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苦手な方はご注意ください。

乱れ咲く華々~百合短編集~

私の心情を述べよ

作者: an-coromochi

毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字程度の百合短編を投稿しております。


たまにはほのぼとした王道を目指しましたが、やはり、自分はまだまだ未熟なようです…。


そんな拙い作品ですが、

時間が許すのであれば、是非立ち寄っていってください。


では、週末の暇つぶしにでもどうぞ!

(1) 


放課後の教室には、不思議な魔力が宿っている。


 クラスメイトのほとんどが帰ったか、部活に行っているため、最終下校時刻前の教室は清らかな静寂に満ちていた。


 放送部の活動が終わってから、私――梔子絢香(くちなしあやか)は忘れ物を取りに二年二組の教室に戻って来ていた。


 遠くから、生徒たちのざわめきが聞こえてくる。それらを膜一枚隔てた、外界の出来事のように感じながら、梔子は教室の扉を開く。


 ぼんやりとした夕焼けに染まった教室は、ほんの少しノスタルジックなものを感じさせる寂しさに包まれていたのだが、梔子が窓の向こうの夕焼け空から、自分の席のほうへと体の向きを変えた瞬間、大きくその色を変えた。


 机に突っ伏し、両腕で頭を包み、猫みたいに丸くなった彼女がいた。


 校則で禁止されているはずの黒と白の薄手のパーカーを羽織り、フードを被っていた彼女は、静かに体を小さく上下させている。


 どうやら、眠っているらしい。


 起こしたほうがいいだろうか、と梔子は歩みをそちらに向けた。


 薄化粧を施した可愛らしい横顔が、ほんの少しだけ腕の隙間から覗いている。


 肩ぐらいまで伸びた色素の薄いさらさらの髪が、夕焼けを吸い込んできらきらしている。


 このまま夕暮れに溶けてしまいそうだ。


 梔子の指先が、無意識のうちに彼女の髪に伸びた。想像していた以上に抵抗なく、髪の間をすり抜ける。


 何度かそうして髪の質感を楽しんでいると、ぴくり、と机に突っ伏していた彼女の体が反応した。


 元々起こすつもりだったので、何の問題もないものの、どこか緊張した気持ちになってしまって、鼓動が早くなる。


 眠っているときに勝手に髪を触ったことへの、ちょっとした罪悪感かもしれない。


 むくりと彼女が顔を上げた。


 猫みたいに丸い目が、ゆっくりと見開かれていくのを確認しながら、こちらも変に疑われないように手を下ろし、腰の前で重ねる。


「あれぇ、梔子さんだ」


 目を擦りながら、彼女が呟く。


 未だにドキドキしている胸の鼓動を誤魔化すように、照れ笑いを浮かべて梔子は答える。


「おはよう、鍵谷さん」


 鍵谷花音(かぎたにかのん)は人好きのする笑みを湛えてから、「おはよう」と伸びをした。


「どうしたの、部活は?」


「もう終わったよ。最終下校時刻になる前に、忘れ物を取りに来たの」


「へぇ」と鍵谷は欠伸を噛み殺しながら相槌を打ったのだが、「最終下校時刻?」と梔子の言葉を繰り返した後、弾かれるようにして黒板の上に掛かった時計を見上げ、それからまた素早く窓の外へと視線を動かした。


「うわっ!やばいじゃん!」


 膝の裏で椅子を跳ね除けるようにして立ち上がった鍵谷は、小動物じみた動きで学校指定のバックに荷物を詰め込み、あっという間に帰る準備を済ませてしまった。


「あ、梔子さん、ありがとね」


「え、うん」一体何のことだろう。


「起こしてくれて」


 まるでこちらの心の中を読んだように鍵谷が補足する。


「あぁ、それくらい、別に気にしないで?」


 自分も忘れ物をバックに入れて、彼女の元へと戻りながらそう伝える。


 慌てた足取りで教室の入口まで移動していた鍵谷は、梔子を待とうか、待つまいかという様子で足踏みしていた。


 結果的には待つほうを選んだらしい彼女は、フードを下ろすと、梔子に一緒に行こうと促した。


 同じクラスだが、二人はほとんど会話を交わしたことがない。


 別にお互い、口数が少ないというわけではないが、誰とでも仲良くしている梔子と鍵谷でも、やはり、人付き合いする相手の方向性というものがあった。


 砕けた雰囲気――悪い言い方をすればチャラチャラした雰囲気の鍵谷は、同じような人間を選んでいたし、一方の梔子は真面目で、お堅い発言をしていたため、自然と鍵谷とは違うタイプの人間と過ごす機会が多かった。


