ホーンテッド・ラブ
ワタシの名前はハクです。
ワタシには、好きな人がいます。
あれは、一週間ぐらい前だったでしょうか。
街中を移動していた時、同じく街中を歩いていたその人――Hさんに、たまたま偶然出会ってしまったのです。
その日から、なんだか身体の内側が熱くなるような体験がしばしばありました。
特に熱くなっている、いつもは静かな左胸に手を置いてみても、その原因は一向に分かる気がしません。
最初はとてもモヤモヤしていて、気持ち悪いものでした。
ですが、いくら日付が変わろうと、夢のように熱が冷めることはありませんでした。
それから何度か、ワタシは街中でHさんのことを見かけました。
もはや不思議でしたが、毎度Hさんはいとも容易くワタシの視界を奪いました。
そして会えば会うほど、奪われる瞬間までの時間は短くなり、“熱”の温度は上昇しました。
まるで、心臓が飛び跳ねているようでした。
最初に出会った日もそうでしたが、Hさんはいつも一緒の友達と二人で出かけていました。
どうしても気になってしまったので、ある日ワタシはHさんのことを後ろからこっそりとつけてみることにしました。
良心の呵責があったのですが、Hさんへの興味には到底敵いません。
気付けばワタシは、Hさんのことを夢中になって追いかけていました。
そうしていたらいつの間にか、Hさんの家の前までつけてきてしまいました。
さすがにこの一線の先は聖域……そんなことは当たり前でした。
――が、離してくれないのです。この、胸の内を螺旋状に掻き混ぜてくる得体の知れない“熱”が、ワタシをここから離してくれないのです。
結局その夜、ワタシはエデンの園へと旅立ちました。
ある日、Hさんはいつも一緒にいる友達と二人で、街中のとある喫茶店に入っていきました。ワタシもその後から入りました。
「ねぇねぇ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけどさー」
Hさんは突然、対面に座るHさんの友達に向かってそう切り出しました。
「どうしたの? 珍しいね、そんな真剣な顔して改まっちゃって」
アイスコーヒーを啜るHさんの友達は、軽やかな返事を返しました。
対してHさんは、テーブルに運ばれてきた湯気の立つティーカップの取っ手をなぞりました。
「んー……深刻さの度合いで言えば顔の通りっていうか、でもそんなに大したことではないっていうか……」
「プッ。なにそれ、どっちなんだよ」
「いや、割とマジな話なんだよ。だからレイにはちゃんと聞いてほしくて……。これは相談、ってことになるのかな?」
「いいから早く話しなよ。ちんたらしてたら、せっかくのホットコーヒーも冷めちゃうよ」
Hさんの友達――レイさんにそう指摘され、Hさんは思い出したかのように、フレッシュ入りのホットコーヒーに口を付けました。
コーヒーの苦みが安心感をもたらしたのか、Hさんは若干周囲を気にするような素振りを見せると、一度呼吸を整え、レイさんの方に少しだけ顔を寄せました。
そして、言いました。
「……レイはこのこと、笑わないで聞いてくれる?」
「だから聞くってば。何?」
「……。実はさ……最近おかしいんだよね」
「おかしい、とだけ言われても……。何がおかしいの?」
「うん……。ここ数日なんだけどさ、――誰かに見られてる、みたいな……」
「見られてる? それって外で?」
「ううん、家でもずっと。四六時中背後から誰かの視線を感じるんだよ」
一通りHさんからの話を聞き終えたレイさんは「はぁ……」と嘆息し、アイスコーヒーをストロー越しに啜りました。
そして、こう言いました。
「……はいはい。自意識過剰オツー」
「ホントなんだって! もう、絶対にそういう反応するって分かってたから、レイにも話したくなかったのに……」
半ば興醒めしたような態度を取るレイさんに、Hさんは思わず大きな声を出していました。
