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「キリアン・カルフーンの名において、エイファ・マクラウドとの婚約を破棄する!」
自分の王立貴族学園卒業パーティーという舞台において、白銀色の髪と青い瞳をもつ容姿端麗な第二王子が、常日頃の優雅さとはかけ離れた声を上げた。
突きつけるその指の先にいるのは婚約者であるエイファ・マクラウド侯爵令嬢。巻き毛の黒髪は艶やかにその背を覆い、森のような緑色の瞳を細めて美しく微笑んでいる。
「理由をお聞きしても?」
「お前がサーシャにした仕打ちの数々を忘れたのかっ」
キリアンがしっかりと腰に手を回し抱きかかえるのは栗色の髪をもつありふれた顔立ちのサーシャ・セルド男爵令嬢。
今年入学したエイファと同学年の令嬢はどんな手段を使ったのか、瞬く間にキリアンとその側近三人を虜にした。その様子を婚約者であるエイファは傍観するばかりと思われていたので周囲からは騒めきが起こる。
常に四人の誰かと共にいた令嬢は、茶色の瞳で周囲を見回し、どこか困惑した表情を隠せずにいた。
「どんな仕打ちをわたくしがセルド男爵令嬢にしたとおっしゃるのでしょう?」
少しの動揺も見せないエイファにキリアンたちの周りにいた男が進み出る。
「サーシャへ何度も暴言を吐いた」
宰相補佐官の弟であるコルムが告げる。
「サーシャの教科書を破り捨てた」
第二軍団長子息であるオーエンが問い詰める。
「サーシャのドレスにわざと飲み物をこぼした」
外交事務官の孫であるニールが突きつける。
「平民上がりの男爵令嬢ごときに、侯爵令嬢であるわたくしがそのようなことをするとでも?」
「彼らが見ているのだから間違いはない!」
「で、殿下……」
キリアンが離そうとしないサーシャの方が、エイファよりもはるかに動揺していた。
「ああ、サーシャは何も言わなくていいよ。怖い思いをたくさんしたのだからね。すべて私に任せておきなさい」
側近三人からの矢のような糾弾を追い風にしてキリアンは宣言した。
「国外追放を命じる! お前のような者が愛する我がルフェヴ王国で息をしていることすら耐えがたい! 早々に連れ出せ」
その命を受けてエイファの腕をつかもうとするオーエンを素早く扇で制すると、キリアンに向けて極上の笑顔とともに言い放った。
「殿下、これでみなさまとは今生の別れとなるやもしれませんので、ご挨拶だけでもさせてくださいませ」
「よかろう、忌々しいお前の望みを叶えてやる寛容な私に感謝するのだな」
「せっかくの場にてお騒がせいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。そしてこれからのみなさまのご多幸をお祈りいたします」
少しも悪びれず、見事な礼をするエイファこそがその場の主役だった。
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何の根回しもしていない勝手な婚約破棄。政略的なものではなかった二人の婚約だったが、父である国王の怒りは周囲の予想以上に大きかった。
「キリアン! お前は何ということをしたのだ」
「なぜお怒りになるのですか、父上。あのような女を王族に迎え入れたら我が王家の恥になります!」
「黙れ!! この愚か者めが……」
国王の厳命でキリアンは王族としての身分を剥奪され、サーシャとともに僻地へ送られた。母親である王妃は一年ほど前から体調を崩しており、このような事態になっても姿を見せることはなかった。側近三人もそれぞれ生家から放逐され、何処かへ姿を消した。
一方国外追放されたエイファもまた行方が知れなかった。
卒業パーティーから退出したその足で国境近辺まで移動させられ、そのまま放り出されたということはすなわち死ねということと同義であった。
父親のマクラウド侯爵は娘の悲劇に心身を壊し、爵位の返上を願い出た。
もともと野心もなく要職についているわけでもない侯爵の望みはあっさり叶えられ、気候の穏やかな保養地へ隠棲することになり、その後すぐに没したという連絡が王都へ届けられた。
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まだ朝靄の晴れぬ時間、街道から少し離れた森の中で、若い男女が言い争う声がする。
隣国リドゥア帝国との国境線であるシベル川にほど近い森の中はうっそうとした空気に包まれ、人の気配はまったくない。
「殿下、わたしがいてはご迷惑になるばかりです。どうかわたしのことはお捨ておきくださいませ」
「サーシャ…、君まで僕を捨てるのか?」
「そうではありません!」
「逃がさないよ、絶対……」
「殿下…」
エイファと同じようにと、身一つで放り出されたキリアンとサーシャである。
まずはどこかの街へ行くはずだと思っていたサーシャの手を放すことなく、人目を避けるように森の中へ連れてこられた。
足手まといにならぬよう身を引く、と訴えると腕をさらに強くつかまれる。
優しく触れるようなことはあっても、こんな風に痛みを感じるほどの力強さは初めてでサーシャは不安を覚えた。
胸中に芽生えた不信感を悟られないように気をつけて、キリアンを見上げると少し口角をあげていた。
「だって君、これからエイファを探すように命じられているだろう?」
口調は疑問でもその声音は断定だった。
「なっ、なぜっ」
平静を装う表情も、取り繕うべき言葉も忘れて息をのむ。
聞いたことのない凄みのある声とともに見つめてくる深い青の瞳には、剣呑な光が宿っている。
これが今まで恋に溺れていた王子だろうかと、サーシャは自分の目を耳を思わず疑った。
「男爵令嬢なんて作られた身分で、お前が王家の工作員かつエイファの監視役だったことは知ってたさ。本当は目立ちたくなかっただろうに、表舞台に引っ張り出されて慌てただろう」
告げられる内容の正確さにとっさに反論すらできず立ち尽くしていた。
「遅くなりました。殿下」
背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「殿下じゃないだろう、オーエン」
「ニールの言う通りだ。これからは誰の耳がどこにあるかと、より一層慎重にならねば」
静かに現れたのは、コルムにオーエン、そしてニール。
キリアンの取り巻きでサーシャのご機嫌伺いばかりするような男たちだった。
容姿以外特筆すべきことのないキリアンと同じような凡庸な人間たち、そのはずだったのに。
目の前のキリアンもそして背後にいるであろう三人も『凡庸』であろうはずがない。
自分と同じように『ありふれた』人間であることを己に課していることを全く見抜けていなかった。
背後にいた二人に両脇を取られ、残りの一人に口を塞がれたサーシャの目に鈍く光る剣先が映る。
「どうせ俺を殺すように命じられていただろうから、まったくの冤罪でもないしな」
キリアンの言うことを否定する時間も、すべて事実であると肯定し慈悲を乞う時間も与えられなかった。
常に笑っているように細められていたキリアンの青い瞳には見たことがない強さを感じる。その強さにサーシャは初めてキリアンから本当に認識されたような気がした。
ためらいなく差し出された剣は抵抗もなくサーシャの胸に刺さる。
「お別れだ、サーシャ。お前に生きていられると面倒だ」
ずっとサーシャに愛をささやいてきていた愚かな王子という仮面はきれいに取り払われて、ああこれが本性なのかと理解する前にサーシャの鼓動は止まった。