エコーチェンバー
帰宅したとき、妹は部屋に籠っていた。「ただいま」と言っても、「おかえり」の返事もない。妹も「ひと仕事」を終え、契約が更新されることを確信して、ヘッドフォンをつけて大音量でゲームに没入しているのだろう。
冷蔵庫を開けると、イクラとホタテの冷製パスタがラップをかけた皿に入っていた。刻んだ海苔と大葉が見た目にもアクセントになっている。私が3時過ぎにRでハンバーガーを食べたことを知った妹が、軽めの夕食を用意してくれた。こんなおいしそうなものを見せられたら満腹でも無理に食べたくなる。少しでもお腹を空かせようと、先にシャワーを浴びることにした。
熱いお湯で汗を流し、冷房で涼みながら、濡れた髪の毛のままテレビをつけた。
ニュースのテロップが目に飛び込んでくる。
「盆踊り会場で3歳の女児が外国人に液体を噴射 3人死亡 十数人が搬送」
私は画面にくぎ付けになる。埼玉県△△市で行われた盆踊り大会に集まっていった外国人住民の集団に向かって、3歳の女児が硫酸を含んだと思われる液体を噴射したというのだ。女児は取り押さえられ、近くにいた両親とともに連行された。ゴーグルをかけ、口元をバンダナのようなもので覆い、車輪のついた掃除機のような形のタンクを引きずり、本体に接続されたホースから液体を噴射したという。周囲には大勢の大人がいたが、危険な液体を噴射する女子になかなか近づくことができず、凶行が数分間続いた。十数名の外国人が病院に搬送され、3人の死亡が確認された。被害者には子供も含まれているという。
「女児と両親を知る人物」として近所に住むという50代の男性がインタビューを受けていた。「数年前、近所に暮らす外国籍の住民に車を傷つけられて以降トラブルが絶えなかった。外国人に対する憎悪を募らせていたと思う。まさかあんな小さな娘に怖ろしい教育をしていたなんて信じられない…」そう興奮気味に語っている。
テレビでは凶行の現場を撮影した映像は流れていない。近くにいた人間がみんな逃げて誰も撮影ができなかったのか、あまりにも凄惨で放送を控えたのか…。後者ならYouTubeに誰かがあげているかもしれない。私はテレビをつけたまま、スマホを手に取った。
―ロンドンで移民排斥派がデモ
―アイルランドで反人種差別デモと反移民デモが衝突
―イギリスで難民申請者が一時的に暮らすホテルを700人の極右集団が襲撃
―中南米系住民がトランプ支持へ「わけのわからない移民がどんどんこの国を壊していく」
―フランス極右政党「移民は国家を水没させる」と危機感を煽る
スマホの画面にニュースフィードが次々と浮かび上がる。
職業柄、私は海外情勢には興味がある。近頃はヨーロッパの移民問題に関するニュースをよく見ていた。まさにエコーチェンバー現象。似たようなニュースばかりが表示される。
私は少しだけ怖くなった。私のエコーチェンバーが現実になったようだ。それでも気を取り直して、スマホでYouTubeを開いた。
求めていた動画はすぐに見つかる。
かなり離れた場所からスマホで撮った映像だが、髪を後ろで束ねた小さな女子の後ろ姿と、液体を浴びて倒れこむ浴衣姿の外国人の阿鼻叫喚が映っている。
戦慄を覚えながらも、私はYouTubeのコメントをスクロールする。
「悪魔」「イカれた両親に育てられた殺戮マシーン」「日本終わった」「この女の子がかわいそう」「移民排斥の天使降臨」「起こるべきして起こった事件」「やっと日本も海外に追いついた」「観光公害を巻き起こす外国人にも硫酸かけてほしい」…言いたい放題だ。
テレビでは、識者と呼ばれる人がコメントをしている。「平和な日本で誰も予想もしえなかったテロが起きてしまいました」
何を言っているのだろう? 私は思う。△△市の日本人と外国人住民の間のトラブルはたびたびニュースになっていた。実行犯が幼児というのは確かに異様だけど、その点を除けば似たような事件は世界中で起きている。
世界は人種差別であふれている。
「こういう事件が起こると予想していました」というのは不適切発言なの? だったらコメンテーターなんていらなくない? 私はテレビに向かってブツブツと語りかける。
