3 レオンハルト・グランドール
ロンダベルク王国。建国以来、陥落を許さぬ要塞都市と名高いこの国は、夏の短い期間を除けば雪山に閉ざされた小国だ。隣国、オルキア帝国とは、ロンダベルク領土であるリューネリンデン港の自治権を懸け1世紀に渡る攻防が続き、互いに疲弊し合い…現在は冷戦状態にある。しかし近年、オルキア帝国からの折衷案である、いわゆる政略結婚をもってオルキア帝国の傘下に入ることで、表面上の平和が訪れようとしていた。
「戦争が終結…ね。曾祖父さんの代から戦ってきたんだ、そう簡単にいくもんかよ」
「平和になるのは賛成だが、国境沿いはしばらく遺恨が残るだろうな」
「そのうち騎士団も解体…なんてことになったら、俺はどうすればいいんだ?」
「お前は実家の芋畑でも継げよ!」
ワハハハ…と豪快な笑い声が響く。ここはロンダベルク王立騎士団が拠点の一つとしている、ルフトヴァウム山中に聳え立つ要塞。塀の中に建てられた、寄宿舎の食堂だ。オルキア帝国との国境に一番近いこの要塞は、幾度となく歴史に名を残す攻防戦が繰り広げられたが、それも過去の話。戦争終結を待つ今となれば、要塞は敵国への牽制と監視の役を担うだけの、言わばお飾りのようなものだ。故に、見習い上がりの騎士たちの実地訓練場としてお誂え向きと、歳若い騎士のみで編成された小分隊が交代で常駐していた。
そして現在…早朝の雪下ろしから始まる厳しい訓練を切り上げ、極限まで腹を空かせた団員達がこぞって食堂に集まり、温かい昼食をとりながら談笑している。
「分団長殿!騎士団存続の危機を、貴殿はどうお考えでしょうか?」
話の火の粉が降り掛かり、新聞から顔を上げた青年…レオンハルト・グランドール。プラチナブロンドの細い髪に緋色の瞳をもつ彼は由緒正しき公爵家嫡男子だ。長きに渡る戦火の労働力として駆り出されるのは平民出身の若者ばかりだったが、レオンハルトは貴族でありながら自ら志願し、騎士団に入団した変わり者だった。
「騎士団の解体はまず有り得ない。自治や統制を欠いた国家は必ず、衰退するものだ」
言い切って、レオンハルトは慣れた手付きで新聞を折り畳み、剣を携え席を立つ。歩き方一つで育ちの良さが分かる洗練された所作に、栗毛を短く刈った青年がヒュウ、と口笛を吹いて囃し立てた。
「カッコいいなぁ!さすが次期団長サマ!」
青年に悪気は微塵も感じられない。しかし後方でやり取りを聞いていた団員達の顔色はサッと青ざめ、軽口を叩いた青年の口を慌てて塞いだ。
「シッ……黙れよ、命知らずが」
「…公爵家相手に下手なこと言ってみろ、首から上だけで里帰りすることになるぜ……」
先程の騒がしさとはうってかわり、ヒソヒソ声で囁き合う団員を傍目に…食堂の隅の席で寝そべっていた赤髪の男が片目を薄く開け、のんびり起き上がると、レオンハルトのあとを追うように食堂を出て行った。
グランドール公爵家特有のプラチナブロンドを風になびかせたレオンハルトの物憂げな横顔は、王族と言い違えても差し支えないほど整った顔立ちだが…時折その緋色の瞳は、実のところ何も映していないのでは、と思わせるような、決して人を寄せ付けようとしない暗い影を落とした。
レオンハルトが次期団長になり得たのは、一重に剣の腕が群を抜いていたからではない。長きにわたり訓練を共にし、幾度となく語らったことのある団長候補生らですら、いざ手合わせともなれば彼の太刀筋を予測することも、感情を読み解くことも出来ず劣勢に陥り…気が付けば敗北していた。
更にレオンハルトは、稀有な魔力の所有者でもあったが、戦闘において魔術を駆使することはなかった。次期団長の選抜試練のみならず、敵兵を前にした戦場であっても、剣技のみで相手を圧倒してみせた。
「よ、レオンハルト」
「……フェニクス。」
石造りの窓枠に手をかけ、遠くを見つめるレオンハルトに声をかけたのは、フェニクス・フィニアスという燃えるような赤髪が目を引く男だ。彼もまたレオンハルト同様、高位貴族の出身であるにも関わらず、魔術の才を買われ騎士団に流れ着いた変わり者だった。
「どうしたんだよ、顔色が悪いぜ?」
フェニクスは、暗い表情のレオンハルトを心配するような言葉とは裏腹に、面白い玩具を見つけた子供のように、にやにやと口元を緩ませながらレオンハルトの顔を覗き込んだ。
このフェニクスという男。常に飄々としていて掴みどころがなく、何を考えているのか分からない節がある。訓練に遠征、そして戦場では特に団体行動を強いられる騎士団において、自然と団員同士には絆というものが生まれるものだ。しかしフェニクスは、特定の誰かと行動を共にする事もなく、それでいて場を乱すこともない浮いた存在だった。
