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エイファがキリアンの婚約者となったのは8歳のときだった。
年頃の令嬢を集めたお茶会の後、キリアンから指名されたのである。
「婚約の件、了承してくれてありがとう。マクラウド侯爵令嬢」
二つ年上のはずだがその年齢以上に物おじしない堂々とした態度に、エイファは固い微笑みを返すのが精いっぱいだった。
そんなエイファにキリアンはどこか作り笑いめいた笑顔を向けた。
「僕、この国が苦手なんだよね」
「えっ?」
「父上も母上もぜいたくが大好きで、血統が大事で、自分たちが一番偉いと疑わない。上がそうだから貴族も同じような考え方で。君を選んだのは数多くいた令嬢の中で、一番地味な装いだったから。そんな理由で選んじゃってごめんね」
子供らしくない笑顔はそのままだったが、言葉にうそがないことは感じられた。
「い、いいえ、殿下。我が家はあまり豪華な生活ができるわけではないので…。ですからわたくしは殿下のようにちゃんと考えていたわけではなく……」
エイファはぜいたくができない環境であるといった高位貴族としては恥ずべきことをキリアンにきちんと伝えた。その真摯な態度に自分の目は間違っていなかったと満足した。
「君となら苦手なこの国でも生きていけるかも。僕と一緒にいてくれる?」
柔らかく微笑んだその顔はエイファから見てもちゃんと嬉しそうだとわかる顔で、そのことにホッとしたエイファはごく自然に笑って頷くことができた。
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「キリアン殿下。婚約の前にお伝えしなければならぬことがあります」
エイファを婚約者に指名したい旨をマクラウド侯爵に伝えたあと、回答の前に面会の申し込みがあった。
「娘は本人にかかわりないところで少々重たいものを持っております」
そう切り出した侯爵の言葉の内容をキリアンはそれほど重要視しなかった。
「今のところ政情に問題ないから気にすることもないでしょう。ですが聞いておいてよかったです」
「高齢であの子を出産した妻は幼いうちに亡くなってしまい、不調法な娘ですがどうぞよろしくお願いします」
稀にしか会わず心温まるような会話をしたこともないような自分の両親とは違い、当たり前に娘を愛して案じている侯爵をキリアンは心地よく感じた。
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「マクラウド侯爵はすごい人だね」
「殿下?」
「なんていうか…、こんな貴族社会であんなふうにしなやかに、己を偽らずにまっすぐに立っていられるなんてすごいことだ」
「ありがとうございます、殿下。殿下が二人目です」
父親が大好きなエイファが喜ぶのは当然で、照れもせずに嬉しそうに笑う。
「二人目?なんの?」
「お父様がすごいことに気がついた方です。最初はお母様なのです」
「亡くなられたお母上が?」
「はい、お母様はお父様のすごさがすぐにわかったといつも自慢していました。結婚できて幸せだと」
キリアンは知らなかったが、エイファの母親の口癖だったようだ。
幼い時に亡くなっているにもかかわらず、エイファがそのことを覚えているのは、うそ偽りなくそう語り聞かせていたからなのだろう。
「すてきなご両親だね。……うらやましいな」
言葉に含まれる気持ちを感じてしまったエイファは思わずキリアンを抱きしめたくなった。
さすがにそれはできなかったから、代わりに愛する父親に向けるようにキリアンに笑いかける。
「恐れ多いことですが……、いつか、殿下の父上にもなってくれます」
エイファの笑顔と言葉に目を見張ったキリアンがらしくなく顔を伏せる。
気分を害したわけではないとわかるのは小さな声が続いたからだ。
「ありがとう」と。
「エイファ嬢、頼みがあるんだ」
そう言ってキリアンがエイファに引き合わせたのは男女二名だった。
壮年の男性は左腕がなかった。若い女性は額から右頬にかけてひどい火傷の痕があった。