「今新たなニュースが入りました」女性のキャスターが落ち着いた口調で言う。「今日の午後4時頃、ハンバーガーチェーンRの池袋店におきまして、小さな女の子に水鉄砲で液体をかけられた外国人客数名が、皮膚に火傷を負い病院に搬送されるという事件が起きました。女児は父親らしき人物に連れられて来店したものの、二人は何も注文せずに店を出たということです。また、女児は一人で店内で食事をしていた女性客に親しげに手を振っている映像が店内の防犯カメラに残されていました。女児と父親らしき人物が店を出た直後にこの女性も後を追うように店を出て、その直後から外国人客が皮膚に痛みを訴えたということです。警察は△△市の事件との関連を調べるとともに、この女性客の身元の特定を進めているとのことです…」
テレビに映し出された防犯カメラの映像には、一人で座っている女の姿が映し出されている。まだ女と事件の関係が明らかではないためだろうか、顔にはモザイクが施されている。モザイクを外せば、女の正体は明らかになる。
正体は私だ。
テーブルに置かれた書類にもモザイクがかかっている。防犯カメラの映像には文字がはっきりと映っているのだ。
モザイクの下に隠れているのは、妹の名前が記された不動産売買の契約書。
私はあの時間に池袋のRで不動産の契約書を絶対に持っていてはいけない人間だった。
防犯カメラに映っているのが妹だと言い張ることができたら…。そんなこと無理に決まっている。私は自分を呪った。私と妹は顔も体型も何一つ似ていない。
4歳下の妹は子供のころから対人関係で問題を抱えてきた。どこでもいじめられてきた。その理由は私にあると思っている。私は勉強が得意で、運動神経もよく、自分が美人であることは幼稚園の頃から気がついていた。妹は、私の持っていたものは何一つ持っていなかった。両親は見た目も生き方もいたって平凡だった。平凡を二つ混ぜ合わせて良い部分と悪い部分に分離し、良い方が姉である私に、悪い方が全部妹に行ってしまった。もし逆の立場だったら死にたくなるか、姉を殺したくなるかのどちらかだろうと、私は何度か考えたことがある。それなのに妹はいつも私を頼ってくれた。平凡な両親から生まれた私が何事も卒なくこなせるのは、すべて妹の犠牲のうえに成り立っている、そう考えるのが自然だった。
私が思いついた、私にできる妹に対する最大の貢献は、我が家の経済的リソースを、きっとこの先もトラブルを抱え続けて生きる妹に集中させることだった。
私は塾にも通わないまま、文武両道で知られる地元の私立高校に入学し、当然のように特待生となった。私の高校では、大学の合格実績を上げるため、徹底的な受験指導の補習授業が行われていたので、塾や予備校に通う時間もないほど勉強をさせられた。私は一度も特待から外れることはなく、大学は推薦でどこへでも行けたが、レベルを落として特待生度に加えて寮費の免除もある首都圏の私立大学の経済学部に進んだ。大学を卒業するまで教育費が1000万円以上かかるとよく言われるが、私が両親に負担させた学費は塾や予備校を含めてもゼロだ。世の中のたいていのことには抜け道がある、私は自分の経験からそう学んだ。
大学を卒業した私は大手の証券会社に就職をし、ずっと都内の支店で営業職をしている。今の新宿支店は三店舗目だが今までの二つの支店と比べて規模が圧倒的に大きい。本部への異動願が叶わないのは出身大学のランクのせいだと思っているが、私が評価されていることは実感できるし、ここで実績を作れば次は本部だと信じている。
顧客のためを思って商品を販売したことは一度もない。すべては会社の利益のため。顧客が投資で失敗してもしょせん他人事だ。数年たてば私は異動となり同じ顧客とは二度と顔を合わせることもなくなる。そもそも世の中には無駄にお金を貯めこんでいる人が多すぎる。私が誠実な営業をしたところで、そういう人たちはいずれ同業他社か銀行、不動産会社などからろくでもない商品を売りつけられるか、投資詐欺や特殊詐欺に引っかかるかが関の山。結局は早いものが勝つ業界だ。それが何十年も繰り返されているのに、お客が消滅することはない。この国の経済力は懐が深い。
妹は実家から通える大学に進学し、在学中に宅地建物取引士の資格を取得して地元の不動産会社に就職した。私は口に出して反対はしなかったものの、妹に向いている仕事とは思えなかった。案の定というべきか。一年後に妹は今の会社はもう限界だと言い出した。地元で転職したところで結局は同じだと本人も理解したのだろう、私を頼って東京に行きたいと主張した。私の部屋は二人で住むには手狭だったが、妹も家賃を入れるし、引っ越し費用は両親が出すと言うので、私は妹と住むことにした。
妹は都内の不動産会社で働き始めたが、今度は半年しか持たなかった。
