第二章3-2
「だから、俺に掛かれば大丈夫だって」
榊原は人に囲まれ、得意げに笑っていた。誰かの相談を解決したらしく、周りは笑顔のまま去っていく。
その輪の中心にいる榊原を、俺は少し離れた席から眺めていた。
羨ましいとか妬ましいとかじゃない。ただ、ああいう眩しい場所に自分が立つことはないと知っていた。
だから本を読みながら、耳だけを澄ませていた。
ああいう空気に自分の声が混ざると壊れてしまう気がしたから。
やがて榊原は当たり前のように俺の机の前に座った。そこは榊原の席じゃない。けど、誰も咎めないし、俺も拒まない。
「よう、桐島。シコってるか?」
これが俺たちの定番の挨拶だった。
「本を読んでる。昨日買った」
視線はページから離さず、自然に返す。
「へぇ、どんな本?」
「海外の小説。ミステリーらしい。テーマは真実の愛……だとか」
言葉を濁した。自分には似合わない響きに思えたから。
榊原はふーんと喉を鳴らした。そのタイミングで、教室の奥から声が飛び込んでくる。
「最悪、マジで最悪!」
桜井だった。
彼女は鞄を机に放り出しながら言う。
「おはよ。二人とも!聞いて!コンビニでご飯買おうとしたら、男の人にドンって押されたの!」
榊原はケラケラと笑った。
「お前が見えてなかったんだろ」
桜井はムッとした顔になる。俺はつい笑ってしまった。
「ちょっと!なに笑ってんの!」
彼女にポコポコ叩かれて、俺は苦笑した。
そんな日常のやり取りの中で――
「榊原悠真、いるか?」
白い肌の短髪の男が教室の入り口に立っていた。
榊原はわずかに顔を強ばらせ、席を立って男に近づいていった。
「最近越してきた寿蓮」
桜井が俺の耳に囁いた。その声色は妙に優しく、俺の胸をざわつかせた。
――それから三週間後。榊原の父の不動産会社は倒産した。
あの日から、空気は一変した。
榊原の周りにいた笑顔は消え、代わりに冷たい視線と嘲笑が飛び交うようになった。
昨日までの人気者は、今日からただの「負け犬」扱い。
俺はその変化を真正面から見ることができなかった。
「おい桐島、俺とお前は友達だもんな」
寿がそう言って白い歯を見せたから。
その言葉にすがるように、俺は寿の側に立った。
榊原は桜井と柏と一緒にいることが増えた。
俺は桜井を止めたかった。榊原と一緒にいたら、彼女まで標的になると分かっていたから。
でも、桜井は榊原のそばを離れなかった。
それが強さなのか、愚かさなのか、俺には分からなかった。
榊原は昼休みになると、一人で教室を出るようになった。
以前は皆の真ん中で弁当を広げていたのに。
俺は背中を見送るしかできなかった。
ある日の小テスト。
俺は問題を解くのに夢中になっていた。そんな時、カランと音がして、一本のペンが俺の足元に転がった。
榊原のものだった。
彼は安堵したように左手を差し出す。
俺は自然に拾おうと腰をかがめた。
だが、その瞬間。
前の席の寿が振り返り、ニヤリと笑った。
その笑みに、背筋が冷たくなった。
時間が止まったように感じた。
拾って返せば――榊原との関係が少しは繋がる。
拾わなければ――寿の一派にいられる。
ほんの一秒の逡巡の末に、俺は手を止めた。
――俺は、そのペンを取らなかった。