 微妙な気まずさを覚えていた梔子だったが、鍵谷もそうだったのであろう、クラスで見せるほどの多弁さはなかった。


 悪い人ではないと思うのだけれど…。


 こういう相手と何を話せばいいのかしら。


「そのパーカー…、可愛いね」


 我ながら気の利かない言葉だと思った。


「へ?」


 鍵谷は少し驚いたように目と口を丸くすると、困ったような、照れたような表情で笑った。


「ありがと、梔子さんも着てみる?」


「私は…その、似合わないと思うから」


 もちろん、それが本当の理由ではない。校則を破りたくないし、わざわざ破る意味も感じないからだ。


 梔子の返答を予想していたらしい鍵谷は、もう一度笑うと、「可愛いと思うけど。梔子さん、背が高いから」と言った。


 梔子は、背が高いことと、パーカーが可愛いことの繋がりが分からず、曖昧に微笑む。


 へらへらしていて、何を考えているかが読みにくい相手だ、と梔子は彼女の横顔を盗み見ながら思った。


 柔らかかったショートヘアがゆらゆらと揺れているのを目で追い続けていると、鍵谷が少しだけ顔を窓のほうに逸らして言う。


「梔子さんって、すごく真面目な印象があったけど、意外といたずら好きなんだね」


「え、どうして…?」


 いたずらなんてしたことがないと思っていた梔子は、再び顔の向きをこちらに戻しながら笑った鍵谷の表情に釘付けになった。


「髪、触ってたでしょ?」


 からかうような、でもやはり照れているような鍵谷の顔が、きらきらして見える。

 夕日も廊下までは届いていないはずなのに、不思議だ。


 今度はこちらが顔を逸らす番だった。逸らす、というか、梔子の場合は俯いていた。


「お、起きてたなら言ってよ」


「えぇ、これ、私が怒られるのぉ?」


 もっともな言い分だ。許可もなく触れたこちらが全面的に悪い。


「う…ごめん」素直に謝罪をする。


「ねぇ、何で私の髪触ったの?」


 小首を傾げて問いかけてくる鍵谷に、なんて返したら良いのか分からなくて、しばらく逡巡した後、正直に、「分からない」ということを伝えた。


 気付けば、昇降口まで辿り着いていた。


 梔子の返答を聞いた鍵谷は、どこか嬉しそうに相槌を打ちながら、靴箱から外履きを取り出した。


 自分の黒のローファーと違って、鍵谷は派手な装飾の付いたスニーカーだった。時折先生に注意されていたが、これなら確かにしょうがなく思える。


 二人で並んで靴を履き替えていると、ぼそりと鍵谷が呟いた。


「上手だね、梔子さん」


 脈絡のない言葉に、今度はこちらが首を傾げる。


「何の話?」


 二人ともしゃがみ込んで靴を履いていたところだったので、互いにその姿勢のまま、顔を突き合わせていた。


 立っていたときよりも、やけに距離が近く感じてしまうのは、何故だろう。


 鍵谷は高い声で唸り声を上げると、やや上目遣いになった状態で梔子の問いに答える。


「頭の撫で方、かな?」


「なぁに、それ?」


 妙なことを言うものだ、と呆れながら立ち上がる。


 先に靴を履き終えていた鍵谷は、スキップするように外へ出ると、眩しい夕日を再びその髪に浴びせ、吸収しながら微笑んだ。


「なんか…、ぞくぞくしちゃった」


 裏手の雑木林で、ヒグラシが鳴いている。


 夏の暮れの頃だった。


 私と、花音ちゃんが互いを意識し始めたのは。


 私は、花音ちゃんのその言葉に、肌が粟立っていた。


 外は夕暮れとはいえど、まだ蒸し暑さを残す時期だったというのに。


 思わず身震いしたくなる何かを、いたずらっぽい、あるいは、小悪魔のような笑みと言葉から感じていたのだった。


(2)

 

 期末テストが来週にまで迫ったある日の放課後の廊下は、うだるような蒸し暑さと、校舎裏の林から響いてくる蝉の合唱で満ちていた。


 部活もテスト休みの期間で、してはいけないことになっているので、梔子も、普段ならばさっさと家に帰って勉強するか、図書室にでもこもってシャーペンをカチカチするところであった。


 だが、彼女の足は放課後になっても自分の席から動かず、部活の仲間やクラスメイトに声をかけられても、曖昧な笑みを浮かべるだけである。


 三十分もすれば、教室からはほとんど誰もいなくなった。


 自分と、数人の生徒。それも数分すれば教室を後にし、残ったのは二人だけになる。


 それを見計らったようにして、梔子は立ち上がった。


 片手に筆記用具、もう片手に問題集。


 そうして近寄って来た梔子を上目遣いで見上げて、教室に残ったもう一人の人物――鍵谷は口元を歪めた。


「お、もういいの?」


「うん」と短く返事をして、彼女の前の席を無断で借りる。


 鍵谷は、携帯を弄っていた手を止めて、代わりにシャーペンと教科書を出した。梔子の言葉で、加えて問題集も引き出しから引きずり出す。


「それじゃあ、今日もよろしくお願いします」


 冗談みたいに恭しく頭を下げた彼女の肩を軽く叩きながら、「そんなに畏まらないでよ」と返すと、鍵谷のほうも愉快そうに笑った。


 梔子は、あまり成績が芳しくない鍵谷の勉強を見るようになっていた。


 この関係は、あの夏の夕暮れから一週間ほど続いている。


 表面的なきっかけは、鍵谷が、赤点が多いことを担任の先生にみんなの前で咎められたことだった。


 特段、彼女はそれを気にする素振りを見せなかったが、担任が冗談めかして、成績優秀者の梔子にでも教えてもらえ、と言ったことで、その後何となく、どちらからともなく勉強を教える話を持ち出し、今に至る。


 時間は決まって放課後、みんなが帰った後だった。


 別に、誰かに見られたくないというわけではなかった。


 実際、同じように勉強するために残るクラスメイトがいても、鍵谷の元を訪れた。


 ただ、邪魔はされなくない、という奇妙な思いはあった。


 何をもってして、邪魔、というのかは自分にも分からない。


 今日も、そうして彼女に勉強を教えていた。苦手な科目は何なのかと尋ねたとき、「全部」と鍵谷が答えたのが、ジョークではなかったことを、ひしひしと痛感する今日この頃だった。