妹を責める気など少しもない。
「宅地建物取引士の資格に振り回されたんじゃない? まだやり直せるよ、本当にやりたいことをやった方がいいよ、何かやってみたいことはないの?」私は訊いた。
「プログラミングの勉強をしてゲーム関係の仕事に就きたい」妹は答えた。
数年ぶりに一緒に暮らして私が一番驚いたのは、妹が家にいるとゲームばかりしていることだった。私にゲーム業界の知識はまったくなかったけれど、対人関係にストレスを抱えやすい妹には人間を相手にするよりPCを相手にした緻密な作業が向いている気がした。私が学費を負担するから1年間専門学校に通うよう妹に進めた。費用は100万円ほどかかったがそのくらいの貯金は余裕であった。妹はバイトをすると言ったが、バイトはストレスになる可能性が高い。バイトなんかせずしっかり勉強してスキルを身に着けてほしい、それが私の願いだった。その代わりに、妹は家事をすべて引き受けてくれると約束した。
妹の家事は完璧だった。100万円は大金だったけれど、私の家事のストレスがいっさいなくなり、精神的な余裕からか仕事がおもしろいようにうまくいくようになった。お金で解決できるものはお金で解決する、まさに合理的だ。
1年後に専門学校を終了した妹はゲーム関連の会社にプログラマーとして就職した。
現実は、ゲーム業界こそ、凡人は天才の奴隷となってチームとしての行動が要求される場所だった。
「これだったら不動産屋の方がまだよかった、大好きなゲームをやろうとすると仕事を思い出して怖くなる、生きていても楽しいことが何一つない」半年が過ぎた頃、妹はそう言って泣き出した。私に学費を出させた負い目から、妹なりに歯を食いしばったのだとは思う。でも、だめなものはだめなのだ。
妹の次の就職先は「フューチャーインカム不動産販売」といういかにも胡散臭そうな名前の赤羽の不動産会社だった。正社員ではなく契約社員。しかも基本給なしの完全歩合制で3か月ごとの更新という劣悪な条件だった。経費の上限は月5万円。
なぜそんな会社を選んだのかを訊くと、理由を二つ挙げた。一つは出社は週に一度営業状況を報告に行くだけでよいこと。もう一つは契約金額の20%という高額な歩合だ。
「契約金額じゃなくて手数料の20%でしょう?」と私が訊くと、妹は「本当に契約金額の20%もらえる。500万円契約を取れば100万円の歩合が入る。3か月で1件でも契約を取れれば私の契約も更新されるって」と返した。
不動産で500万円って安すぎない?
3か月で契約が1件ってどれだけ難しい仕事なの?
私の頭の中は疑問符でいっぱいだったが、妹の説明を聞いてすべて腑に落ちた。
妹の就職先は、アパートやマンション投資を専門とするとんでもない悪徳業者なのだ。500万円と不動産にしては金額が低いのは彼らが一棟買いしたアパートかマンションを一部屋ごとに持ち分を細分化して販売しているからで、20%もの高額な歩合が支払われるのはおそらく購入価格の10倍程度で売りつけているからだ。当然お金を持っていて頭の弱い人たちか、認知機能の衰えた高齢者がターゲットとなる。そして妹は、このスキームが詐欺だとも気づかず、会社で説明を受けたまま私に伝えていた。もちろん妹に真実を伝えるべきだったが、どれほど回りくどい言葉を使おうとも妹の耳に伝わるときには「そんなこともわからないの?」と変換される。まっとうなつもりの私の言葉がどれほど妹を傷つけるのか、経験からよくわかっていた。だから私はあえて言葉を控えた。どうせ妹は一件も契約が取れず、3か月でクビになるだろう。心配はいらない、犯罪の片棒を担ぐことにはならないはず。それに、私の稼ぎで妹のひとりくらいは養える。仕事を失いずっと家にいて家事をすべてやってくれるのなら、私にとっても都合がいい。そんな思いがあった。
案の定、2か月を過ぎても妹は一件も契約が取れず、私は安心しきっていた。甘かった。一度私に泣きついたことで味を占めた妹は、もう一度私に泣きついた。
「最初の二つの不動産会社は1年持った、ゲーム会社は半年しか持たなかった、契約がとれなければ今の会社は3か月…、どんどん短くなる、このままだと私は人間として終わってしまう、お姉ちゃん、助けて、お姉ちゃんのお客さんを一人だけ紹介して」
「それはできない」私は即答した。「トラブルになることが目に見えてる」そして私は言葉を継いだ。「私が代わりに契約をとってきてあげるわ」
