Sequence,1 『縁』 1-1
ヤマの中を、藤吉と暁美は歩いていた。彼らは夫婦であり、先日第一子を無事授かったばかりだ。彼らの足取りは早い。
暁美に合わせた歩行でも、日没までには人里に戻れるだろう。しかし、確証のない脳内時計で彼らの不安が拭い去れるわけもない。何しろ山中は鬱蒼と生い茂っており、ただでさえ夕日では光が届かないのだ。春先なので薄寒く、山間特有の多湿なせいでひんやりとしている。幽霊やら妖怪やらが出てきそうな雰囲気すらある。
「あんなところにゼンマイが生えてるなんてなぁ。思いもよらなかった」
藤吉が暁美に自嘲めいた口調で語りかけた。
「ええ。こんなに取れるなんて予想外で……」
「まあ、そこは嬉しい計算違いってモンだろう。早く帰って、メシ食って、赤ン坊に乳やらねえとな」
「そうですね」
肩にかかる重さは、藤吉夫妻に達成感を少なからず感じさせていた。籠一杯になるまで採れるとは思いもよらなかった。早めに冬が引いたお陰か、この春の山菜は実り多い。聞いてはいたものの、これほどとは藤吉も暁美も思っていなかったのだ。
と、同時に夫妻は自らの思慮の至らなさを悔やんでもいる。
ここ、原諏訪藩は信州の一藩だ。関ヶ原の大戦から五年が経ったものの、世間様は相も変わらず不穏な空気を色濃く残している。お陰で元々魑魅魍魎の多かったこの土地では、妖怪達が幅を利かせているのだ。彼らがいる山も、「妖怪山」「ヤマ」などと呼称され、藩民のほとんどが寄り付かない。
本来ならば、藤吉も暁美も近寄ることはない。暁美が出産し、滋養のつくものを、と藤吉が山に入り始め、今回が五回目の入山となる。普段、人に踏み荒らされていない分、他の山よりも多く山菜が摘めるのだ。
妖怪の山は危険なため、暁美を連れて来たくはなかったが、自分のことですから、と微笑みながらついてきたのだ。今日に限って山菜が多くとれたため、夫妻は予想外の長時間、ヤマで採取を続けていた。
人里にいれば藩兵もいるし、彼らが暮らす門前町では“なまぐさ陰陽師”が守ってくれる。しかし、ヤマだけは違う。ヤマは人間と魑魅魍魎達の国境線のようなものだ。入れること自体は法令で禁止されていないものの、ヤマにいる間は庇護される権利を失ってしまう。
自己責任、の四文字が夫妻に重くのしかかる。
山菜は貴重だ。原諏訪で人間の手の及ぶ山は少ない。ヤマのほとんどは妖怪の根城だからだ。かといって唯一人間が安全に入れる御守神社付近は、原諏訪住民三〇〇〇人によって採取され尽くしている。食料の備蓄は冬に使い切ってしまい、仕方なくヤマに入った。大事な食料ではあるが、命とは引き換えに出来ない。彼らには帰りを待つ赤子がいるのだから。
夜になる前に、里に戻らなければならない。夜は妖怪達の支配する時間だ。日中でさえ襲われれば抵抗できずに食われるしかないのに、夜になり魑魅共が活発に動き出せば殺されるしかなくなってしまう。
足取りを更に早め、枯葉を踏みゆくその最中のことだ、
「うえっ、うええええええええっ! おか、おかあさああん!」
少女のような叫び声が聞こえてきたのは。
夫妻は驚き、そちらを窺った。
藤吉達から見て右手側、鬱屈と繁る低木の陰で、一人の少女がうずくまっていた。ポロポロと涙をこぼし、必死に母に助けを求めている。
低い鼻立ちに、大きな瞳。可愛らしい少女だ。
着ているおべべも、仕立てがいい。一日中歩き回ったのだろうか、顔や白い腕のところどころに擦り傷が走っている。山を歩けば当然できる傷だ。
しゃくりあげ、両手で目元をこすりながら、大きな声で包み泣いている。
藤吉は逡巡した。
人食い妖怪の類かと考えたからだ。