 勉強を開始して十五分。鍵谷が、ペンをぽんとプリントの上に投げて、大きく後ろに仰け反った。


「あー!無理、分かんないよぅ。何だよ、このときの心情を書き出せって。知るかよ、誰だよ、お前、私かよ。いや、私じゃねえから、分かんないよぉ」


「何、またそういうところ?」


「分かんないもん」


 科目は現代文だった。


 鍵谷は、相手の心情を綴る、推し量る、という問題がとりわけ苦手だった。


 コミュニケーション力の高い彼女が、こうした部分に苦手意識を抱えているというのは、正直以外ではあるものの、何だか可愛らしくもあった。


 一通り、問題のポイント、どこの文から登場人物の心情を推し量れるのかを教える。

 努力したがらないだけで、地頭の良い彼女はすぐに解答法自体は身につけられたようだが、妙なところが引っかかって、納得いっていない様子だ。


「えぇ、でもさ、これって筆者以外、正解かどうかって分からなくない?」


「そんなことを言われても…」


「納得できなぁい」


「ほら、納得出来なくても、するの」


「納得できないことは、したくなぁい」


「でも、世の中、多分そんなことばっかりだよ?」


「うわぁ…、こんな子ども嫌だ」


 鍵谷は、ふぅ、と不服そうな鼻息を漏らすと、机に半分ほど突っ伏した状態で問題集の空白に解答を書き込み始めた。数十秒ほどもすれば、解答欄は全部埋まった形になった。


 くるりとシャーペンを回し、放り投げるようにして筆記用具を置く。


「あー、とりあえず現代文の範囲は終わり」


 疲れた、というか不貞腐れたような雰囲気の彼女の頭をゆっくりと撫でる。


「はいはい、お疲れ様」


 鍵谷は上目遣いに梔子を見上げると、目を細め、猫のように頭を掌に寄せた。その甘えた仕草についつい口元が綻んでしまう。


 そうしてしばらく、梔子に撫でられるがままになっていた鍵谷は、ようやく満足したのか、目をしっかりと開いてから、微睡んでいるような口調でぼそりと言った。


「相変わらず、撫でるのが上手だね。梔子さん」


「こういうのに、上手とか、下手とかあるの?」


「あるよぉ」と答えた彼女は、片手を伸ばして小さく声を上げた。


 頭をよこせ、ということらしい。撫でるつもりなのだろう。


 梔子はさすがに恥ずかしくなって、顔と手を横に振った。


「え、わ、私はいいよ」


「何、照れてんの?いいから、ほら、上手い下手があるってこと、教えてあげる」


 それって、鍵谷自身は下手だということなのだろうか…。だとしたら、ますます何のためにそんな恥ずかしい思いをしなければならないのか。


 結局、鍵谷の圧力に負けた梔子は、頭を差し出すように姿勢を斜めに傾けた。


 身長差が10センチ近くある二人なので、鍵谷が彼女のつむじを見るのは、初めての経験となる。


 そろり、と彼女の指先が自分の頭をなぞる感触に、梔子は背筋がじんと痺れ、粟立つのを感じた。


 不思議な感覚だ、ぞくぞくする、というのは嘘ではなかったのか。


 最初は丁寧に、段々とぶっきらぼうに…。


 まるでペットの頭を撫でているかのような手付きだったが、不思議と嫌ではなかった。


 顔を上げたときに見える、どことなくご満悦といった鍵谷の優しい表情に、梔子も心温まる気持ちになった。


 友達って、こういうものだっただろうか。


 何となく気を遣ってしまうのに、それでも一緒にいたい。


 役に立ちたいのだけれど、情けのない姿は見せたくない。


 一緒にいるところを見られたって構わないけれど、出来ることなら、二人の時間が流れてほしい。


 そんな、相反する思いが、自分と鍵谷の間で風を切りながら飛び交う。


 梔子は初めて、テスト期間がいつまでも続けばいいのにと考えていた。

 

 いよいよ、テスト最終日となった。


 鍵谷に勉強を教えることで、自分の復習にもなっていた梔子は、解答用紙が配られたときも、その問題の難易度に微塵も動揺することはなかった。


 それよりも、テストが終わる――つまり、鍵谷に勉強を教える口実が無くなることのほうが、彼女にとっては大問題であった。


 深いため息とともに走るシャープペンシルの先端は、持ち主の憂鬱と反比例するかのように快調に、解答を綴っている。


 幸か不幸か、最後のテストも恙無く終わった。生徒たちは、その絶大な解放感から自然と声を大きくして、その束の間の自由を楽しむべく、午後の予定を立てて回っていた。


 残念なことに、鍵谷もそのうちの一人だった。


 何が残念なのかは、自分でも分からない。


 普段ならば、自分も多少なりともその輪に混じって、学生らしく時間を使うのだが、今日は両肩にのしかかった気怠さのほうが強かった。


 クラスメイトの、あるいは部活動仲間からの、ランチの誘いを断る。


 ランチなんて格好つけても、近所のファミレスで定食でも頼むか、喫茶店でたいして味も分からない珈琲に、舌鼓を打つぐらいのものだ。


 大人の真似がしたかった。


 今の私たちは、そういう時期なのだと知っていた。


 余命わずかのモラトリアム。


 いつか、嫌でも大人にならなければならないのに。


 大人になれば、あの頃は良かった、なんて、つまらない過去を振り返るくせに。


 酷く、アンバランスで…滑稽だった。


 だが、何よりも笑えるのは、たかが放課後の小一時間を奪われただけで、こんなにもセンチメンタルになる自分自身だった。


 さっさと帰る準備を済ませて、靴箱に向かう。みんなには用事があると嘘を吐いたが、そんなものはない。


 このまま真っ直ぐ家に帰って、本を読むか、アニメでも見るか…。


 しかし、梔子が頭に描いていた面白味もない予定は、すぐに白紙に戻ることとなる。


 昇降口に辿り着き、外履きに履き替えていると、背中から誰かに声をかけられた。


 大儀そうに首だけで振り向くと、そこにはバックを片手に走ってきた様子の鍵谷が立っていた。


 思わず目を見開き、硬直した梔子に彼女は言う。


「おつおつ。ね、このまま帰るの?」


「そう、だけど」


「へぇ、何か用事があるとか言ってたっけ」


 もしかして、と反射的に考えて、梔子は慌てて首を横に振った。


「ない、ないよ。予定なんて」


 すると、彼女は訝しがるように首を傾げた。


「あれ、でも確か、いつもの友だちにはそう言ってなかった?」


 ああ、しまった。聞かれていたのか。


 これで迂闊なことは言えなくなった、と梔子が唐突に黙り込んだのを、鍵谷は黙って見つめていた。


 その瞳が思案げに何度か揺れた後、彼女はパーカーのフードを被ってから外履きに履き変え始めた。


 こんな時期に、フードなんて暑くはないのかと不思議に思う。


「自惚れだったらスルーしてほしいんだけど」と前置きをして、鍵谷はくるりとこちらを振り返った。


 一瞬だけ半円状に広がったスカートの裾が、とても涼やかな印象を受ける。


「もしかして、私からのデートのお誘いなら乗ってくれる感じ?」


 照れを精一杯隠した表情に、胸がきゅっと縮こまる。


「そういう、感じ、です」


「何で敬語?」ふふ、と彼女は笑った。「鍵谷さんが、デートなんて言うから…」


 心が、ふわふわする。


 梔子の言葉に、鍵谷は心外そうにおどけてみせると、とりあえず学校から出ようか、と提案した。


 彼女いわく、このままでは逢引しているのが見られてしまうから、ということであったが、その気障な言い回しも、鍵谷にかかれば親しみ深く、気の利いた冗談に思えてくるから不思議だ。


