5 劣等感はお互いに持っている
「学外活動について、何か意見はありますか」
肩身の狭い思いをするクラスでの1日も、あと少しで終わり。ホームルームで、会長がそう投げかけた。
途端に、教室の空気が、僅かに高揚する。
高等部は、中等部よりも、学級のつながりが強くなる。昨年まで高等部に通っていた兄は、そう話していた。時期や行き先、活動内容全てを決める学外活動も、そのひとつ。
昨年度末に卒業した兄が高等部1年生の時、私はまだ初等部。その話を聞いて、高等部に強く憧れた。
クラスのほとんどの生徒が、中等部からの内部進学だ。皆それぞれに、高等部の学外活動の話を聞き、憧れをもっている。
ぽつりぽつりと意見が出て、ああでもない、こうでもないとやり始める。
こういうところで私が発言したら、変な空気になるのは、試してみなくてもわかっている。それぞれの意見を聞き流しながら、私は頬杖をつき、ぼんやりと議論の推移を眺めていた。
優秀な会長たちは、意見を3つにまとめあげる。
「浜辺でスポーツ大会、霞ヶ湾をクルーズ、オリジナル花火大会の企画、でよろしいでしょうか。この選択肢について、意見はありますか」
何人もの人が意見を述べ、まとまった3つの案。どれも、それなりの理由があり、やりたいと思う人がいるものだった。
私は、教室を見回す。わくわくした顔、何も考えていないような顔。中には少し、調子の悪そうな顔をしている人もいる。
何に決まったっていい。
学外活動の企画は盛大で、クルーズを貸し切ったり、花火大会を企画したりするのは、例年どこかのクラスがやっているようなこと。
「あたしは、クルーズがいいけど」
ざわめく教室の中で、早苗の声が響く。
私は、海斗の表情を確認した。微笑ましげに目を細め、幾度か頷いている。
これは、決まりかな。
早苗と海斗が言うことに、反対できる人はいないだろう。このまま多数決かと思っていたけれど、その前にチャイムが鳴った。
「続きは、また次回にします。どれが良いか、皆さん、もう一度考えておいてください」
会長がそう締めくくり、ホームルームが終わる。
「あと少しなんだから、決を取っちゃえばよかったのにね」
「そうそう。クルーズでしょ?」
そんな、投げやりな会話も飛び交う。
私もそうなると思うけれど、まとめてくれた会長もまだいるのだから、そんな風に、聞こえる会話をしなくてもいいのに。
「まあ、いいじゃない。もう時間だったんだからさ」
様子を伺うと、会長はそう朗らかに笑っていた。
私だったら、彼らの言葉に傷ついて、そそくさと教室を後にしていただろう。器の違いを感じつつ、早々と教室を後にする。
ガラスのはめ込まれた戸を開けると、濃密な静けさが前方から吹き付けた。
その独特な静けさにも、もう怯むことはない。私は、鞄を持ったまま、カウンターに向かう。
「こんにちは」
「あ! ……こんにちは」
鞄を覗き込んで本を探していると、話しかけられて肩が跳ねる。
そのままの体勢で顔を上げたら、今日も、ここには慧がいた。
「返却?」
「はい。……慧先輩は毎日、いらっしゃるんですね」
流れるような返却の手続きを見ながら、私はそう話しかける。言ってから、失礼だったかもしれない、と焦る。まるで慧が暇人だと言っているみたいだ。
慧は、作業の手は止めずに、ちらりと視線だけ上げる。特に、苛立ったり怒ったりはしていない。
「そうだね。俺、図書室が好きだからさ。受付は、当番制にしてもいいんだけど、進んで引き受けているんだ」
「へえ……」
「毎日来るくらいだし、藤乃さんも、この雰囲気、嫌いじゃないんじゃない?」
そう言われて、私はカウンターの周りを見回す。
柔らかな色合い。窓から射す日差しも、ブラインドで柔らかく遮られている。足元で踏みしめている絨毯も柔らかければ、慧の表情も柔らかい。
図書室は、心が広い。私を傷つけるものは、何もない。
「私も、好きです」
そう答えると、慧は目を少し丸くした後、細めて笑った。頬にえくぼがまるく浮かぶ。
「ここの学園の人は、図書室なんて、なかなか来ないからさ。静かに本も読めるし、勉強もできるし、落ち着くんだよね」
