番外編:皇女殿下は理解できない
学園の裏庭は、午後の陽射しに包まれていた。
木々の影が柔らかく地面に落ち、遠くから授業の終わりを告げる鐘の音が聞こえてくる。
皇女エルヴィーラ・アウレリアは、白磁のティーカップを指先で持ち上げ、静かに紅茶を口に運んだ。
香りは申し分ない。温度も、淹れ方も完璧だ。
――隣に座る少女がいる限り、この時間が乱れることはない。
ヘレーネ・フォン・ローゼン。
学園内でも「淑女の鑑」と名高い令嬢だ。
姿勢、仕草、表情。
どこを切り取っても非の打ちどころがなく、エルヴィーラ自身も密かに憧れている存在だった。
だからこそ。
「……正直、驚いたわ」
エルヴィーラは、カップを戻しながら率直に言った。
「貴方とマティアスが付き合っているなんて」
ヘレーネは一瞬だけ瞬きをし、それから穏やかに微笑んだ。
「そうかしら?」
「ええ。とても」
言葉を選ぶ必要はない。
ここには、建前を振りかざす相手はいないのだから。
「だって、犬猿の仲で有名でしょう。グラーフ家とローゼン家って。それに……」
エルヴィーラは、ほんの少しだけ声を落とした。
「マティアス・フォン・グラーフよ?」
学園内でも目立つ存在。
顔はいい。愛想もいい。
だが、その分だけ軽薄に見られがちで、いつも女性に囲まれている。
「正直、何がいいのか分からないわ。チャラいじゃない」
言い切ると、ヘレーネはくすりと笑った。
「ふふっ。お父様たちは、たしかに犬猿の仲ね」
優雅な所作でカップを持ち上げる。
その一つひとつが、今日も完璧だった。
「会えば文句ばかり。しかも、いつも同じ内容なのよ。よく飽きないものだわ」
苦笑しながら紅茶を飲むヘレーネを見て、エルヴィーラは思う。
――ああ、本当に。
今日も非の打ちどころがない。
「でもね」
ヘレーネは、そっとカップを置いた。
「マティアスは、噂通りの人じゃないわ」
「……そう」
即座に納得できる話ではない。
むしろ、余計に理解できなくなった。
「なんていうか……」
少し考えてから、ヘレーネは柔らかく言った。
「どんくさいの」
「……どんくさい?」
思わず、聞き返してしまった。
あの、いつもヘラヘラしている男が?
女性に囲まれて歩く、あのマティアスが?
その言葉を、そんな愛しげな笑みで言う?
エルヴィーラは、内心で首を傾げた。
理解できない。
まるで理解できない。
――自分が憧れていた舞台女優が、ある日突然、街角の芸人と結婚したと聞かされた時と同じ気分だ。
しかも、その二人はスピード離婚している。
そんなエルヴィーラの困惑など気づかない様子で、
ヘレーネは静かに続けた。
「彼とは、長い付き合いだけれど……」
その言葉の続きを、エルヴィーラが問い返そうとした、その時だった。
「あら」
ヘレーネの視線が、裏庭の入口へと向く。
「ちょうどいいところに」
エルヴィーラもそちらを見ると、そこには、見覚えのある二人の令嬢が歩いてきていた。
――マティアスと、よく一緒にいる少女たち。
学園に入ってから、比較的固定で彼の傍にいる二人だ。
嫌な予感が、胸の奥で小さく芽生えた。
そのときだった。
「リディアさん、カトリーナさん」
ヘレーネが声をかけると、二人は同時に肩を強張らせた。
「よろしければ、一緒にお茶しませんか?」
――びくり。
その反応は、あまりにも分かりやすかった。
二人は一瞬だけ顔を見合わせ、次に視線を彷徨わせ、まるで逃げ道を探す小動物のように固まる。
やがて意を決したように、恐る恐るこちらへ歩み寄り、私とヘレーネに丁寧な挨拶をした。
立場上、私が先に席を勧めると、二人は緊張した様子のまま腰を下ろす。
そして次の瞬間だった。
まるで合図でもあったかのように、二人は勢いよく、揃って頭を下げた。
「ヘレーネ様、申し訳ありません!」
「マティアス様に、すでに決まったお相手がいらっしゃると知らず……
声をかけてしまって、本当にごめんなさい!」
あまりに真剣な謝罪に、エルヴィーラは思わず瞬きをした。
……あら?
てっきり、もっと刺々しい空気になるものだと思っていた。
女同士の静かな火花とか、そういうものを、ほんの少し……
実は、割と期待していたのに。
そんな私の内心をよそに、ヘレーネは困ったように苦笑した。
「顔を上げて。
どうせマティアスが、肝心なことを言っていなかったのでしょう」
二人が、わずかに肩をすくめる。
「構わないわ。ところで……」
ヘレーネは、穏やかなまま続けた。
「あなたたちは、どうしてマティアスと一緒にいるのかしら?」
その問いに、二人は再び揃って頭を下げかける。
――待って。
一度許してから突き落とす流れ?
