7 鉱山街の一夜
レオンハルト率いる騎士団一行は、街の入口に程近い森の中で、野営のためにテントを建てて街の警護に当たっていた。ツェルクト河で起きていた凶行現場を目の当たりにし、分団員はレオンハルトの指示通り、騎士団本部へ応援要請を出している。今回の遠征で、分団に下された命令は“ツェルクト河で起きた魔術痕の調査”のみであったため、それ以上の行動…例えば、魔術を放ったであろう魔術師の捜査や討伐をすることはできなかった。なぜならば、現場での緊急事態における団長判断を除き、隊を動かす判断を下すのはロンダベルク国王だからだ。ロンダベルク王国ならびに国王と、国民の護衛を活動の礎とする騎士団において、王の命令も無しに騎士団の名の下で行動を起こせば、国王への反逆として罪に問われる可能性すらあるのだ。
しかし、騎士団本部からの伝令を待つ間、いつ敵側の不審な動きや攻撃があってもおかしくはない。更にこの状況下で唯一、分団員に指示を出せる立場である分団長のレオンハルトが、人命のためとはいえ魔力を大幅に消費し、碌に戦うことができない状態だ。今ここで仮に、レジスタンスや魔術師からの襲撃を受けたら、分団は半壊どころでは済まされないだろう。今は、レオンハルトの魔力回復と、本部からの伝令を待つこと。そして鉱山街に住まうロンダベルク国民の護衛が、彼らがし得る最善の行動範囲だった。
夜の闇に包まれた冬の森。雪の止んだ森の中はシンと静まり返り、生物の気配はしない。風が不気味なほどに凪いだ夜だ。焚火の炎が揺らめき、護衛に立つ2人の騎士団員の頬を照らす。早朝からの訓練に引き続き、伝令を受けてから休む間もなかった彼らの表情には、さすがに疲労の色が見てとれた。しかし彼らは弱音一つ漏らさず、何か異変があればすぐ動けるよう周囲を警戒していた。
やがて街の中から、揺れ動くランプの灯りが1つ。そして数人の足音が近付いてくることに気が付き、騎士団員の2人は手にした槍を握り直して警戒の色を濃くしたが…重そうな鍋らしきものを運んでいる見知った仲間の顔を見るなり、それぞれ安堵したように強張っていた表情を綻ばせた。騎士団員の1人、煤けた茶髪を逆立てた青年が槍の構えを解くと、腕を上げ大きく手を振る。
「おーい、ウォルター!待ちくたびれたぜー!」
余程緊張していたのだろうか、張り詰めていた糸が一気に緩んでしまったのだろう。騎士らしからぬ礼節を欠いた出迎え方だが、分団には平民出身の若者が多く在籍しているため、それを咎める者はここには居ない。
「随分元気そうじゃないか、ルッツ。オリバーも、遅くなってすまなかったな」
「お、俺もいるよォ…」
大鍋を担ぎ片腕を上げて応えたウォルターの後ろから、ウォルターのものと全く同じ鍋を両手で持ったベネディクトが、覚束ない足取りでフラフラついてくる。2人の格差を見た灰がかった茶髪の青年ルッツと、オリバーと呼ばれた騎士団員らが顔を見合わせて吹き出したが…ベネディクトの後ろから、ランタンとバスケットを持っている可愛らしい小柄な娘の姿を確認するなり、オリバーが一つ咳払いをして崩れた表情をきりっと正した。
オリバーが、給仕の娘であるマルカへ礼儀正しくお辞儀をする。国内では珍しい、群青色の髪がさらりと頬にかかった。
「こんばんは、お嬢さん。オリバーと申します。こんな夜更けに、我々へご協力いただき感謝致します」
オリバーに声をかけられたマルカは、その丁寧な口調と仕草にぱっと頬を桃色に染め、すっかり見惚れている。ほう…と溜息をついてオリバーを見つめる視線は、分かりやすい好意の熱が込められていた。
「まぁ、オリバー様とおっしゃいますの…!私マルカと申しますわぁ。ねぇ、その素敵な髪の色…リンデル共和国からいらしたの?」
「祖父の家系が商人でして。荷物をお持ちしましょう、話はこちらで」
マルカからバスケットを受け取り、自然と焚火周りの野営地へエスコートするオリバー。その後ろ姿を、ベネディクトがじっとりとした目付きで恨めしそうに見ていた。
ウォルターとベネディクトが、焚火の近くへ大鍋を置くと、ルッツがもう待ちきれないといった様子で駆け寄ってきた。各々が食事の用意をしながら、ウォルターは不意にレオンハルトの休むテントの方へと視線を向ける。ウォルターが、テント内部から薄明かりが漏れ出ているのを確認した後、ルッツへ視線を移した。