「そうでしょうね」
海斗に婚約破棄を宣告されるなんて事件がなかったら、この部屋に来ることもなかった。読みたい本があるなら、買ってもらう。つい先日まで、そう思っていたから、私自身も、図書室なんて来たことがなかった。
これだけ人気がなければ、落ち着いて過ごせるのは間違いない。
「俺は、その方が良いんだけどね。家じゃなかなか、読書も勉強もできないし」
「へえ……」
言いながら、慧は棚に、今返した本を置く。
「その棚は?」
「ああ、これは、返却図書用の棚だよ。暇な時に、まとめてここから、元あった棚に返すんだ」
3冊しか本の載っていない棚板を、優しい手つきで慧が撫でる。1冊は、今私が返したもの。もう1冊は、青い表紙。
「海の生き物……写真集だ」
手に取って見ると、海中の美しいイソギンチャクの写真が、表紙になっている。
「それは、俺が借りたやつ」
「慧先輩、海がお好きなんですか?」
「海が好きっていうか……そういう癒される写真って、良い息抜きになるから」
私は、写真集を取り、中のページをぱらぱらと見た。色とりどりの珊瑚、海藻、貝。海中の光、ゆったり泳ぐ魚。
「あ、マンタ……」
悠然と泳ぐマンタを、上から撮った写真。大きなヒレが、カーブを描いてめくれ上がっている。
「俺、マンタって好きなんだよね。海を飛んでいるみたいで」
「海を飛んでいる……そう言われると、素敵に見えますね」
大きなヒレを動かし、飛ぶように海中を進むマンタ。昔見た光景を思い出し、懐かしみながら、私は言った。
「私、マンタって怖いんです。開いた口が意外と大きくて、近くで見ると、食べられそうな気持ちになるんですよ」
「近くで見たこと、あるの?」
「ええ、家族でハワイに行った時に。マンタを夜に見られる体験があって、それに参加したんです」
本格的なダイビングではなく、浮きに捕まって水中を覗くタイプの、簡単なものではあるが。
浮きについている明かりを目掛けてマンタが泳いでくるので、本当に近くで見ることができた。
大きく開いた口は自分を食べてしまいそうで、幼い私は、しばらく水族館でマンタを見ると恐怖に固まっていたという。
今はそこまででもないが、マンタはやはり、苦手なままだ。
「ハワイかあ……行ってみたいな、いつか」
「中等部の修学旅行は、ハワイじゃありませんでした?」
「いや……そっか、藤乃さんは知らないんだね。俺、高等部から入ったんだ、特待生として」
慧の指先が、とんとん、と棚板を軽く叩く。
その声音にどことなく卑屈めいたものを感じて、私は彼の顔を見た。眼鏡越しの瞳に宿る色は、やはりどこか、自嘲的だ。
「図書室にいるのは、家だと妹がうるさくて、勉強できないから。本を借りるのは、お金がなくて買えないから。広い海に癒されるのは、クラスでは肩身が狭いから……なんだよね」
眼鏡のブリッジを押さえ、慧は軽く俯いて視線を逸らす。長めの前髪が、さらりと落ちて、目元が見えなくなる。
「……特待生って、やっぱり目立つから。てっきり藤乃さんも、俺のことをわかって話していると思ってたよ、ごめんね」
「どうして、謝るんですか?」
いきなりの謝罪に、質問で返す。
慧は、詰めていた息を吐き出したような笑い方をした。待っていると、「藤乃さん、どれだかわかんないや」と続ける。
「本当にわからなくて聞いてるのか、フォローのための質問なのか、それとも、俺をからかっているのか」
「……どういう、ことです?」
「だって、特待生ってそういうものだろ、この学園では。一般生徒の皆さんとは全然違うっていうのは、俺もわかったよ。学費が安いから入学したけど、家柄の差が、まさかここまできついとはね」
ここまで言われれば、私にもわかる。
家庭環境の差、それに、高等部からの編入という特殊性。特待生は、特別であり、異質な存在だ。
「藤乃さんは普通に会話してくれたから、俺は嬉しかったけど……知らなかったなら、そうだよね」
慧の滔々とした語り口から、鬱屈した思いが伝わってくる。
だけど私は、彼が特待生だと聞いても、何も思わなかった。早苗と重なって微妙な気持ちになる部分はあるが、彼女と慧は違う。
