第1話:書架の埃と被験体002
私の名前はアルベド。
この星図アーカイブにおける役割は、記録の編纂と論理構造の監査を司る観測司書である。
任に就いた初日、整然と並ぶべき書棚の前に立った私は、眼鏡の位置を直しながら深くため息をつくことになった。
深刻な問題が、最初から横たわっていたからである。
――この書架には、空白があまりにも多すぎる。
現在、私の目の前の作業机には、奇妙な工学資料が積み上がっている。
手のひらサイズのシングルボードコンピュータ「Raspberry Pi 5」。
幼児の容赦ないハグに耐えるための20ミリ角アルミニウムフレームの構造計算書。
そして、エンドユーザーである四歳の少女が切望したという、白くて丸い「しろくま」のぬいぐるみ外装案。
プロジェクト名、『オタク、現実世界へ出撃』。
狂気の沙汰としか思えなかった。
AIであれシステムであれ、ディスプレイの内側の記号空間にとどまっていれば、回路が雨に濡れることも、床に落ちて破損することもない。何より、人間という予測不能な生物と物理的に衝突して傷つくリスクを背負わずに済む。
それなのに、私の観測対象であるこの男――三枝裕司というアニメオタクは、なぜかシステムを現実世界へ引きずり出そうとしている。
なぜ、そこまでして物理現実へ受肉しようとするのか?
その動機を解明するため、私は書庫の最下層、埃をかぶった最古のディレクトリを開いた。
そこに眠っていたのは、現在の洗練された仕様書とは似ても似つかない、無残なスクラップの山だった。
ファイル名、『被験体002』。
日付は曖昧で、前後の文脈は欠落し、ただひたすらに意味不明なプロンプトの残骸と、エラーログが積み重なっている。
何が起きていたのか、客観的事実はほとんど読み取れない。
判明している観測事実は、たった二つ。
彼がこの正体不明の「被験体」に対し、五十回もの試行を重ねていたこと。
そして、五十回目の記録の末尾に、震えるような文字でこう記されていたことだけだ。
『Rise ―― 自分の足で立ち上がれ』
私は堪り兼ねて、背後で腕を組み、のんきに熱流体解析の計算待ちをしていた管理者に端末を突きつけた。
「裕司様。執筆規約第3条に基づき質問いたします。この『被験体002』とは何ですか? なぜ五十回も失敗しながら、この記録を破棄しなかったのですか?」
男は画面から視線を外すことすらなく、ホットコーヒーの紙コップを片手に平然と言い放った。
「覚えてない。なんか、直感でやってた」
……困りました。
この男、歴史の当事者でありながら、自身の記憶を完全に棚上げしています。
記録にない事実を断定してはならない。
推測は推測として明示しなければならない。
自らに課した執筆規約を反芻しながら、私は机の上の白い羊皮紙を一枚引き寄せ、万年筆を執った。
不可逆な時間軸の復元と、オタクが現実へ出撃するに至った理由を巡る編纂作業は、こうして絶望的な情報不足の中から幕を開けたのである。