「ルッツ。分団長殿のご様子は?」
「少し前に、気を失ったみてぇに眠られたばかりだ。奇跡みたいな魔術だったな…今はそっとしておいた方がいいと思うぜ」
「そうか。…本部からの伝令はまだか?」
「来ていない。分隊からは、フェニクス殿が到着したと連絡があった。魔術痕の調査が終わったら合流するってよ」
ルッツが木製の深皿を取り出して、ウォルターへと手渡す。そして、ぽつりと呟いた。
「なぁ、ウォルター。本当に、レジスタンスが絡んでいたとしても…末端の俺たちに、王都からの応援なんてくるのか?」
ルッツの視線は不安気に、頼りなさそうに彷徨っていた。おそらく夕刻に見た惨状を思い起こしてのことだろう。惨殺されたオルキア兵は皆、年若い新兵だった。そうでなくてもあの光景は、田舎上がりの青年の不安を煽るのに十分であったことに違いない。ましてや、今はその凶行が自らの身に降りかかるかもしれない状況である。ルッツの不安に押し潰されそうな胸中を察してか、ウォルターは事もなげに振る舞いながら、大鍋の蓋を開けた。そして温かそうなシチューをたっぷりと木製の深皿へ盛ると、それを押し付けるようにルッツへ差し出した。
「安心しろ、ルッツ。本部にはジークフリード様がおられる。あのお方が、団員を見捨てるなど誓って有るはずがない。ほら、ここの飯は美味いぞ?少し休憩にしよう」
「だよな…悪ィ。少し弱気になってたみたいだ」
ルッツが、力強く笑うウォルターから木皿を受け取ると、安堵の笑みを浮かべた。
ジークフリード・ノイマン…現騎士団長である彼は、平民出身であるが故に、身分に分け隔てなく振る舞う態度から騎士団員からの人望に厚い。その実力も申し分なく、戦時中ではオルキア帝国の侵略から、幾度となくロンダベルク王国を守ってきた精鋭の騎士だ。戦時中の功績を讃えられ、国王から爵位を賜り、レオンハルトが騎士団長へと昇格した後は、王室付きの親衛隊への出世が約束されている。ウォルターの言う通り、彼ほど騎士団を愛し、国家のために忠義を尽くしてきた人材が、仲間の助けを求める声に耳を貸さないはずがないと思えた。
食事の用意が整うと、焚火を囲んだ騎士団員たちと1人の娘が、それぞれセブンス・ヘヴンズドアから持ち寄った料理を口にしていた。ルッツ、ベネディクト、ウォルターが街を背に、オリバーとマルカが街中を見渡せる位置に布を敷いて座っている。食事中でも警戒を解くことはせず、各々の武器はすぐ構えられるよう傍に置いている。
「っあー、生き返る……料理長にお礼を言わなきゃな!」
「だなぁ、重たい鍋運んできた甲斐があったってモンだ。にしてもオリバーの野郎ぉ…ちょっと珍しい髪色だからって、マルカちゃんと楽しそうにしやがって!羨ましい!ちょっと邪魔しに行ってくる!」
「みっともない真似はやめておけ、ベネディクト。マルカ嬢を見てみろ、すっかり夢中じゃないか。あれはもうレオンハルト殿のことすら忘れてるぞ」
「うう、マルカちゃーん…。オリバーのバーカバーカ、女ったらし…」
「お前そういうとこだぞ?モテねえの」
団員の笑い声が夜の森に明るく響いた。まるで不安や恐怖を紛らわせようとするように、気丈に振る舞ってみせる団員達は、複雑な想いを重ねながらも束の間の休息を楽しむ。
一方、テント内部にて。魔力を消費したレオンハルト・グランドールは、深く眠りにつき…意識の奥底へ沈み込んでいた。ふわふわと浮ついた感覚で、ゆっくりと意識だけが落ちていく。身体は羽が生えたように軽く、〈あの夜〉が見せる悪夢とは打って変わり嫌な心地は全くしない。寧ろ、不思議とずっとここに居たいとすら思わせるような、懐かしい気持ち…懐かしい匂いのする場所へと誘われていった。
『ーーーーレイン様。レイン様…』
慈愛に満ちた声が、レオンハルトの脳内へ木霊する。レオンハルトは、これが夢であることにすぐ気が付いた。夢の中のレオンハルトが目を覚ます。すると、ここが遠い遠い昔…レイノルド・マーセルの記憶の中で見た、マーセル子爵邸の敷地内であることが分かった。レオンハルトが起き上がると、豊かな緑の芝生が広がっている。そして、そこには1人の儚い容姿をした美貌の女性が立っていた。琥珀色の髪を風になびかせ、蜂蜜色の澄んだ瞳で微笑む…ミゼリー・エル・フランジア。レオンハルトが焦がれて止まないその人であった。