特待生であることは、見方を変えれば、それを勝ち取るだけの力があったということ。早苗と同様、私には敵わない才能があるに違いない。
「別に、特待生だと知ったからって、何も変わりません」
「……どうかなあ」
「私にとって慧先輩は、図書室にいる優しい先輩ですから。別に特待生でもそうでなくても、そのことに変わりはないです」
レンズ越しに、慧はこちらを伺う。その瞳は、真っ直ぐに私を射抜く。本心を言わないと、きっと見透かされる。一拍呼吸を置いて、思考を整理してから、私は付け足した。
「あ、……嘘。特待生なら、私より勉強できるなって思いました」
「そこなの?」
ふっ、と慧が笑う。張り詰めていた空気が、柔らかくなった。知らず知らずのうちに緊張していた肩が、すっと落ちる。
「驚いたよ。そういう人も、いるんだね」
「あー……でも、慧先輩は別枠かもしれません」
その柔らかな雰囲気に、口が滑り始める。
「私のクラスの特待生は、すごい人なんです。人気者で、男の子も女の子も、皆周りにいて。それでいて勉強はできるし、凄すぎて、あんまり好感をもてないんですけど……慧先輩には、嫉妬しないです」
「まあ、俺は大した人間じゃないからね」
「違いますよ!」
自分を卑下する慧に、思わず反論する。
「そういうことじゃないです。慧先輩も、すごいと思っています。学級での様子は拝見したことありませんが……少なくとも私と話しているときの先輩は、優しくて、朗らかで、知的で……」
「……そっか。俺には、藤乃さんのほうが、すごい人に見えるけど」
私は、首を左右に振る。
「いえ、私は、話すのも上手じゃないし、愛嬌もないし、お洒落でもないし」
早苗と自分を比べて、ああでもないこうでもないと思っていたことが、口からぽろぽろ出てくる。情けない話をしていると思ったが、なぜだか、止まらなかった。
言い続けるうちに、気持ちが重くなってくる。やっぱり私は、早苗には敵わない。だって彼女は、可愛いし、華やかだし、なんだってできる。
頭にぽん、と手が置かれて、私の口は止まる。
はっとした私は、慧が眉尻を下げ、困ったような笑みを浮かべているのに気付いた。
「すみません、お聞き苦しい話を」
「いや、俺こそ、変な話をしてごめんね。そんなに、自分を卑下しなくていいと思うよ」
「……ありがとうございます。でも、私が至らないのは本当なんです。つい先日、婚約者にも、婚約を破棄するって言われちゃったし……彼も、特待生の子のこと、好きだから」
これは、兄に話すまで、胸に秘めておこうと思っていた事実だ。それがなぜか慧の前で溢れてきて、口にすると同時に、その事実が、改めて胸に突き刺さる。
海斗は早苗に惚れ込んでいて、私は婚約破棄すると言われた。私は早苗には全く敵わない。それが、事実。
「え。それで藤乃さん、そういう本読んでたの?」
驚いたような、慧の声。「そういう本」とは、勿論、先ほど返却したような本のことだ。ぼんっと、顔が一気に熱くなった。
「あの、あの……」
「あっ、ごめん、いや、恥ずかしい思いをさせたかったわけじゃなくって」
「図星です……」
頭から湯気が立ちそうだ。熱くなった頬を冷やすように、両手で押さえる。
婚約者に婚約破棄されたから、同じ立場の女の子が逆転劇を披露する本を読んでいるなんて。
そんな現実逃避をしていることを、慧に知られるのは、恥ずかしかった。きっと、馬鹿にされてしまう。
「何となく読んだら、特待生の子みたいな女の子が、やり返されてたりとか、私みたいな立場の子が、頑張ってたりとかして、すごい、共感しちゃって、現実逃避なのはわかってるけど」
言い訳めいた言葉が続く。こんなことを言っても、私の後ろ暗い欲望は、見透かされてしまうだろうに。
「うん、わかるよ、大丈夫」
「私もこれを参考にして、特待生の子とか、婚約者……じゃなくて、元婚約者を、見返したいなって」
惨めだとはわかりつつも、言い訳を止めることができない。
「普通に読んでて面白いし、私もこんな風に、鮮やかに破滅を回避できたらって……」
「うん、うん。大丈夫だから。聞いて、藤乃さん。俺、別に全然、おかしいと思ってないよ」
そうなの?