「どこ行くの、鍵谷さん」


「んー、私は今、冷たいもの食べたいんだけど、商店街のかき氷でもどう?」


「それいいね、私も食べたかったんだ」


 そんなもの嘘だ。氷に味が付いたものなんて、正直、どうでもいい。


 鍵谷と一緒なら、別にどこへ行ったって新鮮に違いないという確信があった。


「じゃあ、行こうか」とフードを被り直した彼女は、ちょっと歩いたかと思うと、背を向けたまま言った。


「あのさ、花音で良いよ」ほんの少しだけ、鍵谷が振り返る。「仲良い人は、そっちで呼ぶから」


 その横顔がほんのり赤らんでいることに気付いて、いっそう梔子の心は踊った。予想外で、嬉しい提案だった。


 梔子は、何度か口を開けたり、閉じたりしてから、意を決した様子で、少し大きめの声でその名を呼んだ。


「じゃ、じゃあ…、花音ちゃん」


 かのん、素敵な響きだ。


 花音のいたずらっぽさを隠し、可愛らしさだけ抽出したような名前。


 鍵谷は、目を丸くして梔子を見返すと、困ったような、照れたような仕草で頬をかきながら呟く。


「花音『ちゃん』かぁー…。もぞもぞするなぁ、『ちゃん』、なんて」


「私は、花音ちゃん、良いと思うけど…」


「何じゃ、そりゃ」


 そう言って笑った彼女に、梔子は、先程から言いたかったことを思い切って提案した。


「わ、私も、名前で呼んでほしい、かも」


 尻すぼみになりながらも、言葉を口にした後、しまった、と梔子は思った。


 鍵谷が、自分の下の名前を知っているわけがない。かといって、ここで自分の名前を出すのは、どことなく催促しているようで憚られた。


 しかし、梔子の予想を裏切り、鍵谷はニヒルな笑みを浮かべると、迷いなく、静かに梔子の名を唱えた。


「絢香」


 どきり、と心臓がまた収縮する。


 さっきよりも、強く、自分の体の奥へと逃げ込もうとしているように。


「私は、『ちゃん』、なんて付けないけど、それでいい?絢香」


「も、もちろん構わないよ、花音ちゃん」


 商店街までの道のりはあっという間だった。


 おそらく、聞き慣れない響きで鼓膜を揺さぶる自分の名前や、口にするだけで顔が火照りそうな、顔がにやけてしまうような彼女の名前が、自分と鍵谷の間で飛び交ったことが原因だと思われる。


 裏手の雑木林から遠ざかったとしても、どこまでも蝉の声は二人の後をついてきていた。


 夏という目に見えない何かが、古びた商店街の軒先にぶら下げてある風鈴を鳴らした頃には、『氷』という文字が見えてくる。


 普段は、目を背けたくなるほど陰鬱なシャッター商店街も、今日はどこかレトロな感じがして好感が持てた。妙なこともあるものだと、アーチ状になった天井を見上げる。


 お店に入った二人は、注文をして、お金を払った後、店先の小さなベンチに身を寄せて腰を下ろした。


 二人で座ると、ぎゅうぎゅうになるその狭さが、酷く心地良い。


 剥き出しになった肘から伝わる熱と、いちごとメロンのシロップの香り。


 フードの影から覗く、サラサラの髪。


 丈を短くしたスカートの裾から覗く、白い太腿。


 それらを見ながら、梔子は、今までしていたテストの出題範囲に関する雑談を、唐突に打ち切り、呟いた。


「もうすぐ、夏休みだね」


 元々、長期休暇が手放しで嬉しい年頃ではなかったが、今年はいっそう面白くなかった。


「テストを頑張った、ご褒美だね」


「うん…」


 梔子の沈黙をどう受け取ったのか、鍵谷は心外そうに眉をひそめて言う。


「何?頑張ったんだって、本当。そりゃあ、絢香ほどではないけどさ」


 既に、自然な口調で自分の名前を呼べるようになっている彼女に、梔子は表情には出さないものの感心していた。


 鍵谷は、そんな梔子のセンチメンタルなど、露も知らず、適当な相槌を打ちながらメロンシロップのかかったかき氷を、プラスチックスプーンで忙しなく口元に運んでいた。


 それを見ていると、寂しいのは自分だけだと言われているようで、何だか満たされない気持ちになる。


 梔子の視線に気付いた鍵谷は、恨みがましく見つめられていたことを変に解釈したらしく、スプーンの上に乗った一すくいのかき氷と、相手とを交互に見比べた後、呆れたように肩を竦めて笑った。