『ミゼリー…君なのか?やっと会えた…』
レオンハルトが、レイノルドの記憶の中でただ一人愛した女性に手を伸ばす。しかし、届くはずの手はただ空を切るだけで、その体に触れることは叶わなかった。ミゼリーも、レオンハルトへ手を伸ばしかけ、そして泣き出しそうな表情を見せて手を下ろし、レオンハルトから視線を逸らした。
『ーーレイン様。私にはもう、あまり時間が残されていません。残された力で、貴方様にお伝えしなければならないことがあります』
『ミゼリー…何でも言ってくれ。君の言うことなら何でも聞き入れよう』
レオンハルトの言葉に、ミゼリーが小さく頷き、そして話し始めた。
『私は、命の消える間際にレイン様へ移したミゼリーの記憶の残影…。私達が呪いを受けたあの晩…炎に巻かれながら、レイン様をお救いできなかったことを悔やんだ私は、私の記憶と引き換えに、レイン様の魂に"命の加護“をかけたのです』
『命の加護…?』
『はい。魂を焼滅させる悪しき呪術から、レイン様をお守りするようにと。そしてレイン様、貴方の魂と記憶は"命の加護“の力で後世に引き継がれ、転生を果たし…レオンハルト様として、今世を生きておられます』
『そう、だったのか…。私は、呪われたがために、輪廻の輪に還れなかったのではなかったのだな…』
レオンハルトは、呪いを受けた証の残る右の脇腹に触れた。事実を知ったレオンハルトは天を仰いだ。ミゼリーが言うには、第二の生を受けた転生は愛した女性から受けた加護の力であり…呪いの正体は、魂をも消し去り、二度と輪廻の輪に戻れなくなる…そんな怨嗟の呪いだというのだ。
レオンハルトは深呼吸をすると、ミゼリーの方へと向き直る。
『では…加護の力となった、ミゼリーの記憶はどうなってしまったんだ?』
レオンハルトの言葉に、ミゼリーは悲しそうな表情のまま、長い睫毛を伏せた。
『私の記憶は、加護の代償として捧げられ、今は深い眠りについております。レオンハルト様には過去の記憶のせいで、幼少よりつらい思いをさせてしまったこと…解呪の重荷を背負わせてしまったこと、本当に申し訳なく思っております』
深々と頭を下げるミゼリーの姿に、レオンハルトはゆるく首を横に振る。
『この世にミゼリーを忘れてしまうより辛いことなどあろうものか。そうだ、ミゼリー…君も転生を果たしているのか?今はどこにいる?』
『私はあの晩、魂を捕縛する不完全な呪いを受け、半分は呪術師に…、コンラッド・スカーレル公爵の手中に囚われております』
『コンラッド・スカーレル…!?それはあのコンラッドなのか?』
レオンハルトは目を見開いた。コンラッド・スカーレルという名が、聞き覚えのあるものだったからだ。前世でレイノルドが英雄の称号を賜り、ミゼリーと婚約した後も何かとミゼリーに付き纏ってきた、彼女の元婚約者の名前…それがコンラッドだ。
『その通りでございますわ。コンラッドは、自らの魂を他者に転移させる禁呪で今も生き永らえ、その執着は今も私に…。私の、もう半分の魂の在処をずっと捜しております』
『ミゼリーお願いだ、教えてくれ…!君の魂のもう半分は今どこに?コンラッドよりも先に見つけ出さねば、…ミゼリーっ…!』
ミゼリーの体が薄く透け始めた。それを見たレオンハルトは、届かないと知っていながらも再度ミゼリーへ手を伸ばしたが、やはり空を掴むだけであった。やがて、レオンハルト自身の視界も薄く揺らぎ始める。夢の世界が終わりを迎えようとしていた。
『もう半分の魂は、貴方のすぐ傍に在りますわ。レイン様、いいえ…レオンハルト様。命を救って下さり、感謝致します…ありがとう。今世こそ、私が貴方様の剣となり、誠心誠意お守りすると誓いますわ』
『待ってくれ、ミゼリー…君は、…一体、どこに……』
もっとミゼリーと話さなくてはいけない、話していたい…そんなレオンハルトの気持ちとは裏腹に、意識が段々遠のいていく。夢の世界は閉ざされ、レオンハルトの意識は海面へ浮上していくような感覚に包まれた。
(忘れないで…貴方は一人ではありません…。神の御加護がありますよう…ーーー)
レオンハルトの途切れゆく視界の片隅で、踵を返したミゼリーの後ろ姿が少しずつ遠ざかり…やがて、レオンハルトの視界は、暗闇一色に閉ざされてしまった。