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44 慧の視線

「おはよう、お姉さん!」

「凛ちゃん、起きたのね」

「うん! いっぱい寝たから、もう元気なの」


 レジャーシートのところで待ち構えていた凛が、両手を挙げて元気の良さを示す。その無邪気な動作に、思わず口元が緩む。隣を見れば、慧は、優しい眼差しを凛に注いでいた。妹が可愛くてたまらないのだ。


「僕たちは、交代で着替えてきたけど。混まないうちに、二人とも行ってきたら?」


 兄は、レジャーシートに座ったまま、こちらを見上げて言う。腕に伸ばしている、白いクリーム。兄が愛用している日焼け止めだ。

 緑色の海水パンツは、慧たちと一緒に水着を買ったとき、兄が買っていたもの。上半身には薄いTシャツを着ている。


「お姉さん、ちゃんと凛の水着、持ってきた?」


 凛が着ている紺色の水着も、あのとき買ったもの。


「ええ。凛ちゃんに選んでもらったのを、持って来たわ」


 答えると、凛の表情がぱっと明るくなる。頬は紅潮し、見るからに嬉しそうだ。


 出会ったときには、あんなに警戒されていたのに。私は、凛の顔を見ながら、懐かしく思い出す。初対面のときには、慧との時間を奪った私に腹を立て、警戒していたのだ。


「早く見たい! 凛が更衣室の場所、教えてあげるね」


 砂浜の上を、ボールが跳ねるような足取りで駆け出す凛。私は、場所は知っているけれど、敢えて案内してもらうことにした。


「慧先輩、行きましょう」

「あー……ごめん。俺、水着は持ってきてないんだ」

「え? そうなんですか」


 慧は苦笑し、後頭部に触れる。


「海には入らないと思っていたから。それに水着は、学園指定のしか持っていないんだよ」

「ああ、わかります」


 慧は、私と似ている。

 私も水着は、学園指定のものしか持っていなかった。


「ごめん、凛をよろしく」

「わかりました。行ってきますね」


 私は慧と兄を置いて、凛を追いかける。


「遅いよー!」

「ごめんなさい凛ちゃん、待って、ちょっと待って」


 凛の運動神経は、なかなかのものだった。


 学外活動の時に着たのと同じ、紺色の水着を着る。ビキニ型の水着に、パーカーを羽織る。

 やはり、お腹が少し心許ない。

 着替え終わって更衣室から出ると、凛が待ち構えていた。


「わあ! やっぱり似合う、可愛い!」

「凛ちゃんのおかげよ」

「でしょ? センス良いと思ったの」


 凛は、私の姿を上から下まで確認し、満足そうに腕を組む。


 更衣室を出ると、ちょうど入口から、たくさんの人が入ってきたところだった。開放の時間になったらしい。レジャーシートは入口とは反対側に敷いてあるので、人の波を背にしながら、慧たちのところへ戻る。