エルヴィーラは、内心で小さく息を呑んだ。
……ヘレーネ、なかなかに手厳しい。
だが、彼女の意図は違っていたようだ。
「あっ、ごめんなさい」
ヘレーネは、すぐに言葉を添えた。
「悪い意味じゃないの。
皇女殿下が、あなたたちがなぜマティアスと一緒にいるのか、少し気になさっているみたいで」
にこり、と微笑む。
……私の名前を使って脅すとは。
さすがだわ、この子。
エルヴィーラの中で、ヘレーネの株は変な方向へと上がっていく。
二人の令嬢は顔を見合わせ、しばし逡巡したあと、慎重に口を開いた。
「説明は、可能です」
「ただ……不敬にならないかが、少し心配で」
「それに、淑女的な言い回しだと……
正直、説明しづらいといいますか……」
その言葉遣い自体は、実に丁寧だった。
――なるほど。
エルヴィーラは、ゆっくりと紅茶を飲みながら思う。
どうやらこれは、期待していた“修羅場”とはまったく別の話になりそうだった。
エルヴィーラは、カップを静かに置いた。
「ここでの話は、外には出さないわ。
言葉遣いも、無理に取り繕わなくていい」
そう告げると、二人の表情が一気に明るくなった。
「助かります!」
「貴族的な言い回しだと、上手く説明できなさそうで……」
「えっと、何の話でしたっけ?」
「忘れないでよ。マティアスでしょ、マティアス」
……切り替えが早い。
エルヴィーラは、ほんの少しだけ目を細めた。
勢いに圧倒されながらも、話の行方を見守る。
「マティアス様って、なんていうか……」
リディアが首を傾げる。
「男心を搭載した母ちゃん、って感じなんですよ」
「それな!」
カトリーナが間髪入れずに頷く。
「それか、オネェの心を持ったお兄さん!」
「分かるー!」
…………。
一瞬、庭に沈黙が落ちた。
エルヴィーラの思考も、見事に停止していた。
男心。
母ちゃん。
オネェの心を持った兄さん。
――誰が?
……あの、マティアス・フォン・グラーフが?
意味が分からず、縋るようにヘレーネを見る。
だが彼女は、まったく動じていなかった。
それどころか、感心したように頷いている。
「とても上手な表現ね。“男心を搭載した母ちゃん”。言い得て妙だわ」
……知っていたのね?
エルヴィーラは、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
そうしないと、表情が崩れそうだった。
「正直に言いますと」
リディアが続ける。
「最初は、私たちも顔に惹かれて声をかけたんです」
「あわよくば、愛人狙いで」
「ちょっと! そこまで言う!?」
「事実でしょ!」
あまりに遠慮のないやり取りに、エルヴィーラは内心でため息をついた。
……正直すぎるのも考えものね。
「でも、会うたびに淡い恋心が薄れていって。たぶん、一週間くらいで完全になくなりました」
「いやぁ、さすがに母ちゃんとの恋愛はキツいです」
その言葉で、エルヴィーラはふと気づく。
――そういえば。
マティアスの周囲の女性は、だいたい一週間ほどで入れ替わっていた。
……そういう理由だったのね。
もはや、口を挟む余地はなかった。
ヘレーネが、穏やかな声音で問いかける。
「それなら……今も、彼と一緒にいる理由は?」
純粋に疑問だったのだろう。
二人は顔を見合わせてから、揃って答える。
「マティアスに相談すると、彼氏とうまくいくんです」
「好きな人、落とせましたし、今では婚約者です」
……なに、それ。
エルヴィーラの中で、
マティアス・フォン・グラーフという人物像が、音を立てて組み替わっていく。
チャラい男。
軽い男。
顔だけの男。
――ではなく。
女心を理解した上で、踏み込まない距離を保つ男。
結果として、恋愛対象としては致命的で、“男心を搭載した母ちゃん”。
エルヴィーラは、そっと息を吐いた。
……なるほど。
これは確かに、知らなければ一生理解できない類の男だ。
しばしの沈黙が流れた。
エルヴィーラは、まだ整理しきれない思考を抱えたまま、視線を二人の令嬢へと向ける。
「……つまり」
慎重に言葉を選ぶ。
「マティアスは、その他大勢の女性には“母ちゃん”で、恋愛対象として見られなくなる、と」
「そうですそうです」
「的確すぎます、皇女殿下」
即答だった。
エルヴィーラは、こめかみを押さえたくなった。
理解はできる。だが、納得はしがたい。
「……ヘレーネ」
思わず、隣に座る令嬢の名を呼ぶ。
「貴方は、それでいいの?」
失礼にならないよう、だが率直に。
ヘレーネは一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと微笑んだ。
「私は、マティアスを“母ちゃん”だと思ったことはないわ」
その言葉に、二人の令嬢が同時に勢いよく頷いた。
「それなんです!」
「そこなんですよ!」
声が揃う。
「ヘレーネ様と一緒にいるときのマティアス様、
私たちの知ってる人と、全然違います」
「男感、出してます」
「必死ですよね」
「分かるー!」
……必死。
エルヴィーラは、その単語を頭の中で転がした。
