なぜ小学生はうんこが好きなのか
集団下校中の小学生たちとたまたま同じ道を歩いていた。
「あーーっ!」
先頭の男の子が、嬉しそうな叫び声をあげた。
「うんこ落ちとる! うんこ! うんこ!」
たぶん犬のうんこだろう。
飼い主がきちんと始末せずに、そのままにして行ったのだろう。
小学生たちはそれを見つけて狂喜乱舞している。
近くに落ちてた木の枝を拾って突っついたりしている。
私は見て見ぬふりをして、追い越していった。
なぜ──
小学生はうんこが好きなのだろう……。
うんこなんて汚いだけだ。しかもものすごく臭い。
そんなものが人間によって清潔に管理されたこの世の中に落ちていることは──
はっ?
これは若さゆえの『反抗』の現れなのではないだろうか? と、そんな考えが頭をよぎった。
人間によって管理された中に出現した『自然』なのだと考えることはできないだろうか? うんこという『異物』が。
うんことは、傲慢な人間による地球支配に対するアンチテーゼなのだ。
つまり小学生がうんこを好きなのは、残酷な天使によるアンチテーゼなのだ。
小学生たちは、あるはずのない場所にうんこを見つけることによって、人間社会に対し、若さゆえの反抗を、大笑いしながら試みているのだ!
知らんけど。
しかし、うんこが好きなのは、ほんとうに小学生だけなのだろうか?
考えてみれば、大人でも、たとえば小説家になろうに、『うんこ』という言葉を好んで使って作品を書くひとは、いる。私もそうだ。
創作の源は現実社会に対する私怨だといわれることがよくある。
現実社会に不満や怨み、叶えたいけど叶えられない願望があるからこそ、創作活動をするのだ、と。
ならばやはり、うんことは、そうした私怨の象徴なのか。
しかつめらしい管理社会に対する反抗の手段として、創作者はうんこを駆使するのであろうか。
私は触りたくないし、嗅ぎたくもないし、道端に落ちてたら『ちゃんと始末しろよ』と憤るだけで、けっして踏みたくないものであるが、しかし、小説の中では積極的にうんこを使ってしまいたがるのは、そうした忌避すべきものを、社会に対して投げつけてやりたい思いがあるのであろうか……。
知らんけど。
とにかく、今のトレンドは『うんこ』だと、私は勝手に思っている。
小説家になろうにうんこを流行らせたい!
きっと喜んでくれる純真無垢な心の持ち主たち──小学生のようなメンタルのひとたちは、いるはずである。
知らんけど。