「おかえり、藤乃」

「ただいま」


 兄と慧は、シートに座って談笑していた。兄が先にこちらに気付いて、片手を挙げる。私が返事をすると、慧の顔がこちらを向いた。


「あ、藤乃さん」


 彼の視線が、そのまま、私の隣に流れる。


「凛もおかえり」

「ただいま、お兄! やっぱり水着持ってくれば良かったのに。お兄だけだよ、着替えてないの」

「俺はいいんだよ。新しい水着を買うのも勿体ないでしょう、1回しか着ないんだから」

「そーかなあ……」


 なんとなく視線の動きを不自然に感じて、私は首を傾げる。いつもの慧なら、ひと言くらい、感想をくれる気がした。


「藤乃、似合ってるね、その水着」

「ありがとう、お兄様」


 代わりに兄が、水着を褒めてくれる。


 凛と交代で日焼け止めを塗り終える頃には、辺りはすっかり、レジャーシートで溢れていた。テントを張っている家族連れもいる。

 色とりどりの水着、賑わう人。大盛況だ。


「こんなにたくさん、地域の方がいらっしゃるのね」

「屋台も出るし、ちょっとしたお祭り気分なんだと思うよ。ほら」


 兄が指す先には、色とりどりの屋台が並んでいる。「チキンステーキ」「かき氷」「かち割り」「わたあめ」……どの屋台にも、既に行列ができている。

 風に乗って、食べ物の香ばしい匂いがする。


「うち、かき氷食べたいなあ」


 物欲しげな目をして、凛は言った。


「いいね。買いに行こうか」

「お兄さんも食べたいの?」

「うん、暑いからね。行こう、凛ちゃん」


 意外と乗り気な兄が、立ち上がる。レジャーシートの隅に載せていた、ビーチサンダルを履いた。


「藤乃はどうする?」

「私は……」


 自分の、剥き出しの腹部を撫でる。冷たいものを食べるのは、いささか心配だ。


「寒くなったら困るから、今はいいわ」

「お兄は?」

「俺も止めとく」


 私と慧がシートに残り、兄と凛が買い物に行った。鹿が跳ねるように軽やかに駆ける凛と、それを制しながら付いていく兄。


「申し訳ないな。桂一先輩に、凛の面倒を見てもらっちゃって」


 慧は二人の背を見送り、視線を海に戻すと、呟くように言った。


「いいんです。お兄様は、好きで付いてきているので」

「来てくれて良かったよ。俺の方も、凛が付いてきちゃったし。……それにしても、凄いね。まさかこんなに人が多いとは、思わなかった」


 砂浜に溢れる、人の波。既に海へ入り、水を掛け合って遊ぶ人。


「早苗さんたちは、見つけられるでしょうか」

「そうなんだよ。彼らは目立つから、すぐ分かると思っていたけど……予想以上だね、これは」


 私たちの目的は、早苗と樹のイベントが、無事に阻止されたのを確認すること。ところがこの人出では、そもそも、早苗たちを見つけることすら危うい。


「探して回りますか? アイテムが落ちていた辺りに、きっと来ますよね」

「うーん……」


 どこか煮えきらない慧の相槌。彼の視線は、海の方にずっと注がれている。

 そのまま、沈黙。慧との沈黙は苦手ではないが、会話の途中で途切れた感じがして、ちょっと落ち着かない。私は身じろぎして、慧の横顔を見つめた。彼はどこか一点を見つめたまま、こちらを見ようとはしない。目に力が入っていて、顔が強張って見える。

 怒っている? 心当たりはない。考え込んでいるにしては、顔が深刻だ。


「……慧先輩」


 名前を呼んではみたものの、その後に続く言葉がない。


「どうしたの、藤乃さん」


 慧の返答は、向こうを見たまま。

 いつもなら、名前を呼んだら、こちらを見てくれるのに。やっぱり何か、失礼なことをしたのだろうか。兄が来たのが嫌だったとか。海なんて来たくなかったとか。人が多いのが嫌だとか。気分を害したのだろう。でないとこんな、見たこともない、素っ気ない顔なんて。


