽としては上等、と返してやりたいのもやまやまだが、定期的な収入がないのは痛すぎる。
そんな神楽の思案とは裏腹に、重々しい口調で、
「は。それがですな……」
辰巳は訥々と語り出した。今、藩を騒がせている人喰い妖怪の話を。
それは、散見される被害者の話を聞き集めたところ、三十名近い人間が妖怪に喰われてしまった、という話だ。近頃起こっている、奇妙な神隠しも加えれば被害者数はその倍をも下らないという。それも少なく見積もって、だ。生き残りの話を聞くと、手口はいたって単純。妖怪は子供を使い、食料の人間をおびき寄せる。その子供に意識を取られている間に、親と思われる白髪の妖怪が人間の首を飛ばしてしまうらしい。外見は完全に人間だが、手刀で首を飛ばすなど、明らかに人間離れした能力を持つ、と言う。
「我らも困っておりましてな。このまま奴が暴れ散らかせば、我々が絶滅してしまいかねないのですよ」
「人喰い、ねえ」
あれだけ抑えきれなかった笑みが、いつの間にか神楽の表情からすっ、と消え失せていた。夕雨とケンカしそうになった時の表情とも違う、荒事のプロフェッショナルとしての顔付きだ。
「決まって“しの沢”とい場所で殺されてしまうのです」
「んん? しの沢? どこだ、それ。原諏訪にそんな地名があったか?」
「妖の嘘偽りか、あるいはヤマのどこぞの呼称なのでしょうが……」
「…………ヤマ」
その名前が出た一瞬、神楽の眉が顰められた。
ヤマとは、妖怪が根城としている山のことを示す。発音はヤマという場合、ヤを強調する音運びになる。そしてそれは、
「オレは死にたくなければヤマには入るな、そう触れを出したはずだが」
人間の侵入禁止区域でもある。
御守神楽が四年程昔に仲買人となり、藩主と妖怪の各首領との取り決めによって制定された約定だ。藩の罪人を定期的に送る代わりに、妖怪は人里に侵入しない、と。言ってしまえば、人間と妖怪の相互不可侵条約だ。この約定を違えて人間がヤマに侵入したのならば、殺されても文句は言えない。
ただし、矛盾するようではあるが、人間は自己責任の範疇でヤマに入ることを黙認されていた。山々に囲まれた原諏訪において、山間資源を全く得られないというのは住民の絶滅を意味するからだ。故に、本来ヤマに侵入するならば、それなりの専門家の警護を受けねばならない。神楽は調停役となったために警邏は受け持つことはできないが、藩に金を払うことで藩民は藩専属の陰陽師を雇い、ようやくヤマに侵入できるようになる。
「とは申されますがな、神楽様」
辰巳は悪ぶれもせずに、言う。
「……正直、この雪深い原諏訪において、農業だけでは食って行けんのですよ。それに加えて、他藩との交流も少ない。外貨もない、食って行けない。となれば、我々も危険を冒してヤマに入るしかないのです」
辰巳のいうことももっともだ。
藩は火の車のお家事情を改善するために、民から高い税を搾り取り、ヤマの専門家には高い依頼金をかけている。とても一般人には手の出せないような額だ。
「ダメだな。無茶だろうがなんだろうが、取り決めは取り決めだ。三十人が食われた、それは手痛い。オレも一神主として、冥福を祈ろう。頼まれれば弔いもする。けど、オレが人間側に極端に荷担するわけにはいかない」
神楽は原諏訪の勢力均衡を担う一角である。人間側が一方的に取り決めを破り、ヤマで妖怪に殺された。どんな事情があろうと、法は絶対だ。藩民の片思いの憎悪によって、神楽が妖怪を狩る訳にはいかなかった。
だが、辰巳は落胆したそぶりも見せず、思慮深い面持ちを崩さない。その沈着ぶりに、神楽は何か恐ろしいものを感じさせられた。老翁の奇怪な表情のみに留まらず、彼の落ち窪んだ目は、蜘蛛が巣にかかったエモノを見つめるような色を孕んでいたのだ。
「そう仰られるでしょうと思っておりました。では、これをご覧ください」
辰巳が袖から取り出したものは、円筒状に巻かれた半紙だった。それも両袖から八本づつ。計十六本。里長と町長もそれぞれ、十二本と二十本。計、四十八本の巻物が広げられたことになる。
神楽はそれがなんなのか、薄々は感づいている。背後にふわふわと漂う夕雨が「うははー」と感心したような息をこぼす。
「それは?」
できれば否定して欲しい言葉がある。
だが、三人揃って浮かべる親の葬式のような神妙な面と、夕雨のこぼした息で大体の見当は付く。
「夕雨様におかれましてはすでにご理解いただいているようですが、連判状です。計、一四四〇名の署名があります。神楽様にお聞き入れられなければ、我々としては藩主様に差す出しかなくなってしまう」
――連判状。
それは、農民が領主に対し、一揆を起こすために血判を押した署名だ。性質の悪いのが、この手の連判状、誰が言い出したのかわからぬように、円形に名を連ねてゆく。藩民の三分の一の署名があるとなれば、藩主も兵隊を差し向けないわけにもいかないだろう。原諏訪は小さな藩である上に、お上は藩の濫立する状態を是正するためにも藩の取り潰しに積極的であるという。このような大規模な一揆を起こされれば、お家取り潰しは確実だ。
「――オレを恐喝しようってのか?」
藩主がヤマに兵を差し向けることは即ち。
先の約定はなかったものとし、人間側が妖怪に戦争を仕掛ける、ということ。
そうなってしまえば、原諏訪はお終いだ。最終的には、それでも数で勝る人間が勝つだろうが、実際に起こってしまえば全国の妖怪が騒動を起こす。
――我らが人間風情に身を引けば、図に乗りおって、と。
それは神楽としては望むことではない。……否、正確には原諏訪がどうなろうと知ったことではないのだが、そうもいかない事情がある。原諏訪の地に魂を縛り付けられている身としては、戦争など起こされてはたまったものではないのだ。神楽は逃げようにも逃げられず、いやがおうにも戦争に巻き込まれるのは目に見えている。
こんなもの、嘆願でもなければ交渉でもない。
ただの、恫喝だ。
最初から交渉の余地なし。将棋をしようと席につけば、あと一手で王手の状態で対局を始めるようなものだ。しかも神楽が後攻で始まる試合。詰んだ状態で交渉の席に着かされた。依頼を放棄しても原諏訪は終わり、望んでも原諏訪は終わり。
「………………」
甘かった。辰巳が三人も引きつれてやってきた時点で、何かあるのだと警戒を怠った神楽の大失態だ。言い繕いようのないドジを踏んでしまった。
「神楽の負けですのぅ」
止めに、夕雨の一言。
辰巳達からすれば、神楽ならば悪鬼羅刹に恨まれたとして、害はない。文句がある魑魅魍魎は腐るほどいるだろうが、それを決して口には出させないだけの実力が神楽にはあるのだ。
現状で打てる最善手。それは、神楽自らがその“人喰い妖怪”を退治する、という手段だけ。残りの選択肢は全てが最悪手。となれば、辰巳に仕組まれた一言を吐き出すだけだ。そこには意思など微塵もなく――
「…………請け負った。
――その依頼。報酬は?」
ならば、神楽はただの絡繰りと変わらない。
「成功報酬として、金十両に米百貫。無論、成功時に則払い。我々として、出来る限りのご奉仕ですな」
妖斬りにしては破格の報酬だが、これだけが神楽にとっての救いだった。