聞いて、と言われて、漸く耳に慧の言葉が入ってきた。言葉が止まり、彼を見る。その目はたしかに、面白がるような感じではなかった。
「辛いことがあって、それでここに来たんだね。どうだった? 本を読んで、少しは気が紛れた?」
「……はい」
慧の言う通り。私が婚約破棄ものを読みあさっているのは、「早苗の惨めな姿を見たい」という後ろ暗い欲望を、創作で紛らわすためだ。その目的は、確実に果たされている。
「ここにいると、教室にある嫌なことから、離れられるよね」
「そうですね」
「なら、俺たちは似てるよ。俺だって、さっき言ったみたいに、教室では特待生、って色眼鏡で見られて、肩身が狭いからさ。自分で選んだとはいえ、あんまり環境が違うから、嫉妬もするよ。でも、ここにくれば、そんな思いはしない。藤乃さんも、俺を変な目では見ないから、今だってそう。気が楽なんだ」
本棚に軽く寄りかかり、リラックスした姿勢で、慧は笑った。そのえくぼに、視線が吸い寄せられる。
「だから、別に君がどんな本を読んでいても、それが現実逃避でも、別にいいんだよ。俺だって、似たようなことを、してるんだから」
「……そう、なんですね」
彼の言葉に耳を傾けるうちに、ざわざわしていた心が、静まってくる。
落ち着いて見える慧も、教室での居場所のなさや、自分を卑下する気持ちを抱えている。同じだ、と思うと、胸に温かいものが生まれた。
「すみません、取り乱して」
「俺こそ、迂闊なことばっかり言って、ごめんね」
ふう、とひと息つく。
慧が、人差し指を、そっと口元に添えた。
「今日の話は、お互い秘密にしようね」
人には言えない、他者をうらやむ卑屈な気持ち。私にもあるし、慧にもある。
慧が右手の小指を立て、こちらに差し出す。
「……これは?」
「指切りげんまん、だよ。約束のしるし。知らない?」
「ああ、知っています」
私は小指を差し出し、慧のそれと絡めた。
「約束ね。俺が劣等感を抱いてるっていうのは、誰にも言わないこと」
「はい。慧先輩も、私の婚約破棄のことと、ああいう本を見返すために読んでるってことと、早苗に嫉妬してるってことと、それと……」
「多いね」
思いつくだけ挙げる私に、慧がまた苦笑する。
「お互い、言わないこと。約束です」
軽く手を上下に振って、指を離した。温かい感触が、まだ小指に残っている。
「長々と呼び止めて、ごめんね」
不思議な気持ちで小指を見つめる私に、慧は囁く。声は小さくても、この静かな図書室では、よく響く。
「本、探しておいで」
「はい……お話できて良かったです」
平静さを失った場面もあったが、会話を終えてみれば、清々しさすら感じる心境になっていた。
だから、良かったというのは、私の本心。誰にも言えなかったことも、話してしまえば、心のつかえが取れた。
私は書架に向かい、慧はカウンターに座る。何事もなかったかのように最初の状態に戻ったものの、彼と私の間には、確かにつながる何かが生まれていた。