「父上の命の恩人と、母上の暴力の被害者だ」
二月ほど前、王宮で国王暗殺未遂事件が起きた。護衛騎士の一人が毒が塗られた剣から身をもって国王を庇い、国王は無傷だった。騎士も命は取り留めたが、引き換えに左腕を失った。
「『片腕の騎士など見苦しい』と父上は彼を辞めさせた。『護衛なら当然で、むしろ国王の身を危険にさらした』と何の恩賞も報酬も与えずにね…」
エイファは女性のことは知っていた。王子妃教育の一環として出席している王妃とのお茶会の席で、何度か見かけたことのある侍女である。
もちろんその時は火傷などなかった。むしろたいへん愛らしく可愛い顔立ちだった。
「母上が父上を誘惑しただろうと言い出して…。どうせ父上が彼女のことをそんな目で見ていただけだろうに」
まだ12歳のキリアンが大人のような溜息をついて嘆いている姿にエイファは胸が痛んだ。
「おまかせください、キリアン様。お二人は我が家で働いてもらいますので。たくさんお給金は出せないかもしれないけどそれでもいいかしら」
少しでもキリアンの負担を軽くしたくて、頼まれるだろうことを先に口にした。そんなエイファを見て二人も納得した表情を浮かべる。
「ご厚情に感謝いたします」
「喜んでお仕えさせていただきます」
「ありがとう、エイファ嬢」
礼を言うキリアンの笑顔にエイファは胸が温かくなるのを感じていた。
「いつもありがとうございます」
月に一度行われる侯爵家でのお茶会に、必ず花束を持ってやってくるキリアンから、エイファは嬉しそうにそれを受け取った。
「花束しか贈れていないけどね」
キリアンが贈るのはいつも王宮の庭で咲き誇る季節の花々だった。いまもエイファの手ずから部屋に飾られている。
「兄上が予算以上に遊興費を使うせいで、その埋め合わせがこちらに来ているから。先日そのことに苦言を呈した文官を『王太子に不愉快な思いをさせた』と強引に僻地へ左遷させたらしいし」
キリアンより4歳年上の王太子は、これ以上ないほどの王族だった。自分が特別な存在で、思い通りにならないことは何一つないと信じ込んで、人を傷つけることに罪悪を感じず、人から傷つけられることなど決して許せない。
婚約者であるキリアンとは正反対の王太子を思い浮かべ、花を生けるエイファの表情も曇った。
「キリアン様…」
「エイファがそんな顔しなくていいよ。笑ってくれたら元気が出る」
エイファを慰めるように止まってしまった手を軽く握ると、キリアンは聞こえない程度の声で呟いていた。
「……愚かな君主なんていない方がいいのに」
左遷させられた文官をエイファはこっそりマクラウド領に引き抜いた。元々必要があって僻地に赴任したわけではないので周囲には何の疑問も抱かれなかった。
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【とある王太子】
私はこの国の第一王子だ。伝統あるこのルフェヴ王国の次期国王である。
現在は軍のトップである将軍位を預かる身でもある。
『選ばれし血を引く尊き御方』
『比類なきやんごとない御身』
それが私だ。
「王太子殿下、どうか今少し抑えていただけないでしょうか」
新しい剣につける宝石を買うための金を要求したら、名もしらぬ文官が口出ししてきた。
「殿下がお使いになる国費のほんの一割でも街道整備や開墾に回せたら、民の暮らし向きが少しでも楽になります」
「私は次期国王だぞ。この国はいずれ私のものになるというのに、なぜ我慢する必要がある?」
「民が豊かになれば税収も上がることになります。それはこの国のためになります。どうか長期的にお考えください」
「何を言うか、私はこの国そのものだろう。この国で生きる民が私のために尽くすのは当然のことだ」
「殿下っ」
「うるさいっ、下がれ」
賢しらに抗議してくる文官は二度と顔を見なくてよいように僻地へ追放した。
ああいった手合いはこちらが少し譲歩するとすぐにあれもこれもと要求してくる。だからこそしっかり処分しなければならない。
同じように油断するとすぐに怠ける平民に対して甘い顔を見せてはいけないのだ。
それが国の頂点に立つということなのだから。