「もう、しょうがないなぁ」


 彼女の白い腕、その先に伸びるしなやかで淡雪のような指先、さらにその末端へと、視線が落ちる。


「はい、どうぞ。絢香って、意外に食い意地張ってる?」


「別にそんなつもりじゃ…」


「はいはい」と適当な返事をした彼女は、何も分かってそうにない。


 どうやら、かき氷が食べたいのだと勘違いされたらしい。


 先ほども言ったが、色の付いた氷の粉末に興味などない。


 自分が興味があったのは、かき氷ではなく、平気な顔をしている鍵谷の心の中であって…。


 そこまで考えて、梔子は相手にばれない程度の大きさでため息を吐いた。


 このままでは、彼女の気遣いが、差し出された一すくいのかき氷と一緒に溶けてしまいそうだったので、言われた通りにかき氷を頂くことにした。


「まぁ、ありがとう」


 どういたしまして、の言葉を耳にしながら、梔子は唇をスプーンに寄せたのだが、今さらながらあることに気付いて、ぴたりと動きを止めた。


 ――…これは、間接キスというやつなのでは…。


 品行方正に育ってきた自分には、まるでなかった習慣の前に、梔子は頭が真っ白になっていくのが分かった。


 それを知ってか知らずか、鍵谷はスプーンを梔子の口元に近付け、食べるように催促してくる。


 しばし、逡巡する。


 周りの人たちが、平気で回し飲みや、こういう一口だけ…、ということをやっているのは知っていたし、それに対して、品がない、などと考えることもなかった。


 しかし、実際に自分がその立場になってみると、思ったよりも勇気がいることなのだと知った。


 この気恥ずかしさを乗り越えるために、みんなはどれほどの経験と訓練を積んできたのだろうか…。


 結果として梔子は、気付かなかったフリをして、自分のスプーンを鍵谷のかき氷にダイブさせることを選んだ。当然、この状況で差し出された一口に気付かないなど、不自然であると分かったうえでの行動だ。


 もう半分ほどが、鍵谷のお腹の中か、溶けて、カップの底で液体になってしまった氷山を、ずぼり、とスプーンで削る。


 それを口に運びながら、何食わぬ顔で、「美味しいね」と感想を言ってみせた梔子だったが、鍵谷のほうは出したスプーンを引っ込めないままで、じっと物言いたげな視線を梔子に向けていた。


 ちらりと彼女の顔色を窺った際に、その視線とぶつかり、慌てて目を背ける。


「ふぅん」いよいよ不服そうだ。「え、何」


「別に、何もないけど?」


 明らかに何もないことはなかった。だが、とてもではないが、鍵谷の要望に応えることは出来そうにないというのが本音だ。


 しかし、これでノリが悪い、などと思われて、嫌われたらどうしよう、誘ってもらえなくなったらどうしよう、という不安が自分の頭の中で渦巻いていて、何か言わなくてはと思い至る。


 未だにじっとりとした眼差しを向けて来る鍵谷を、一瞬だけ横目で見てから、小声で呟く。


「ご、ごめん」


「いいよ、気にしないで」


 本人が気にしている様子なのに、それは無理な話だ。


「嫌だった?」と鍵谷が少しだけ寂しそうに尋ねる。


「い、嫌、とかじゃなくて…」


 先程から横目でしか相手を見られていない梔子とは対照的に、鍵谷は眩しいほど真っすぐに相手を見ている。


 何か、言葉を求められているような気分になって、取り繕った口調で声を発する。


「恥ずかしい、から」


 自分の顔が赤くなっていることが、鏡を通さなくても分かる。


 夏の熱気に負けない胸の高鳴りが、顔を俯かせる。


 こっそりと上目遣いで覗いた鍵谷は、思案げに何度か頷くと、「そっか」と明るく答えて、もう一度気にしないでほしい、ということを梔子に伝えた。


 親しみから出ただろう鍵谷の行動に、答えられなかったことで少し気落ちした梔子は、やっぱり、今からでも、と思ったが、既にスプーンは回収されてしまっていた。


 恥ずかしい、なんて言って、鍵谷は不快じゃなかっただろうか。


 そんなことを考えていると、あっけらかんとした口調で鍵谷が言った。


「ねえ、絢香のも頂戴」


「あ、うん」


 良かった、気にしていないみたいだ。


 そう思い、彼女の前にカップを差し出す。


 すると、鍵谷は彼女にしては珍しく、穏やかな顔つきで微笑むと、ゆっくりと首を振った。


 どうしたんだろう、と穏やかな顔つきを崩さない鍵谷を見つめていると、彼女ははっきりとした丁寧な発音で唱えた。


「ねぇ、絢香。『あーん』は?」


「え…」


 思わず絶句するも、鍵谷は表情を変えない。


「いや、その、さっきも言ったと思うけど…」


「なぁに?」


「う…」


 有無を言わさぬ彼女の態度に、反論の言葉は萎びてしまう。


 駄目だ、やっぱり、さっきのを気にしてる。何なら、少し根に持ってる。


 緊張で震えそうになる指先で、いちごシロップのたっぷりかかった部分をすくい上げる。


 きっと、彼女の言うとおりにするまで、いつまでも鍵谷は私を待つつもりなのだろう。ならば、早々に諦めて、羞恥を打ち倒すほうが得策のようだ。


 目を閉じ、口を小さく開けたまま待つ鍵谷に、スプーンを近づけ、くわえさせる。


「んぅ」


 小さく声を漏らした彼女は、味わうように数回咀嚼すると、満面の笑みを浮かべた。


「はい、良く出来ました」


 そう言うと、鍵谷は自然な流れで梔子の頭に手を伸ばし、その黒髪を何度かなぞった。


 髪の間をかき分ける、その指先が耳をこすったり、首筋に触れたりする度、ぞわりとする感覚に短い息が零れそうになった。


「夏休みも、また会おうね。絢香」


 こういうときの、自分を甘やかすような花音ちゃんの声を聞くと、私は胸を締め付けられるような気持ちになった。


 彼女と一緒にはにかんでみたい気持ちや、子どもじゃないんだよと言って、相手にしなだれかかりたい気持ち。


 家に帰れば、しょうがないなぁ、と呟きながら、私の頭を撫でるその掌の感触と、表情を夢想した。


 ジリジリと照りつける、夏の日差しから逃げ出したくなるような、私の想い。


 今年の夏は、日が沈んだって、胸の中には沈まぬ太陽があった。



(3)


 

