桜花見参
その祠は木漏れ日を浴びていた。
小さな祠。
鳥居はなく、年代を感じさせるそれは、立派とはいえない
それでもなお、凛とした清楚さを見るものに感じさせる。
木漏れ日を浴びながら、何者かが、そこで眠っているような幻想……。
「狐が、ここで丸まって眠ってるみたいね」
すっかり回復した柊木藍香は、そのように評した。
不破夕莉は、彼女とは違う。
彼は、ここへ来るたび、どこか、懐かしい匂いを嗅いでいるような感覚を覚える。
遠い昔、誰かと交わした約束。
その時に嗅いだ、愛おしい香り……。
祠を背に、森を見渡すと満開の桜。
その向こうに、穏やかな街並みと、青い空が覗いて見えた。
不破夕莉が口を開こうとし時、悲鳴が聞こえた。
不破夕莉、西園寺蓮、柊木藍香の三人は、目を合わせる。
もう一度、悲鳴!
「ここは、鎮守の森よね」
柊木藍香が聞く。
「空寺が護ってきた神聖な場所のはず」
西園寺蓮は、足を震わせた。
妖気というものがある。
異界から境界を超えてくる化け物たちが発する気のようなもの。
鋭敏な研ぎ澄まされた感覚を持つ、退魔士のような人間は、それを察知したりする。
妖気が漂う。
それが、景色を汚しているのが誰にでも分かってしまう。
強い妖気……。
この場にいる三人は、誰しもが感じ、そして、悲鳴を上げるクラスメイト。それが危険なのは、明らかだ。
もの言わず、三人は、悲鳴の方へ急ぐ。
不破は、スキルを使う。
彼に、出し惜しみする気はない。
三年前、妹を助けようとして覚醒した力。
今より五年前、その力があれば……。
両親に守られながら逃げたり隠れたりしないで……彼自身が戦えば、何も失わずに済んだかも知れない力。
彼は、左手を腰の位置に添える。
それは、まるで、そこに刀の鞘があるかのようだった。
彼らは駆ける。
生徒の一人が、何かに弾かれたのように、そして、吹き飛ばされたかのように、森の木々の間を、飛んでくる。
「大丈夫か」
受け止めたのは西園寺だ。
彼は、しなやかに動き、上手に、そして丁寧にクラスメイトを受け止めて見せた。
不破夕莉は駆ける。
左手を腰に置き、そこに右手を……。
「抜刀! 【妖刀初桜】」
そこに刀が現出する。
「抜刀スキル……」
柊木藍香が口ずさむ。彼女は、その手に護符を握っていた。
開けた場所。
不破たちの視界が開ける。
妖魔が一匹。
それを囲む? 生徒たち……。
彼らとて、異界の化け物に無防備な訳ではない。
彼らの高校は、退魔士を育成する専門機関でもあるのだから……。
それでも囲むにはいたらず。無秩序に散らばった状態。
一方的に蹂躙される寸前。
妖魔が動く。
獣人のような姿。禍々しい妖気に覆われ、原型を失いかけている。それでも、生える尾の輪郭は、妖狐の類いと教えてくる。
「野狐……」
柊木藍香は、最下位に位置する妖狐の位をつぶやく。
彼女のばら撒いた護符が、散らばっている生徒たち、一人、一人へ向かって飛ぶ。
不破は、現出させた妖刀【初桜】の刀身に、左手の指を添える。そこから指を滑らせ、刀身に力を注ぐ。
「このぉー」
声を上げ、斬りかかった!
野狐は、その一撃を避けようともせず、その身体に受け、黒い血飛沫が上がる。
「斬れた」
不破は、そう思った。
しかし、傷口から溢れるように、どす黒い霧のようなものが溢れ出た。
「クククク、美味そうな匂い……その刀からする……」
野狐の目がぎらつく。
そして、ゆっくりと不破の方へ……。
「何してるの! 逃げなさいっ!」
柊木藍香が叫ぶ。
後ろから追いついてきた西園寺蓮も続けて声を上げた。
「夕莉、無茶をするな!」
不破は、退かない。
彼は、退かないと決めている。
両親を失った日。
そして、命懸けで妹を助けることが出来た日。
彼は、決して逃げない。
だから、
「妖狐風情が調子に乗ってるんじゃねえ!」
前へ踏み出す。
来る前に、討つ!