レオンハルトとフェニクスは、会う度によく会話を交わした。グランドール家当主の姉、ヴァネッサ婦人…彼女の嫁ぎ先がフィニアス家だ。つまり、血縁関係にある彼らは、幼い頃から互いの家を行き来する程には気心の知れた仲だ。そして何よりフェニクスは、ある日をきっかけに、レオンハルトに前世の記憶があることを知ってしまった唯一の身内でもあった。
レオンハルトが重い口を開く。
「…もうあまり猶予がない。姫様のご成婚まで、残り数ヶ月といったところか」
「あーそうだな。その前に慰霊式典だの終戦記念祭だのが待ってるぜ?護衛に検閲に見廻りで大忙しだな。結婚式…つまりオルキア行きは、それからだ」
フェニクスが言うと、レオンハルトは腹立たしそうに奥歯を噛み締めた。
「もうすぐ…もうすぐ奴の尻尾が掴めそうなんだ…!こんな時に式典、オルキア遠征などと!」
眉を寄せたレオンハルトは、苛立ちを隠さず固く握った拳をダンッと石壁に叩き付ける。焦りの見えるその様子は、普段の紳士的な態度からは想像もつかない。フェニクスはレオンハルトの肩にそっと手を置いた。そして影を落とした緋色の瞳を正面から見据えた。
「落ち着けよ。監視が増えりゃ表立って動けなくはなるが…祭典は、王家との繋がりを持つチャンスでもあるんだぜ?なぁ、次期団長さん。記念祭でお前が護衛役を仰せつかるのは?」
「シャルロッテ姫だが。それがどうした?」
「姫はまだ12歳…帝国の申し出を受けてから、国王陛下に外遊を禁じられて塞ぎ込んでいるらしい。しかもお相手は自分より十も歳上の、継承権もないハズレ王子ときた。俺ならとっくに逃げ出してるね」
「王家にお生まれになったからには、国の歯車となる…それも覚悟の上だろう。フェニクス、何が言いたい?」
話の筋が見えないらしいレオンハルトがフェニクスに詰め寄る。フェニクスはやれやれと肩を竦めてみせた。
「お前というヤツは本当に…まぁいい。記念祭は姫サマにとって、母国での最後の思い出作りになるだろう。ここでお近付きになっておいて損はない。上手くやればお前が欲しがっている情報と…、王家の後ろ盾も期待できるってわけだ」
「…確かに、呪術に関する文献も王家ならばあるいは…。しかし、一介の騎士の私などに、姫が心をお許しになるものか」
「剣は剣らしく忠義を尽くせばいいだけさ。心配しなくても"氷の騎士様"の話題は、嫌でも姫様の耳に入る筈だからな」
首を傾げたレオンハルトにフェニクスはククっと笑って…そして真剣な表情になると、レオンハルトに向き直り、少し声を落として言った。
「なぁ、一つ友人として聞いておきたい事があるんだが。…復讐が何になる?過去のことは過去として、今の幸せを生きることはできないのか」
普段、軽口ばかりの友人にしては珍しく真っ直ぐな瞳。レオンハルトは、少しだけ悲しそうに…口元だけで笑って見せた。
「できないんだ、フェニクス。復讐は私のためだけじゃない。ミゼリーの……、彼女のためにも成し遂げなければ」
彼女がそれを望まなくても。
レオンハルトの表情に、もう焦りや苛立ちの色は消えていた。それを見たフェニクスも何かを諦めたように頭を振った。
「はいはい、ミゼリーね…一途な想いは美徳だが、その端くれだけでもマリアナにくれてやればいいのに」
「マリアナ?……ああ、妹君か。夜会に出席せず、すまなかったと伝えてくれ」
「やれやれ。王都に戻ったら伝えておくぜ?"お前に脈はなさそうだ”ってな」
皮肉に笑ったフェニクスは、ひらりと手を振ると立ち去っていった。レオンハルトは、友人の後ろ姿を見送ると…脳裏に長年の標的であった憎き相手を思い浮かべ、虚空を睨んだ。
「ランドゥーラ卿…必ず仕留める」
拳を固く握りしめたその時だった。
1人の団員がレオンハルトを見かけ、慌てた様子で走り寄ってきた。
「分団長殿、こちらにいらっしゃいましたか…!王都より伝令でございます。ツェルクト河口にて魔術の痕跡を確認、調査に向かえとの要請です」
「分かった…出立する。団員の召集を」
レオンハルトは剣に手をかけ、その身を翻した。冷戦状態の今、オルキアの軍勢が下手に動くはずもない……とすれば。胸中によぎった嫌な予感を振り払うように、レオンハルトは足早に寄宿舎を後にした。外はいつの間にか薄暗く、これから迫りくる事態を予兆するかのような暗灰色の雲が、物語の開始を告げる暗幕のように厚く、重く広がっていた。