「あの……ごめんなさい」

「えっ? 何が?」


 漸く、慧と目が合った。


「慧先輩の、気分を害するようなことを、私がしたんですよね。その……こちらを全然、見てくださらなかったから」

「あ……ごめん、藤乃さん。そういうつもりじゃなかったんだ」


 慧の瞳に浮かぶのは、動揺の色。怒りも不機嫌さも感じられなくて、私はほっとする。変に鼓動していた心臓が、すっと凪いだ。


「ただちょっと、目のやり場に困ったんだ。藤乃さん、その水着、よく似合ってるね。本当……よく似合ってる」


 目を細め、はにかむ慧。頬に浮かぶえくぼが、いつもよりも、少し赤く見える。その瞬間、慧の顔がいきなり、前方にぐんとぶれた。


「冷たっ……!」


 首元を手で押さえた慧が、悲鳴に似た声を上げる。


「お兄の分も、かき氷買ってきた!」


 背後に立っていたのは、凛である。「氷」と赤字で書かれた紙カップを、高々と掲げて。白い雪のような氷に、緑のシロップがかかっている。

 かき氷のカップを、慧の首筋に当てたんだ。事態を理解し、私は同情した。弾かれたように離れたのも、当然だ。不意打ちのあの氷は、さぞ冷たかったに違いない。


「心臓が止まるかと思ったよ」


 慧は、凛からかき氷を受け取る。

 悪戯が成功して嬉しそうな凛は、満面の笑みを浮かべながら、私と慧の間に座った。手には、赤いシロップの掛かったかき氷を持っている。


「それは、何味?」

「イチゴ味! 舌を赤くしたかったから」


 凛は早速、ストローで出来たスプーンで、かき氷をすくった。口に入れると、目を閉じ、額を押さえてのけぞっている。


「藤乃、どれなら食べる? 温かいものならいいかなと思って、いろいろ買ってきたよ」

「ありがとう、お兄様……ええ」


 礼を言いながら振り向いた先には、両手で大量の食べ物を抱えた兄がいた。段ボールで出来た平たい箱のようなものに、たくさんのプラスチックパックが入っている。


「凛が選んだんだよ!」

「そうなの? 素敵ね」


 レジャーシートの真ん中に、大きな箱が鎮座する。

 焼きそば、イカ焼き、焼き鳥、フランクフルト、焼きとうもろこし、じゃがバター。あまり馴染みのない食事が、箱に並んでいる。


「昔食べたことがあったわよね、お兄様」

「昔?」

「ほら、まだ私が初等部の頃、別荘で……」


 私を挟んで、凛の反対側に腰掛けた兄に、そう話しかける。

 何年も前、家族で避暑をしたとき。別荘の近くの広場で、縁日が行われたことがあった。あのときに、こんな食事を、食べたことがある。どれもシンプルで、良い匂いがする。


「そうか、藤乃はあれ以来、お祭りに行っていないのか」

「お兄様は?」

「僕は、友人と行くこともあったよ。さあ、好きなのを選んで。食べたいのを食べなよ」


 私は、焼きとうもろこしを手に取った。甘いコーンと、香ばしい醤油の香り。昼食にはまだ少し早いのに、食欲をそそる香りに、空腹感が増す。


「いただきます」


 コーンを齧ると、予想通りの甘く香ばしい味が、口の中で弾ける。青い空の下で食べる黄色いコーンは、いつもよりも、美味しく感じる。


「見て! お姉さん、凛の舌」


 かき氷を食べ終えた凛が、べ、と舌を出して見せてくる。舌は赤く染まっていた。舌どころか、唇まで赤くなっている。


「真っ赤ね」

「そうなの! お姉さん、それ、焼きとうもろこし? いいなあ、うちも食べたい」

「凛。それは桂一先輩が買ったものだから、駄目だよ」


 凛の後ろから、慧が注意する。ふとその顔を見ると、唇が、緑色に染まっていた。シロップの色だ。


「……何、藤乃さん」


 私の視線に気づいた慧が、訝しげな顔をする。何も言わず、私は自分の唇を人差し指で突いた。あっ、と声もなく言い、手の甲で唇を拭う慧。そんなことでは、唇に染みた緑は落ちない。


「いいよ、凛ちゃん。食べて。僕と藤乃だけでは、絶対に食べきれないから」


 凛に進める兄の唇は、青く染まっている。


「どれ食べてもいいの?」

「もちろん」

「わあー!」


 瞳をきらきら輝かせ、箱を覗き込む凛。ああでもないこうでもないと暫く迷った結果、フランクフルトを手にした。

 がぶり、と威勢良く噛みつくと、弾けた肉汁が太陽光で輝いて見える。


「おいしー!」


 頬を押さえながら足をばたつかせる凛には、誰もが笑顔にならざるを得ないのだった。

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