 喧騒でいっぱいになった空間は、とてもではないが、地元ではまず見ることのできない人口密度で形成されていた。


 その行き交う人ごみを、少し離れたところから見つめながら、梔子は自分の前髪を手櫛で整え、ショーウインドウに映った自分の姿を客観的に観察するよう努めた。


 普段よりも丁寧に整えてきた黒髪は、当然だが寝ぐせ一つなく、


 少し背伸びしたパステルカラーのロングスカートとブラウスは皺一つない。


 ようするに、気合を入れてきた、というわけである。


 冷房が過剰に効いた肌寒い店内で、飾り程度のヒールをカツカツ鳴らし、浮ついた心を落ち着かせようとする。


 だが、それが十分に機能を果たす前に、待ち人が来てしまった。


 少し遠めの距離から、軽く手を振りながら早足になって寄って来る彼女は、白い太腿を惜しげなく晒し、短いスカートの裾をゆらゆらと揺らしていた。


 桜色のオフショルダーから見える肩は、白く、澄んでいて、端のほうがほんのりと赤い。


 手首に付けたバングルが、照明の光を反射してきらきらとしていた。


「ごめん、絢香。お待たせー」


 折角、笑顔で声をかけてくれたのに、固まってしまう。


 どうしてそんなに肌を露出するのかが、理解に苦しむ。


 誰かに見てほしいにしても、もう少し品格を気にしてはどうか。


 ――…と、思っていた自分の目が、彼女の露出した肩や、太腿、屈めば見えそうな胸元に吸い寄せられてしまっていては、これはもう、日々の考えを改めざるを得ないようだ。


「…かわいい」


 鍵谷花音の眩しさに、同じ女として、ささやかな劣等感を抱かずにはいられなかった。それほどまでに、彼女の容姿は人目を引いた。


「え、何が?」


 そう聞き返されてから、自分が迂闊な発言をしてしまったのだと悟る。


 いや、別に友達の可愛さを褒め称えても、何も悪いことなどないのだ。


 ただ、そこに一抹のやましさというか、聞かれてはならない感情が含まれていたためか、梔子は焦りと驚きでいっぱいの顔を左右に振り、「何でもない」とうそぶいた。


 そうして、人混みをかき分けながら、梔子と鍵谷はショッピングを満喫した。


 訪れた店の多くが、鍵谷の要望によるものだったが、梔子は決して不満を口にすることも、考えることもなかった。


 一体何のために飾るかも分からない、実用性皆無のファンシーな雑貨。


 今日の鍵谷の服装と同じような、露出の激しい、いわゆるギャル向けのアパレル。


 甘いばかりで、何の味がしているのか想像もできない、どろどろのドリンクを扱った喫茶店。


 商品には何の興味も持てなかった梔子だが、それら一つ一つのために明るい反応を示す鍵谷からは、目が離せなかった。


 彼女の周囲だけ、室内であっても夏の日差しが照りつけているようだ。


 普段はフードで隠れている、彼女のサラサラのショートヘアと、柔らかな眉。


 自分が自然と頬を綻ばせていることに、梔子は気付けなかった。


 ショッピングを始めて小一時間。歩き疲れて、通路の真ん中に置いてあるベンチに二人で腰掛けていたときのことだ。


 次はどうするか、梔子のほうに行きたい場所はないのか、と鍵谷が粘り強く問いただしていると、不意に声をかけられた。


「おおー、花音じゃん。何してんの、こんなところで」


 歳の変わらない派手な服装の少女が二人、鍵谷のほうを、目を丸くして見据えていた。


 どこかで見た顔のような気がして、じっと二人を見つめていると、ぱっと目が合ってしまった。

 そのときに、ようやく彼女らがクラスメイトだということに気が付く。


 あからさまに、しまった、という顔で彼女らから視線を逸らした鍵谷は、返答に困り、呻き声を上げている。


 少女たちは、最初は自分がクラスメイトだと分かっていなかったようだが、会話が途絶えているうちに、首を傾げてこちらに話しかけてきた。


「あれ…?もしかして、梔子さん?」


 もしかしなくても、そうだよ、と何となく邪魔された心地になり、心の中だけで悪態を吐いていた梔子は苦笑いを浮かべた。


「はは、そうです。梔子です」


 十分上手に愛想笑いが出来たと思ったが、梔子の返答に、顔を見合わせた二人は、意味ありげな様子で笑い合った。


 チラチラと盗み見てくる眼差しが鬱陶しい。


 何だか小馬鹿にされているような気がした。


「へぇ、花音ってば、そういうこと?」


 鍵谷は何も答えない。答えたくない、というか答えられないというふうに見える。


