第3話:整理整頓しかできない男、感謝される
荒野を歩いていた。
地図もない。水も食料も持っていない。
獲物を狩る能力も、身を守る術もない。
あるのは、容赦なく照りつける太陽と、
風に混じって肌を打つ、乾いた砂だけだった。
靴の底はすり減り、足の裏は焼けた石の上を歩くように痛んだ。
それでも立ち止まりたくなかった。
立ち止まれば、自分が“何者でもない”という事実に、
押し潰されそうだったから。
——また、必要とされなかった。
追い出されたわけじゃない。
ただ、静かに、“いらない”と判を押されただけだ。
「整える力より、壊す力が求められる」──
レオンの言葉が、風と一緒に脳裏を吹き抜ける。
前の職場でも、似たようなことを言われた。
「神崎さん、整理ばかりやってるみたいですけど、それって意味あるんですか?
ちゃんと“成果”になるんですか?」
自分に特別な能力がないことは分かっている。
だから周りのために動いて、整理しても、最後には“自分の価値”が残らない。
異世界に来れば、何かが変わる気がしていた。
でも、世界が変わっても、俺自身が変わるわけじゃなかった。
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どれほど歩いたころだろう。
目の前に、木立といくつかの屋根が見えてきた。
「……村、か?」
焦げたような木柵、傾いた小屋、うっすらと立ちのぼる煙。
まるで時間が止まったような、静かな場所だった。
その入口、乾いた井戸のそばに、ひとりの老人が立っていた。
鋭い灰色の瞳と、深く刻まれた皺。
日焼けした顔には、何度も飢えや干ばつを乗り越えてきた者の厳しさがあった。
「……流れ者か」
掠れた声に、かすかな警戒と、疲れがにじんでいた。
「あいにく、この村に余所者を食わせる余裕はない。
口減らしを増やせば、村の誰かが飢える」
当然の言葉だった。
だが、引き下がるわけにはいかなかった。
ここで見放されたら、今度こそ終わる。
命も、心も、もう限界だった。
だから、声が震えても構わなかった。
「……俺、《整理整頓》のスキルを持っています」
「戦ったり、魔法を使ったりはできません。でも、片付けだけは──誰よりもできます」
老人の目が細くなる。
「もし、この村に、納屋や倉庫、
誰も手をつけられないほど荒れた場所があるなら……やらせてください」
「一度でいい。俺に、試させてください」
まるで、干からびた井戸の底を覗くような視線。
それを正面から受けながら、必死に言葉を繋いだ。
「……本当に、何もできない人間じゃないって、証明させてください」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて、老人は深くため息をついた。
「……ついてこい。ただし、役に立たなければ、明日の朝には出ていってもらうぞ」
それで、十分だった。
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連れて行かれたのは、村の裏手にある古びた納屋だった。
木製の扉は軋み、隙間から差す光に埃が舞う。
中には、割れた桶、錆びた農具、破れた袋、くたびれた荷車。
そしてそれらが、無秩序に積み上げられていた。
「こういう場所……前にも、あったな」
前世の会社の物置部屋。
壊れかけたコピー機、正体不明のパーツ、処分待ちの書類の山。
誰も見向きもせず、誰も手をつけようとしなかった。
みんな、“今すぐ必要なこと”で手一杯だった。
「見えているのに、見ないフリをしている場所」は、後回しにされて当然だった。
だから俺は、一人で手をつけた。
使える部品と廃棄品を分けて、棚を組み直して、動線を整えて。
でも、誰にも感謝はされなかった。
同僚に「暇そうだな」と笑われて、上司には「他にやることないのか」と呆れられた。
感謝なんてされなかった。
誰の成果にもならなかった。
けれど俺は、知っている。
そういう“誰も手をつけない場所”が、
気づかぬうちに、人を疲れさせ、組織を蝕んでいくことを。
整えられた空間が、人の気持ちを少しだけ軽くすることを。
目の前のこの納屋も、
誰かが見てくれると、信じたかった。
《スキル発動:整理整頓(レベル1)》
→「視界内の物体の最適配置」起動
頭の中に、完成図が浮かび上がる。
導線、用途別、材質別の分類、使用頻度に応じた棚割り。
今なら、それが“確信”として見える。
手を動かすたびに、埃が舞い、視界が晴れていく。
心の中も、少しずつ整っていく気がした。
最後の棚に道具を並べ終え、
雑巾で木の表面を拭き取ったときだった。
「……これを、たった一人で……?」
入り口に、老人が立ち尽くしていた。
「ここまで綺麗になったのは、何十年ぶりか……。
本当に、整えるだけで、こんなにも変わるのか……」
手を伸ばし、棚に置かれた道具にそっと触れる。
その表情は、どこか誇らしげだった。
「……ありがとう。本当に、助かった」
その言葉に、喉の奥が詰まった。
必要とされること。
“ありがとう”と、誰かに言ってもらえることが、
こんなにも嬉しいなんて、知らなかった。
「……どういたしまして」
かすれた声が、小さく震えていた。
《スキルレベルが上昇しました:整理整頓 Lv2》
新効果:「空間認識」追加
※視界内の配置バランスがより鮮明になります
整えるだけで、人に感謝される。
そんな当たり前のことが、こんなにも嬉しいなんて——
俺は、知らなかった。