原諏訪では人を喰らう強力な妖怪が多く住む。可愛らしい少女が口元を血に染めて嗤う妖怪だという事態は決して珍しいものではないのだ。むしろ妖怪が可愛らしい少女の姿を採用するのは当然とも言える。少女に擬態すれば、どんな人間であろうと向こうから近づいてくるのだから……。
だが、今泣きじゃくる少女がごく普通の人間に見える、というのが藤吉の本音だ。擬態している風が全くない。怯え、竦み、泣く少女が恐ろしい妖怪だとはとてもではないが、思えないのだ。
そうこう考えているうちに、暁美が少女に向かって走っていた。
「おい、暁美!」
暁美も藤吉と同じ気持ちだった。
だが、本物の人間だったら大問題だ。少女の姿は母とはぐれたようにも見え、そうだとすれば母親は妖怪に喰われている可能性が十分にある。もしくは子供内でヤマに入り、一人はぐれて歩き回っていたかのどちらかだろう。いずれにせよ、せめて人里までは連れて帰ってやりたい。暁美は一児の母として少女の母親に同情を禁じ得ない、というのもある。
暁美の内に、放って帰るという選択肢は、少女を見つけた時から存在しない。
「だいじょうぶですよ、だいじょうぶ」
よしよし、と暁美は少女の前にかがみこみ、背中を優しくさすってやる。
「暁美!」
藤吉はその場から動けなかった。ただ、叫ぶだけしか、彼にはできなかったのだ。少女を助けてやりたい気持ちと、我が身可愛さが半分づつ。
二、三言葉を交わすと、慈愛の籠った表情で、暁美は顔だけ藤吉に振り向いた。それは赤ン坊が腹にいた時、優しく語り掛けていた時の表情と同じだ。藤吉は、この顔に弱い。天女が子供を愛しむような美しさだ。
藤吉が根負けし、暁美に頷く。
暁美は頑固だ。普段意思表示をしない分、言い出したら頑として聞かない。
「ありがとうございます、藤吉様……」
口ではそういうものの、暁美のそぶりは藤吉が承諾すると知っていた風だ。これは俺が尻に敷かれるのも近いかな、と彼は独り言を漏らした。
「……家はどのあたりだ?」
「えっとね、あっち」
少女が指差したのは鬱屈と繁る草むらの方だった。
「西の方か……。ううむ……少し遅くなるが、ヤマをいったん降りてからにするか」
「はい、その方が良いでしょうね。思ったより、日が落ちるのが早いですし」
そう言うや、暁美は少女に優しく問いかける。
「自分で歩ける?」
「足が痛くてもう歩けないの……」
藤吉も暁美も、そうだろうと思う。
子供達だってここは妖怪の出る山だと知っているハズだ。そんな中に入り込んでしまったのだから、少女はヤマを抜けようと必死に歩き回ったはずだ。それで山奥に入ってしまっていては、元も子もないが。
説教しようとも思ったが、藤吉は喉元で言葉を飲み込んだ。自分達夫婦も似たようなものだったからだ。
藤吉が抱きかかえようとも思ったが、藤吉様は背中に籠をしょっておいでですから、と暁美が少女を抱きかかえた。先ほどよりもペースを落としてしまうが、仕方がないだろう。
「うんとね、わたし、近道知ってるよ」
あっち、と少女が指差す。確かにその方向は、草木も短く見通しもいい。子供でも通れそうな程度の獣道となっている。
「お前、そんなにこのヤマを知っているのか?」
「うん。遊び場ー」
「コラ。ヤマには入るなと言われてるだろうが」
「でもおじちゃん達もここにいるよ?」
「いいんだよ、大人は入っても」
「なんでー?」
「なんでも」
「なんでなんでなんでっ?」
「どうしてもだ。大人が言うことに逆らうんじゃねえよ」
「まあまあ、藤吉様。そう仰らずに」
相手は子供ですから、と暁美は静かに笑う。夫妻は少女の言うとおりの小道を進む。大きな荷物ができた分、近道ができるのはありがたい。結果的に早く帰れるのならば、良い拾い物をしたといえるだろう。
「お前の名前は?」
「うの」
「可愛いですね」
「ほんとっ!? 可愛いのかな!」
「ええ。本当に」
「やった!」
暁美に抱えられた少女――うのは、嬉しそうに眼を弧にして微笑んだ。