私の頭の中に、私の勧めるものなら何でも買ってくれる認知症の症状が出始めた顧客の顔が何人か浮かんだ。どうせあの人たちはいつか誰かに騙されるのだ。そして、妹には言わなかったが、どう考えても私がやった方が確実にうまくいく。
それからは3か月に一度のペースで、私は自分の顧客に妹の用意した契約書にサインをさせている。顧客に代わって、ネットバンキングで事前に一日の送金の限度額を上げて、送金の手続きも私がすべて実行している。契約書に署名捺印をさせるが、契約書は相手には渡さない。どうせ相手の記憶は曖昧だ。
本業の証券会社の仕事はもう慣れてしまってほとんど緊張はしないが、不動産の契約は3か月に一度のペース。それなりに緊張する。私にとっては「ひと仕事」だ。
「ひと仕事」する日の朝は早めに家を出て、顧客宅に近い駅のできるだけ人目の少ないコインロッカーに契約書を置いてから証券会社のオフィスに向かう。以前、不正防止のため持ち物の抜き打ちチェックを受けたことがある。怪しげな不動産の契約書など間違ってもオフィスに持ち込んではいけない。外出するときはホワイトボードに本当の行き先を書いておく。嘘をつくと万が一誰かに見られたときに面倒なことになるからだ。今日もホワイトボードには池袋と記入した。顧客宅での作業を終えると、私は赤羽に移動して妹に契約書を渡す。妹はオフィスに契約書を持ち込み、私は赤羽のRでハンバーガーを食べる。そうやって「ひと仕事」が完成する。
数時間前に妹に契約書を手渡した時、それまで池袋のRにいたことを告げた。中途半端な時間に食事をした私のために、妹は軽めの夕飯を用意しておいてくれたのだ。
3か月に一度ずつ500万円の契約をとる。20%の歩合なので1回100万円、1年では400万円。これだけの収入があれば妹は安心して毎日を暮らせる。好きなだけゲームはできるし、高価なものには興味がないからたいていの欲しいものは買える。でも実際は妹にこれだけのお金を稼ぐ能力はない。契約をとっているのは私。妹は私とゲームに依存している。
そして依存症は妹だけじゃない。私もそう。私は妹に依存している。私は家のことを一切やりたくない。掃除、洗濯、買い物、料理、妹が全部やってくれる。それに「ひと仕事」ができるのも妹のおかげだ。証券会社の営業は私にとっては全然たいした仕事ではない。はっきりいって面白くもない。それに比べ、罪の意識を持ちながらする仕事は、決して失敗できないという緊張感とスリルを味わえる。いずれ本部に転勤になれば、この機会も失われる。「あと何回できるのだろう」と考えると、愛おしくなる。そして何より、「ひと仕事」終えた後のRのハンバーガーが最高に美味しい。もともとRのハンバーガーは大好きだったけれど、「ひと仕事」の後のおいしさは格別だ。そのために罪を犯す私は、ジャンクフード依存症なのだろう。
まだ容疑者の段階の犯人が、刑事に向かって笑みを浮かべながら「署までご同行願いたい、ってそれ任意ですよね?」とか「それただの推測ですよね? 証拠はあるんですか?」などと強気な発言をするのはテレビの刑事ドラマではお約束だけど、私にそんな度胸があるはずもない。
これだけ世間を騒がせている事件なのだから、警察は威信をかけてこの画像の人物を特定することだろう。今の時代、写真一枚あれば身元など簡単に特定できるだろう。重要参考人として私にたどりつくのも時間の問題だ。
水鉄砲を持った女児と私の間に何の関係もないことは調べればすぐにわかる。私が自分の担当している顧客に対し、詐欺同然の不動産売買の契約を結ばせていたことも、調べればすぐにわかる。
ピンポーン!
インターホンが鳴った。
警察は予想外のスピードで私にたどり着いた。
妹の部屋からは反応がない。相変わらずヘッドフォンをしたままゲームに没頭しているのだろう。私は立ち上がってインターホンの画面に向かって歩を進めた。自分の顔がこわばっているのがわかる。こんなことは初めて。上下の歯がぶつかってガクガクと音をたてて震える。私は首から上の筋肉の支配を失い、どうすることもできない。
刑事の姿を予想してインターホンの画面を恐る恐る覗いた。そこには悪夢があった。
髪の毛をお団子に結って、サングラスをかけ、左手に水鉄砲を持った女児が、私に向かって右手を振っている。
私はギャーと叫ぶ声をあげ、しゃがみこんだ。目を閉じて、両手で耳をふさぎ、目の前を真っ暗にして、頭の中から音を消して、大声をあげた。
「やめてよ! 私はあなたとは何の関係もない、私を凶悪犯にしないで!」