が、直ぐに我に返り、肩を縮こまらせたHさんもティーカップに二度目の口づけをしました。
「じゃあ、今日なんで話したんだよ。言葉を汲み取る限り、まだこのことは誰にも話してないんでしょ?」
至極まともな正論が飛び出てきたことで、Hさんは視線を下に落としました。コクリ、と頷いて。
「いや……さすがに怖くなってきたっていうか。最初は自分も『気のせいかなー』ぐらいに捉えてたんだけど、次第に看過できなくなってきちゃったんだよね」
「でも視線って、家族のものじゃないんでしょ?」
「そりゃあ、家族だったら分かるよ。そもそも家族が四六時中監視ってまず有り得ないし、あったとしたらどんだけ過保護なのさ」
「ま、確かにそうだね」
「それにその視線はさ……まるで雰囲気が違うんだよね」
Hさんはティーカップから未だ薄っすらと立ち上る湯気を見、眦を細めました。
「おいおい、でも家族じゃないって言うんなら一体何なんだ? あと残されてる可能性の余地としては、家に潜伏してる空き巣泥棒かネズミぐらいのものしか……」
「そんなわけないじゃん。物騒なこと言わないでよ」
「じゃあ、何だって言うんだよ」
Hさんは腕を組み、黙考しました。
「うーん……そうだね。それは、何て言うかこう……そう! ゆうれ――」
カラン、と涼やかな音色が一つ、鳴りました。
「あー、タンマ。予想はしてたけど、その先を言うと話がさらに飛躍してメンドくさいことになりそう」
「メンドくさいって……ああ、もう。やっぱりレイには話すんじゃなかった」
「あはは、ごめんって。だからそんなに膨れっ面しないでよ」
「……ちゃんと聞くって言ったじゃん」
「悪かったって。もう笑ったりからかったりしないから」
「…………。ホント?」
「ホント。コーヒーのおかわりを賭けよう」
レイさんの提示した条件もあってか、どうやらHさんはもう一度レイさんを信じる勇気が出たようです。
レイさんは話の路線を元に戻しました。
「でさ、その誰かさんの視線とやらを感じる場所とか時間帯とかはあったりするわけ?」
Hさんはティーカップから口を離しました。
「んー、時間帯は……特に関係ないかな。疎らって感じ。でも場所は……どっちかって言うと“外”よりも“家”の方が強く感じるかな」
「例えば、どんなところで?」
「えっと……窓とか洗面台……あ、あとその中でも一番は風呂場かな」
「はぁ……ここまで綺麗に三連続コンボ決められると、呆れを通り越してむしろ尊敬するわ」
「え……? どういうこと?」
Hさんが首を傾げると、レイさんはもったいぶるように言葉を口の中で転がし続けました。
やがて観念したのか、
「はぁ……。あんまりこういう類の言葉を大きな声ではっきりとは言いたくないんだけどさ……」
「う、うん」
「――多分、それ幽霊だよ。いや間違いなく」
はい、その幽霊がワタシです。ハクは幽霊なのです。
「ゆ、幽霊……? やっぱり!?」
「おい、声が大きいって!」
「あ、ご、ごめん……」
Hさんはまたも肩を縮こまらせました。
ほらやっぱりメンドくさいことになった、とレイさんは頭を掻いています。
「いやさ、幽霊って水回りに現れやすいとかって言うし」
「え、そうなの?」
「知らないよ。これはテレビのホラー番組で聞きかじっただけ。自分はオカルト系統とか全く興味無いから」
「そ、そうなんだ……」
レイさんはつまらなさそうに、アイスコーヒーを口に含みます。
「だから詳しいアドバイスとかはできないかもだけどさ、そんなに視線が気になるなら一回カメラとか回してみたら? 何か映るかもしれないよ、心霊動画として」
「い、嫌だよ。何か映ってたら嫌じゃん」
「でも、このままなのも嫌なんでしょ?」
「うっ、それはそうだけどさ……」
Hさんもホットコーヒーを口に含みます。
それから暫し二人の間に沈黙が募りましたが、やがてレイさんが笑い出しました。
「あー、また笑ってる。コーヒー一杯おかわりだかんね」