「いい匂いがしますね。香水ですか?」
「うんー。お母さんがつけてくれたの! 女の子らしくしなさい、って」
「それでヤマに入ってりゃ、とんだお転婆だ」
「お転婆でもいいから元気に育て、ってお母さんは言ってるよ?」
「うのちゃんのお母さんはどんな方ですか?」
「うーんとね……とっても優しくて、可愛くて、とってもとっても強くってー」
「かーちゃんが強ェのはどこでも同じか」
「まあ、藤吉様。それはどういうことですか……!」
誰からともなく話し始めた雑談が、藤吉夫妻には心地よく感じられた。
夫妻は子供ができたばかりであり、また将来は自分達の娘もこんなに可愛くなるのだろうか、と考えればより一層楽しい。母親を誇らしげに語ってくれるうのの姿は、暁美の胸を打った。自分もこんな風に慕われるような母親になりたいな、と。
肌を触れ合わせている暁美も、口数多く冗談を飛ばす藤吉も、どうしてこんな可愛らしい少女を妖怪と疑ったのかと、自分達を叱った。妖怪が母親を自慢げに語ったりするものか、という気持ちである。
ちろちろ、と水の湧き出る音が聞こえたのは、随分とその沢に近づいてからであった。普段の夫妻ならばすぐにでも水の音に気づこうものだが、うのとの雑談が楽しく、それに気づくのが遅れてしまったのだ。
「うのちゃん、ここは……?」
「しの沢だよー」
「しの沢?」
はて、そんな地名があっただろうかと藤吉も暁美も思った。
その思考の隙がまずかったのか。今まで張りつめていた緊張が、思考に奪われた一瞬だったのだ。うのがずっと狙っていた機会は。
「な!?」
悲鳴を上げたのは、暁美。
「あけ、みっ……!?」
妻の名を叫んだのは、夫。
うのが大口を開けて、暁美の首筋に齧りついている。
何が起こった、何なのだ、これは……?
混乱する頭のまま、
「テメェ、何の真似だ……ッ!」
うのに掴みかかろうとした瞬間、茂みから現れた影が、暁美の横腹を食い破った。
一瞬の交差で胴体の半分を暁美は持って行かれたのだ。
――嘘だ。
藤吉は混乱の渦中に叩き込まれる。しかし、うのが暁美の首から口を話した瞬間、影が妻の首を跳ね飛ばした。影ではない。にんげんだ。人間が、手刀で暁美の首を刎ねたのだ。手刀で首を飛ばすなど、人間業ではない。
藤吉の頭に去来したのは、ここがヤマであるということ。
妖怪の、山。
妖怪。
人を喰らい、ヒトを殺すことで存在する、化生の存在。
纏まらない思考のまま。
ぐっちゃ、ぐっちゃ。
何《、》か《、》を咀嚼するような音。
もっとも、藤吉の耳には届かない。
人間のうのが暁美に噛みつき、影が暁美の腹を持って行ったことが、藤吉にとっての全てだ。
「う、う、うぅぅぅうぅううううう……」
目が合う。片方は暁美の首を刎ねた女。もう片方は、暁美に齧りついたうの。
「うあぁぁあああぁあぁぁぁああぁあああああああああああああああ!!」
耐えかねて……自分も食われるという重圧にこらえきれずに。
藤吉は走った。妻を見捨てて。がむしゃらに、ひたすらに。
走った。走った走った。走った走った走った。
頭にぶつかる木の枝を半狂乱に振り払い、
草に足を取られては四つんばいになって、
獣のように、
走った。
それを、四つの眼がじぃ、と見つめている。
「お母さん、逃げちゃうよー」
「いいんだよー。大人の男は肉が固いからねー」
奇妙に間延びした声だ。
暁美の首を飛ばした女。彼女こそは、うのの母親である。名は河鼠実利。人喰い妖怪である。
藤吉にはその声は当然聞こえない、枝で切り傷を負い、石に足を取られることなど、もはやどうでもいい。妻、暁美のことでさえ、自らの命のために思考から捨て去ってしまっている。アレから逃げる。それだけが藤吉の全てだった。
太陽が、今にも落ちようとしている――。