「私たちの誘いを断ったかと思ったら…。ふぅん」


「ああもう、何。さっさと行って、ほら!」


 とうとう痺れを切らした鍵谷は、二人を追い払うように片手を振ったのだが、一向に彼女らが去る気配はない。


「最近、やけに真面目に勉強してたし、もしやって言ってたんだよねー?」


「そういう奴だよねぇ、花音って」


「うざいなぁ、もう…」


 自分を蚊帳の外にして進んでいる会話に、疎外感を覚えた梔子は、不服そうに唇を固くつぐんで俯いた。


 何だか、言外に馬鹿にされているのではと不安になる。


 派手なグループに属している鍵谷が、地味な自分と一緒にいることで、二人まとめてからかわれているのではないだろうか。


 …私が、お洒落じゃないから。


 酷く憂鬱な気持ちになっていた梔子の手をぎゅっと、誰かが掴んだ。


 顔を上げれば、頬に紅葉を散らした鍵谷がいた。


「ほら、行こう、絢香!」


「え、ちょ、ちょっと、花音ちゃん…!待って」


 私と手を繋いだりしたら、また馬鹿にされてしまう。


 くるりと首だけで振り返れば、二人のクラスメイトが肩を竦めながら、呆れ混じりで、「絢香だって」と呟いているところだった。


 続けて、「花音ちゃんですってよ」と唱えられた言葉に、梔子は全身が熱くなるのを感じた。


 怒りと羞恥、そして悔しさが未熟な心と身体を支配する。


 化粧室のある裏手のほうまで場所を移動したところで、梔子は強く鍵谷の手を振り払った。


 そういう拒絶的な態度を自分が出来てしまったことに、驚きを禁じえない。


 手を振りほどかれたことがよっぽどショックだったのか、鍵谷はしばらく呆然と立ち止まっていたのだが、少し経つと、決心したように、視線を逸らしていた梔子に近づいた。


「ごめん、嫌だったね」


 アイスのときと違って、心の底から出た謝罪の言葉だった。


 違う、そうじゃない。


 梔子は臍を噛む思いをしながら、つまらない様子の床を見つめて返す。


「こっちこそ、ごめん。私が、一緒だったから、馬鹿にされたんでしょ」


「え?いや、そうじゃなくて…」


「不釣り合いだよね、私、お洒落なんか気にしてないし。花音ちゃんに、恥かかせちゃった」


 こんなことを口にしても、鍵谷が困るということは分かりきっているのに、どうしても口が止まらなかった。


 私は、ただ一言、『あいつらなんて関係ない』と言ってほしかった。その一言さえ貰えれば、それで良かった。


 甘えている、と自覚している自分がいる一方、甘えて何が悪いと開き直っている可愛くない自分がいる。


 いじけたような態度を続ける梔子を、暗い表情で見つめていた鍵谷だったが、相手が言葉を詰まらせたのを好機と捉えたのか、一歩前に出て声を発した。


「本当に違うんだよ。あいつら、知ってたから、それで…」


「知ってた?何を?」


 詰問するような口調になってしまう。


 歯切れの悪い鍵谷の口調が、言い訳を考えているように思えたのだ。


 実際、鍵谷は梔子から受けた問いに即答出来ず、もごもごと口の中で何事かを呟いていた。


 その煮え切らない様子が、ますます梔子の中の不安と、当たり散らしたい不満とを増幅させてしまった。


「言い訳なんかして、情けない…」


 挑発と受け取られかねない呟きに、鍵谷が明らかにムッとした顔つきに変わる。


「じゃあ、言うよ?いいんだね、言っても!」


「知らないけど、言えばいいんじゃない?」


「分かった。言うよ、言うからね」


 乾坤一擲の勝負に出るかのような顔つきになった鍵谷は、大きく息を吸ってから、呼吸を止めるように黙った。しかし、その後も、何度か口を小さく開いて、閉じて、また開いて…、と繰り返すばかりだ。


 どう見ても、その一声を放つ勇気が湧かない様子の鍵谷に、とうとう我慢できなくなって、梔子はきっぱりと言い切った。


「格好悪いよ、花音ちゃん」


 建物の端に位置する化粧室前の通路とはいえ、人通りが全くないわけではない。


 案の定、時折近くを通り過ぎる人々は、二人の剣呑な様子を何事かと横目で観察しながら遠ざかっていく。


 普段は穏やかで、しおらしい姿のほうが目立つ梔子から、批判の言葉を受けた鍵谷は、いよいよ顔を真赤にしてみせた。


 それでも何も言えない彼女を背に、梔子は大股でその場を去った。

 そして、段々、鍵谷との距離が離れていくのを肌で感じながら、どうして追いかけて来ないの、と苛々するような、むず痒い気持ちを抱えているのだった。



(4)


 