「いやいや、そうじゃないよ。これは別にそういう意味の笑いじゃないから」
「? じゃあ、レイはなんで今笑ってたの?」
解せない、と不満そうな表情を崩さないHさんに、レイさんは笑ったままこう言いました。
「まぁ、そんだけ気楽に考えろってこと。考え過ぎないようにね、って」
言葉の意味を理解するのに一瞬だけ要したのか、Hさんは固まりました。
そして、Hさんは――
「プッ。なにそれ、意味分かんないし。答えになってないよ」
レイさんと同じように、笑い出しました。
二人の笑い声が中々止むことはありませんでした。
その笑顔を背後から見て――。
ワタシの内側の温度が、また“熱”を帯び始めました。
それからしばらくして、Hさんはレイさんの助言通り、家のあちこち――特に洗面台付近――にカメラを設置するようになりました。
Hさんのご家族は、そんなHさんの奇怪な行動に違和感を感じたのか、カメラを止めるよう説得し続けました。が、全て徒労に終わり、Hさんがカメラを止めることはありませんでした。
Hさんは周期的にカメラを外しては、映像の確認を行っていました。
またその度に、決まってHさんは落胆し、頭上に疑問符を浮かべていました。
――おかしい。どうして何も映っていないんだ、と。
絶対におかしい、とよもや何かしらの心霊現象を撮るまで諦めないという執念を滾らせていました。
Hさんの動画撮影は、日に日にエスカレートしていきました。
しかし、それは当たり前のことでした。
なぜなら、幽霊は何かしらの強い負の感情――例えば特定の誰かを妬んだり恨んだり、あるいは傷付けたいという劣悪な感情を持ち合わせていないと原形を保てないからです。
つまり、ワタシは現在無色透明の“透明幽霊”ということになります。
ワタシたちは普段から大体そうなのですが、よく心霊体験に登場する方や心霊写真に写った方というのは、いわゆるそういう方たちです。
幽霊というのは、意外と普通に人間だったりするものなのです。
一方で、ワタシの内側に秘める“熱”も、日に日に温度を上げていきました。
“熱”の温度が上がれば上がるほど、あの日Hさんが飲んでいたホットコーヒーのような心境が冷たい身体に浸透していきました。
この“熱”のことを、後々になって“恋”というものだと知りました。
まさか人間に戻ったのでは、と錯覚することも度々ありました。それだけ、“熱”の色合いが濃くなってしまったのです。
終いにHさんはワタシの全てを奪い、一日中Hさんのことだけを考えるように洗脳されました。
けれど悲しいかな……。
ずっと隣にいても、いつまで経っても、Hさんがワタシに振り向いてくれる気配はありません。
ここにいるよ、と姿を知らせようにも、ワタシは乙女心を持ったただの“青春幽霊”です。負の感情なんてもってのほか、この恋心に余計なちりあくたなど欠片も混ざってはおりません。
ですから、霊感も無さそうなHさんがどれだけ物理的に奮闘しようと、ワタシと出会える機会は一生無いでしょう。
だってワタシは……好きだから。
たとえ、この声が届かなくても……。たとえ、背後からその肩に触れられなくても……。
たとえ、この存在があなたに一生気付かれなかったとしても……何度でも言います。
――ワタシは好きです。好きなのです。好きになってしまったものは、もうどうしようもないのです。
けれど、Hさんが聞こえもしない、ましてや触れられもしないワタシをずっと追いかけているのも問題です。ワタシのせいで、Hさんの日常に支障をきたしかねません。
それはなんとかしなければ、とワタシは頭を捻ってあれこれ考えました。
と、その時。
ワタシは思い出すと同時に、気付いてしまいました。
ワタシとその人が結ばれる方法――つまり、一つになれる解決策が。
それは、ワタシたち幽霊のみが扱える能力みたいなもので、“青春幽霊”みたいなやつでも持っている、とっておきの魔法です。
それは――――
「ノリウツッチャエバイインダ」