「【初桜】、踏ん張って切り裂け!」
もう一撃、その一撃に、野狐の無防備が過ぎる。
今度は、額に……。
不破の一撃は、確かに届いた。
またしても黒い霧が、何もかもを無効にしてしまう。
「刀、喰う。そのあと、おまえも喰う……」
野狐は【初桜】の刀身を掴む。妖魔でも、ここまで実体があやふやなのは珍しい。
柊木藍香はスマホを手に取り誰かへ連絡をしようとしている。
「ダメ、つながらない……。お姉ちゃん……」
彼女は、特級退魔士の姉に助けを請おうとしていた。
そんなものは、連絡が取れても間に合わないのは、誰の目にも明らかだった。
彼女が繰り出した護符も、きっと野狐をしのぐのに、気休め程度にしかならないのも、誰も彼も気づいている。
「異常だ……」
西園寺蓮は、そう思う。
野狐は、そこそこ強い。
抜刀スキルだって、退魔士の中では、激レアの部類。
不破夕莉は強い。
それに間違いはない。
ただ彼がまだ未熟だった。そして、野狐が異常だった。
ただ、それだけの現実。
「みんな……、今のうちに逃げろ……」
不破夕莉は、決して逃げない。立ち向う。そこにのみ、出口を見つけようとする人間。
柊木藍香はスマホを握る手を震わせた。
「ばか……」
彼女もまた逃げない。数枚のとっておき護符を胸元から取り出す。彼女の姉がお守りと言って渡してくれていた護符……。
そんなものが通用しないとも知っている。
「もうっ! 神さまでもいたら、助けなさいよっ!」
やぶれかぶれといった雰囲気ではない。自分の臆病を吹き飛ばすための彼女なりの叱責!
不破夕莉の右腕は、野狐の身体に飲み込まれていた。
半身がそこに加わるのも時間の問題。
それでも、彼は、笑ってみせた。
それも、彼女の叫びを聞いたからだ。
「神さまなんかいねえ! だから、最後まで人はあがくんだ!」
「ダメだ……夕莉が死んじゃう……」
その姿を見て西園寺蓮は、鼻をすすると、ある覚悟を決めた。
その彼の覚悟より早く、力が、この場にやってくる。
桜が舞い、その力に敬意を示すかのようにして、いく手を譲る。桜、舞い踊る道……
野狐の不破夕莉への興味は消え失せた。
彼の身体は力なく地面に投げ出される。
大怪我だ。生きているのが不思議と言えるぐらいの大怪我をしている。
「うへへ、くぅこのおぉか、うまそう」
一人の女性。
巫女服姿の大人の女性。
黄金色の立派な尾。頭の耳は誇らしげに凛と立つ。腰まである長い髪は、尾と同じ色。艶やかに色を放ち。ふわふわと柔らかさを携えている。
その女性……、妖狐の女性は、不破夕莉の元へ。
彼は、立ち上がろうとしている。
右手には妖刀【初桜】が握られていた。
野狐に吸い込まれた時、彼は、その手を刀から離すことは、無かった。
「それを、まだ握っておるか……」
その彼の手を巫女服姿の女性は、愛おしいもののように眺める。ふわふわの尾がゆっくりと左右に揺れた。
「遅すぎじゃ」
女性はかがむ、目の高さが不破と同じになった。
彼をいたわるようにして、その肩へ、彼女は手をまわす。
「誰だよ、おまえ! あれは、俺が倒す!」
「相変わらずじゃな」
女性は、彼に肩を貸すようにして立ち上がる。
彼と彼女は立ち上がった。
「おぉおかぉー、つまそおー」
野狐は、手を突き出すようにして彼らの方へ。
「ふん、満足にしゃべることすら出来ぬ、下等が」