「どう違うの?」
問いかけると、二人は少し考えてから言った。
「エスコートの仕方とか」
「距離感とか」
「何より……」
カトリーナが、にやりと笑う。
「ヘレーネ様の前だと、顔面力をちゃんと使ってます」
「愛ですよね、あれ」
「愛だねー」
ヘレーネは、ほんのり頬を染めて微笑んだ。
「あら……そう見えるのね」
「見えます見えます」
「むしろ、分かりやすいです」
エルヴィーラは、静かに息を吐いた。
――なるほど。
マティアス・フォン・グラーフは、
誰にでも優しい男ではない。
誰にでも“同じ”なのではなく、選んだ相手の前でだけ、男になる。
そして。
その相手が、ヘレーネ・フォン・ローゼンなのだ。
「……そういうこと」
エルヴィーラは、紅茶を飲み干した。
「貴方が特別だから、
彼は“母ちゃん”にならなかったのね」
ヘレーネは、少し照れたように視線を落とす。
「そうだったら……嬉しいわ」
その表情は、学園で見せる完璧な淑女のものとは違う。
ただの、恋をしている少女の顔だった。
エルヴィーラは、ようやく納得した。
――ああ。何だか、素敵ね。
どんなに理解しようとしても、外側からは見えない関係だ。
そして、見えないからこそ、揺るがない。
しばらくの沈黙のあと、二人の令嬢が、揃って姿勢を正した。
「……とはいえ」
リディアが、少しだけ真面目な声になる。
「自分の恋人の周りに女性がいるのって、やっぱり気分のいいものじゃないと思うんです」
その言葉に、カトリーナも頷いた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
二人は、改めて深く頭を下げた。
ヘレーネは、驚いたように目を瞬かせ、それから、柔らかく微笑んだ。
「顔を上げて」
穏やかな声だった。
「私たちは、交際を公表していなかったのだもの。
仕方がないわ」
そして、さらりと続ける。
「それに――」
ヘレーネは少し首を傾げた。
「あなたたちが途中から、マティアスにそういう感情を持っていないことは、調べて知っていましたし」
……調べた?
二人の令嬢の顔が、みるみる引きつる。
「えっ」
「し、調べ……?」
その反応を見て、エルヴィーラは思わず口を挟んだ。
「まあまあ。
これで、お互いに言いたいことは言えたでしょう?」
場を和ませるように笑う。
「私も、あなたたちを誤解していたわ。
今日、話せてよかった」
二人の表情が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「皇女殿下とお話できるなんて、光栄です!」
「それに……」
少し照れたように続ける。
「ヘレーネ様とも、お話できて嬉しかったです。
ずっと憧れていたので」
その言葉に、ヘレーネの目がきらりと輝いた。
「本当?」
「はい!」
迷いのない返事だった。
ヘレーネは、少し考えてから、控えめに提案する。
「もしよければ……
また、こうしてお話しできないかしら?」
「……私たちと、ですか?」
「えっ、いいんですか?」
エルヴィーラも、楽しそうに頷いた。
「いいじゃない。私もまた話したいわ」
「それに」
ヘレーネが続ける。
「あなたたちのメイク、とても素敵だもの。
やり方を教えてほしいの」
二人は顔を見合わせ、次の瞬間、弾けるように笑った。
「ぜひ!」
「今度は私たちが先生ですね!」
こうして静かな裏庭のティータイムは、思いがけず賑やかな約束へと変わった。
ヘレーネは、心から嬉しそうだった。
エルヴィーラも、これまで縁のなかった交流に、不思議な高揚を覚えていた。
――悪くないわね。
こういうのも。
一方、その頃。
「は?」
学園の別の場所で、マティアス・フォン・グラーフは固まっていた。
「ヘレーネが……
リディアとカトリーナと……
お茶会?」
友人は、肩をすくめて言った。
「現彼女と、元・彼女のお茶会だろ?」
「……死んだな、お前」
「骨は拾ってやる」
そう言って、友人はマティアスの肩を叩き、去っていった。
いや、元彼女じゃない。最初から最後まで友達だ。
だが、マティアスは、蒼白になった。
「……終わった」
頭の中をよぎるのは、これまでの数々のダサい記憶。
相談にのっては、「なんかお母さんみたーい」
と言われ
距離感を保っては「マティアスは私のお父ちゃんですか?」
と言われ
恋愛の相談にのっては「いやぁー、今日もマジオネェって感じだった!」と言われる。
そんな、数え切れない格好悪い瞬間。
「……ヘレーネに、嫌われる……」
だが彼は、まだ知らない。
そのすべてを、彼女がすでに把握していることを。
そして――
それでもなお、彼女が自分を選んでいることを。
学園の裏庭で。
エルヴィーラ・アウレリアは、穏やかに微笑むヘレーネを見て、心の中で呟いた。
――なるほど。
これは確かに、
覚悟を決めたら人生が決まる男ね。
マティアス・フォン・グラーフは、
今日も何も知らずに怯えている。
それでいて、
一番幸せな場所にいるということにも気づかずに。




