生存本能
アルレウス・フィニッツ。その名を聞けばほぼ全ての知的生命体が震えて逃げ出すほどの恐怖の象徴。そして、人間関してはその他の始祖たちを圧倒するほどの恐怖を植え付けている。
最も思考の読めない第一始祖よりも、最も残酷な第二始祖よりも、最も強い第四始祖よりも、人間に恐れられている。つまり、第三始祖こそ、最も高名な始祖と言えるのだ。
俺は自室から自慢の街を眺める。いつ見ても素晴らしい出来に、思わず見惚れてしまう。この美しい街並みを作るために人間の技術や思考を使ったのが心残りだが、ここまでのものが出来たので、もうその点では人間は魔族を超えていると言える。なにせ既に俺は生活の様式まで真似始めている。フカフカのベッドで睡眠を取り、心地よい目覚めを体感する。そして、朝、昼、晩、共にゆっくりと甘美な食事を味わう。たったこれだけの動作で、命を賭さずに幸福を得ることが出来るのだ。まさかこの俺に過去の自分を愚かだと思わせるほどとは、やはり、簡単に見限っていい生命体ではない。
コーヒーを啜りながら、優雅なブレイクタイムを過ごしていると、街の端の方に何やら人集りが出来ていた。よく目を凝らすと、我が眷属たちが二人組の男女を囲っている。
なるほど人間か。
今日の俺は機嫌がいいので、救いの手を出そうとしたそのとき、脳裏にふと、今まで生きてきた中で最も恐ろしかった記憶が蘇った。たった一人の人間の男に、完膚なきまで叩きのめされた挙句、領域を定められるという屈辱。本来ならば、この街はもっと大規模に展開されているはずだったが、そのせいでこんな小規模に収まってしまったのだ。
なぜ今その記憶が蘇ったのか。簡単な話である。それは、二人組の男の方が、俺を完膚なきまでに叩き潰した張本人だからだ。
俺は深呼吸をした。
落ち着け。負けたのは過去の俺の話。今の俺はあの時の何倍も強く、眷属の数も倍以上いる。それで敗北を恐れるなんて、俺らしくない。
俺は優雅にコーヒーを啜った。そしてそのまま吐き出した。
鼻を抜ける恐怖の香り。口の中一杯に絶望が広がる。どれだけ心構えが良くても、体は恐怖に打ち勝てなかった。カップの中は、波紋が何重にもなって発生しており、その時初めて全身が小刻みに振動していることに気づいた。戦うな、死ぬぞ。と全身が叫んでいる。俺の思考は、先程浮かんできた愚かな考えを捨てて、どう生存するのかへとシフトしていた。
「……ロウ・クレッセントの横に、女……?」
その瞬間、激情と呼んでいいほどの嫉妬心が湧き上がる。ロウ・クレッセントの横というこの世で最も安全なポジションを奪われたことに対する憤り。それは、欲しいもの全てを欲しいままにしてきた自尊心を刺激するには十分すぎた。だがそんな感情も刹那の内に消え、生きることに精一杯になっていた俺の頭は生存へのヒントを弾き出した。
ああ、媚びよう。そういえばタンスの中にそれに適した服があったはずだ。
俺は電光石火の勢いでタンスへと手を伸ばす。同時に、髪の毛もそれ適した髪型へと整える。隣に女がいるということは、普通の男と同じくらい性欲があるということ。自慢ではないが、俺の女装は中々に美しい。その姿で媚び諂えば、もしかしたら殺されないかもしれない。恐怖でどうにかなった頭でこれほどの策を思いつくとは、やはり俺は聡明だ。
即座に着替え、俺は見目麗しい自分の姿を鏡で確認する。よく似合っている。同時に屈辱的でもある。この姿を眷属達に見られたら、と思うと震えが止まらないが、俺はそんなことよりもロウ・クレッセントが怖かった。生き残れるなら、プライドなんて必要ないのだ。
恥と恐怖と緊張で頭はとうにどうにかなっている。入り乱れた感情のせいで、顔が若干紅潮しているが、治るのを待つ暇はない。
俺は自慢の窓を突き破って、目の前の街に飛び降りた。