4 国境線上の邂逅
ロンダベルク王国を大きく囲むように連なるルフトヴァウム山脈を南東に進むと、大地の裂け目のようなツェルクト渓谷が広がる。渓谷間を流れる河を渡り、緩衝地帯を抜ければオルキア帝国領は目と鼻の先だ。国境に程近いにも関わらず、ツェルクト渓谷の麓には、古くから魔術の研究員や、武器職人たちの住む鉱山街があった。
なぜ危険な緩衝地帯に身を置きたがるのか。それは、麓の鉱山にて魔力を有した天然石・魔石の採掘ができるからだ。魔石は、生命の源である魂の元素…魔力の根幹とも言える未知のエネルギーが、長い時を経て結晶化したものだ。
採掘された魔石そのものの価値もさることながら、武器職人たちが魔石を加工して作る武具…通称・魔道具には、更に高値が付けられる。魔道具には使用者の魔力を底上げする力があり、生まれ持っての魔力が低い貴族たちが、見栄や権力の誇示のため競って買い集めていた。また、魔道具はリューネリンデン港に交易品として出荷され、他国の珍しい品々や食料品と取引される。
魔石や魔道具での交易が、作物の育たぬ雪山に閉ざされたロンダベルク王国の経済と生活を潤す一方、採掘を行う現場では絶えず問題が生じていた。魔石掘りを生業とする鉱山街の住民たちが、河口付近を巡回するオルキア帝国軍の偵察隊と争いを起こす事が頻繁にあるからだ。その都度、騎士団はツェルクト渓谷を下って仲裁や処理に赴かなくてはならないため、住民と騎士団との折り合いはあまり良くない。更に近頃、採掘量の低下から魔石の価値が高騰し、リューネリンデン港にて『魔石絡みの闇取引が行われている』との噂がまことしやかに流れ、騎士団内部での不信を買っていた。
伝令を受けたレオンハルト率いるロンダベルク騎士団の団員達は、ツェルクト河口を目指し渓谷を下山する最中にあった。その道のりは切り崩した崖を思わせる傾斜のきつい山道で、整備の行き届いていない道幅は狭く、倒壊した大木に道を塞がれているため、馬での移動には向かない。隆起の激しい場所では滑落を警戒し、一歩ずつ慎重にならざるを得ず、皆の足取りは重かった。更に出立から三刻半ほど…運悪く、団員たちを足止めするかのように、暗灰色の雲から雪がチラつき始めた。この不安定な足場に視界の悪さが加われば、到着は夕刻を過ぎるだろう。寄宿舎を出た頃は、日頃の鍛錬の成果を見せる時と息巻いていた団員達も、今や思うように進めないこの状況に苛立ちが勝り、士気を削がれかけていた。
「こんな日にツェルクト行きなんて…非番の連中が羨ましい。俺はついてねぇよ…全くついてねぇ」
列の最後尾、霜の降りた土塊を踏みしめながら溜息を白く曇らせたのは、ベネディクトという下がり眉と重めの前髪が特徴的な団員だった。農家出身で足腰には自信があるが、山歩きはあまり得意ではなさそうだ。
「べそべそすんなって。調査が終わったら、街のバーで一杯やろうぜ!」
意気消沈したベネディクトを元気付けるのは、栗毛の青年ヨハン。団員になってまだ数ヶ月、若さ故の無謀な言動が目立つものの、持ち前の明るさで皆に好かれているムードメーカーだ。
「職人街には旨い店が揃ってるからな…王都ほどじゃないが」
ボソボソ喋るのは、燻んだ金髪を一結びにしたハインツという青年。痩せた体に似合わず大食いで、隠れた名店や露店探しが生きがいだ。バーで磨いたダーツの腕前を活かしたナイフ投げが得意だが、騎士道に反すると一部の貴族らには不評である。
「お!お前らたまには良いこと言うなぁ!元気かな〜、ロッタちゃんにアリアちゃん、マルカちゃん……」
ベネディクトの声に明るさが戻るが、精悍な顔付きに左瞼に受けた剣の傷痕が手練れた騎士を印象付ける、ウォルターという最年長の団員が軽く手を上げてそれを制した。
「マルカ嬢はやめておけ。うっかり話しかけると分団長殿の武勇伝を延々とせがまれるからな。…おっと、ジーナには内緒で頼む」
「怖いよな、ウォルターの嫁さん」
「美人だけど怖いよなぁ…」
ヨハンとベネディクトが同情の眼差しをウォルターへ向けた。最近、めでたく王都の騎士団本部で食堂を営むジーナと結ばれたウォルターだったが、新婚にして早くも妻には頭が上がらないようだ。
「お前らが盗み食いするからだろう。そんなことより…伝令の魔術痕というのは、…一体何のことなんだ?誰か知っているか?」
顔に当たる雪を払い除けながら、ウォルターが団員達に視線を向けた。しかし伝令からの情報は少なく、急ぎの出立だったこともあり、この場にそれを知る者は居なかった。
訪れた沈黙を裂くように突風がビュウと団員たちの間を吹き抜け、風が止まった瞬間……不意に団員の一人が天を指した。
「見ろよアレ…奇妙な竜巻が…!!」
悪路にばかり気を取られ、空に広がる異常な現象に皆気付くことが出来なかった。それぞれ弾かれたように団員の指す空へ目を向けると…雪雲の層が不自然に、ツェルクト河の方へ吸い寄せられるように流れていた。一箇所に集中した分厚い雪雲の層は、周りの雲を巻き込みながら肥大化し、大きく逆三角形に渦巻いている。
「うっわ…凄ぇ!これが魔術痕か!!初めて見たが圧巻だな」
「風の魔力の残留?にしてはデカすぎる」
天候が荒れ始めた。竜巻に吸い寄せられた突風が八方に吹き荒れる。雪混じりの冷たい暴風に目を細めながら、ヨハンは感嘆に立ち尽くし、ハインツは首を捻り考え込む。そしてベネディクトは、重い溜息をついた。
「どおりで吹雪いてきやがった訳だぜ…やっぱり俺は、ついてねぇ……」
枝がミシリと嫌な音を立てる。
一行は、只事ではない空気を肌で感じながらツェルクト河口へと急ぐ。
魔力は、体力と同じく個人差がある。世界を構成する元素、風・大地・炎・水・星…そして生命の根幹である魂。世界を構成する元素に干渉する者を、魔術師と呼んだ。
魔術師は、想いを唱えた言葉に相当の魔力を込めることで、世界の理に干渉する。しかし、言葉に込めた魔力が一定値を超えると…魔術の発動後、放たれた魔力が残留し、まるで世界の理を捻じ曲げた代償であるかのように自然の摂理に反する痕跡が残る。
魔力の残留…魔術の痕跡、あるいは魔術痕と呼ばれる現象は、強い発光であったり、あるいは空間の歪みであったりと、行使した魔術や魔力の強弱により異なる現象が生じる。それが人々に危害を与える可能性を考慮し、国内で魔術の痕跡が発見されると、ロンダベルク王国直属の騎士団や魔術研究員らが調査や解析、そして抹消に向かうよう命ぜられる。
想いの強さと、所有する魔力とのバランスが魔術発動の絶対条件だが…並大抵の魔術師であれば、世界に大きな痕跡を残せる程の魔術を放つことはできないはずだ。それこそ、術者の魔力を底上げする魔道具でも使用しない限りは。