 夏休みとはいえど、部活はある。


 部活動自体もだが、メンバーについても好感の持てる人間ばかりだったため、梔子は、この部活を結構気に入っていた。


 昼前の時間から部室に集合して、ルーティンの発声練習をし、次の大会の課題図書に目を通す。


 既に自分で抜粋している部分なので、何度も見返した部分ではあるのだが、読み込み方で読み方だって変わってくる。


 部内の仲間に、一通り呼んで聞かせみて反応を窺う。前のほうが良いとのことだったので、自分でも一考してから、やはり昔の読み方に戻す。


 余った時間に、もう一度課題図書の全体を読み返していたのだが、イマイチ主人公の心理描写がすとんと落ちてこない。


 ああでもない、こうでもないと考えているうちに、いつの間にか思考は課題図書の主人公ではなく、自分自身に向けられていた。


 どうしてあんなことを言ってしまったのか…。


 鍵谷に悪いところなんてまるでなかった。それなのに、彼女が自分を他の友達よりも大事に、特別扱いしてくれなかったことで、見苦しく立腹してしまった。


 夏休み前に勇気を出して聞いた連絡先だって、感情のままに消してしまって、連絡の取りようがなくなっていた。


 いや、その気になれば他のクラスメイトから聞けないこともないのだろうが、そっちの勇気はない。


 そうこうしている間に、部室の隣室にあたる視聴覚室からチャイムが響いてくる。下校時刻ではないものの、部活終了の時刻だ。


 明日の予定を確認しながら、全員揃って帰宅の準備をする。そもそもがインドア派の集まりなので、帰りにどこか寄る、ということは少ない。


 副部長である自分が、鍵の管理は行っている。そのため、みんなが部屋から出る準備が整うまで様子を見ていたのだが、先に出ていった後輩部員が困惑した表情で戻ってきた。


 あの、と自分を探し出した後輩は、視聴覚室の出入り口をちらちら振り返りながら、客が来ている、と伝えてくれた。


 部活の顧問でも来ているのだろうか。

 だが、そんな予定はなかったはず…。


 小首を傾げながら出入り口のほうへと向かうと、二階へと登る階段の三段目に腰掛ける彼女の姿があった。


「か…」


 花音ちゃん、と声をかけそうになって、慌てて口をつぐむ。気のせいならいいが、顔もにやけかけているような気がするので、意識して表情筋を引き締める。


 スカートを短くしているせいで、少し股を開いて階段に座っているだけで、太腿の辺りまで肌が露出している。


 それを何となく見つめていたのがばれたのか、鍵谷は軽く裾を引っ張って、際どいラインを守った。


「どうしたの」


 部活なんてしていないはずなのに、どうして今日、ここに。


「絢香に用事」


 ぶっきらぼうに告げた彼女は、バックの中からプリントの束を取り出した。おそらく、夏休みの宿題だ。


「一人じゃ、解けないから」


 そんなの、嘘に決まっている。


 ちゃんと考えれば、地頭の良い彼女は宿題程度の難易度なら解けてしまえるはずだ。一週間、彼女に勉強を教えていた自分が言うのだから、間違いない。


 鍵谷が宿題を理由に出したのは、それこそ、ただの口実に過ぎないと、いくら鈍感な自分でも分かっていた。


 だから、嬉しくて、つい頬が緩みそうになったのだ。


 あえて少しだけ悩むフリをして、梔子は相手と目を合わせずに軽く頷いた。


「分かった、みんなに先に帰るよう言ってくるから。ちょっと、待ってて」


「りょーかい」


 視聴覚室に戻って、部活のメンバーにこれから少しこの部屋で友達と勉強してから帰ることを伝える。


 すると、誰も彼もがやや不安げな顔つきになり、大丈夫か、と尋ねてきた。


 見た目も、つるむ仲間も派手な鍵谷だったから、変な誤解をされているのだろう。

 前回のテストのときも、こうして教えてあげたという話をすると、みんなも多少安心した様子で、部屋を出ていった。


 途中、軽口の多い後輩が、「ギャルと地味系って、王道ですよね」とにやけ面でからかってきたため、思い切り背中を叩いて送り出す。


 地味で悪かったな。


 自分で地味だと分かっていても、それを他人に言われるのはまた違うというものだ。


 みんなが出ていった後、珍しく緊張した雰囲気で鍵谷が入室してきた。その借りてきた猫のような彼女を、近くの席に導き、隣り合うように座る。


 早速本題に入るべきだろうか、しかし、すぐには出来そうにもない。


 結局、自分も彼女も、言いたいことをはっきり言えないのか、無言のまま宿題の束を机に並べる有様だった。


 視聴覚室の椅子は、椅子同士の間隔がゼロに等しく、人の重みで座面が開閉するタイプのものであったせいで、二人は十席ほどある一列の中の、中心に隣り合って座っていた。


 前後の列で高低差があったことも、仲違いしている二人を親友か、恋人のように密着させた原因の一つだろう。


 幸いクーラーもしっかりと効いているこの部屋では、互いの熱量は気にならなかった。

 もしも、クーラーが点いていなかったら、二人は互いの熱に驚いて、すぐに離れたかもしれない。


 一言も話さないまま、紙をめくる音だけが流れていたわけだが、十分もすると、ようやく鍵谷のほうから口火を切った。


「絢香」


 普段どおりを心がけているのがはっきりと分かるその口調に、逆に緊張する。


「何?」


 こちらも、平常心を保ったフリをしたまま応じた。


「分からないところがあるんだけど、聞いていい?」


「…もちろん」


 本題に移るのではなかったようだ。もしや、彼女は本当に宿題を進めに来ただけなのだろうか…。


 どこ、と尋ねながら覗き込むと、鍵谷が、ここ、と頬杖をついたままプリントの端のほうを指差した。


 そこはプリントの余白にあたる部分で、問題なんて印字してあるはずがない部分だ。


 白とも灰色ともいえない用紙の上に、鍵谷の印象らしくない細く、丁寧な文字で言葉が綴られていた。


『大好きな友達と喧嘩したままの、「私」の心情を答えよ』


「…ふ」


 その一文を見て、内容を理解したとき、思わず笑ってしまった。


 さらさらと問題文の隣に答えを記入する。


『寂しい』


 解答を見た鍵谷が、何故か赤のボールペンで丸をつけた。


 これ、提出するときどうするのだろう。


 無言のまま頁をめくった鍵谷は、また紙面上の角を指し示すと、こんこんと何度か指先で叩いた。


『少しだけ、難しい問題を出します』


 何だ、改まって。


 こくりと頷き、続きを促す。


 鍵谷が、ゆっくりと頁をめくる。


 彼女は先程までとは違い、問題集を両手に持って掲げてみせると、それで顔を隠すようにしながら、ぐっと問題集を梔子の顔に近づけた。


 初めのうちは、距離が近すぎて、どこに問題が書いてあるのか分からなかったが、少し探せば、紙の余白ではなく、問題文と解答欄の間に小さい書き込みがあるのを発見できた。


 梔子は、わずかに震えて綴られたことで崩れた、丁寧な文字を見て目を丸くした。


『先程の私の「好き」の意味は、どういう類のものでしょうか』


 私は、自分で言うのも何だが、馬鹿でもないし、察しが悪いわけでもない。


 文字から滲み出た、彼女の真剣さと覚悟が、はっきりと伝わってくる。


 一先ず、落ち着かなければ。


 空から落下するみたいに、一気に加速していく心臓の音に耳を澄ましているうちに、段々と冷静さを取り戻す。


 彼女の、『好き』が何なのか。


 問題集を持った白い両手が、小刻みに震えている。


 私はそれを見て、今すぐ安心させてあげたいと思った。


 …ああ、こんなの、簡単な問題じゃないか。


 冷房が効いていても、炎天下の最中にいるみたいに熱くなる体と心が、全てを物語っている。


 鍵谷が机の上に置いている赤のボールペンを手に取り、さらさらと自分の問題集に書き込んでいく。


 そこに書き込むのは、解答なんかじゃない。


 花音ちゃんばかり問題を出すのは、少し不公平じゃないか。


 問題を書き終えた梔子は、未だに顔を隠している鍵谷の肩を叩いた。


 花音ちゃんは、どんな顔をするだろう。


 これからのことを考えて胸を踊らせる梔子の問題集には、書きたてのため、赤いインクでてらてらと光を放つ一文が綴られていた。


『このキスの意味は、何でしょうか』


 解答は、彼女と、自分だけが知っていればいい。


 そうでしょ、花音ちゃん。



 ――…しまった、これ、先生に提出するとき、どうしよう。


読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!


ご意見・ご感想、ブックマーク、評価が私の力になりますので、


応援よろしくお願いします!


連休も終わりが近いですね…。気落ちせず、楽しく行きましょう!

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