彼女は一線を、野狐との間に引くようにして動かした。
そこに、見えない壁。
それに、野狐は行く手をはばまれる。
「主が嫌というても……」
不破の頭に、ある名が浮かぶ。
それは【桜花】、遠い昔に出会ったはずの妖狐の名前……。
「桜花……」
「つくづく遅すぎじゃ……侍というものは、まことに勝手じゃからなぁ」
いつのまにか、赤い鳥居が一つ、彼と彼女の前に現れている。
「神さま……」
柊木藍香は、本当にそう思った。
巫女服姿の美しい女性、妖狐の桜花は、誰が見ても、そう言うに違いなかった。
桜花は、彼女を見た。
「娘、わしは神ではない……それと、神さまは嫌いじゃ」
桜花の子供ぽい笑顔。美人が見せた少女の表情には、優しさの奥に、深い悲しみを隠しているようだった。
妖狐の桜花と不破夕莉が鳥居をくぐる。
不破夕莉の身体に桜花が吸い込まれるようにして重なる。
彼の怪我が癒えていく。
西園寺蓮も柊木藍香も、この場にいるクラスメイトたちは、それを拝むようして見ていた。
「仕方ない、ついでじゃ」
不破夕莉には似合わない言葉遣いが彼の口から聞こえる。
それから彼の身体は、彼女の姿へと……。
妖狐の桜花は、この世に肉体を持って現出した。
一線を越えることができない野狐は、うめき声を上げながら、恨めしそうに何度も、何度も、見えない壁に突っ込む。
「さて、争いは嫌いじゃが、罪は償って貰おう」
桜が彼女を覆うようにして集ってくる。
「風景を汚した罪、平穏を破った罪、そして、もっとも重いのは、大切な待ち人を傷つけた罪!」
今までとうってかわって、桜花は、妖狐らしい残忍な笑みを見せた。
「桜の刃よ……吹雪いて舞え! 桜吹雪!」
一斉に桜が野狐に遅いかかる。
残忍な美しさ……何かもかも全て、血の一滴、塵一つ残さず、それが存在したとされる全ての痕跡を切り刻む。
野狐の全てが無に帰る。
桜吹雪は、吹雪いて消えた。
「さて、もう一眠り……」
桜花は、ゆっくりと膝から崩れて、地面に寝てしまった。
「神さまなのかしら?」
柊木藍香は、そばに寄って彼女の髪を撫でてみた。
「蓮は?」
西園寺は、妖狐の桜花を起こそうとするも、その気配は無かった。
鎮守の森の騒ぎの後……。
明くる日、不破夕莉は、自室で目を覚ました。
西園寺蓮と柊木藍香が、相談の上、そうしたのだが……。
とにかく、不破夕莉は、自室で目を覚ました。
ベットから降りる時、かれは、そこがいつもより高く感じられた。
身体の違和感は……と思い、野狐のことにいたった。
「桜花……」
はっとなり、胸に違和感。
柔らかい膨らみが二つ。
「なんだと……」
かがみに映る姿……
「違う……」
そこには女の子が映っている。
妖狐の桜花……その姿のずっと幼いころ……。
大人の女性が少女の姿になっていた。
黄金いろの髪は艶やか、尾はふわふわ。
凛と立つ二つのお耳とくりくりのお目々が愛らしい少女だ。
「違う!」
彼の自らの胸を揉む手は止まらない。
「お兄ちゃん、あさー」
妹が部屋の扉を開けた。
そして言う。
「だれ?」
夕莉は自分の胸を揉みながら妹に問う。
自分の顔を指差しながら問うた。
「だれって、だれ?」
妹が扉を閉める。
「おじぃちゃーん、お兄ちゃんが、ヘンタイ!」
不破夕莉は、膝から崩れ落ちた。
そして、胸を揉むと落ち着くとも思う。




