42 放課後の砂浜
「さあ、行こう」
私と慧は、学園の正門前で落ち合った。図書室の中とは違う、眩い光。
夏の強い日差しの中で、慧の姿が、鮮やかに映えている。そして、彼の傍には、赤。
「自転車、ですか?」
「そうだよ。地図を見たら、海岸はけっこう遠いからね。歩いていける距離じゃないよ」
慧の説明を聞いて、学外活動を思い出す。確かにあのとき、私たちはバスで海岸まで移動した。
真っ赤な自転車を携えた慧は、いつもよりも、軽やかに見える。
「そうだったんですね。すみません、私は、自転車の用意がなくって」
「大丈夫だよ。荷物、貸して」
差し出された手に、鞄を渡す。慧はそれを、自転車の前かごにしまった。
「もう少し広いところまで、歩こうか」
カラカラカラと、車輪の回る、軽い音。慧が自転車を押し、私は隣を歩く。この厳しい日差しの中で、少し動くだけでも、額や首筋に汗がにじむ。私は、ハンカチで汗を押さえる。
送り迎えの車の間を抜けると、その向こうの道路には、誰も歩いていなかった。
「さあ、乗って」
「いいんですか?」
私は、自転車のハンドルに手を伸ばす。自転車なんて、ここ暫く、乗っていない。別荘の近くの高原で、兄と一緒にサイクリングをしたのは、もう何年前だろうか。
「ん?」
慧が、不思議そうな声を上げる。彼の手は、ハンドルを離さない。私はハンドルに手をかけたまま、慧を見た。
「私が乗っていいんですよね?」
「あ、いや、後ろに乗ってもらおうと思っていたんだけど」
「後ろ?」
慧が指し示すのは、自転車の荷台。平らな網が、後輪の上に備え付けられている。
「ここに? 座るんですか?」
「そう。藤乃さん、二人乗りって、したことある?」
「二人乗り用の、自転車なら……」
幼い頃に、兄とふたりで、二人乗り用の自転車に乗ったことがある。サドルが二つある、変わった形の自転車だ。
覚えているわけではなくて、そういう写真が、家のどこかに飾ってあった。
「……そうなんだね。ここに座るんだけど、乗れるかな」
慧は、サドルの後方の網を軽く叩く。そこに座るのだと、漸くわかった。
「頑張ります」
今日砂浜に行かないと、イベントが阻止できない。
返事をすると、慧が不安そうな笑みを浮かべた。
「乗れる? 乗ったら、俺の腰のあたりを、ちゃんと掴んで」
自転車に跨った慧から、そう指令が出る。私は言われた通り、荷台に跨ってみた。
「足を、地面から離して、タイヤ脇の棒にかけるんだよ」
「え、えっ、怖いです」
足を上げようとすると、体がふらつく。一瞬だけ足が浮き上がり、また地面についてしまった。
「ちゃんと掴めば、落ちないから」
「こう、ですか?」
両手を慧の腰に回し、しっかりと捕まる。それから、そっと両足を離した。足が離れると、やはり上体がふらついて、腕に力が入る。力を入れて掴むと、確かに体はやや安定した。
「じゃあ、進むよ」
慧の合図のあと、自転車が、滑り始める。
生身の体が、風を切って走る。
速度を上げ、下げ、左右に曲がる。しかもそれは、自分の意思と無関係に行われる。
怖い。流れる景色は、目には入るけれど、頭には入ってこない。私はさらに腕に力を込め、慧の背に顔を寄せた。甘く爽やかな香りに集中し、恐怖心に耐える。
「着いたよ」
「ああ……ありがとうございます」
どのくらい時間が経ったか、全然わからなかった。やっと自転車が止まったとき、そこは、見覚えのある浜辺だった。
慧の腰から、手を離す。握りしめていたワイシャツが、しわくちゃになってしまった。
「藤乃さん、怖かった?」
「はい、少し」
少しどころではない。
「ごめん、まさか二人乗りをしたことがないなんて、思わなくってさ。俺は小さい頃、よく妹を乗せて走ってたから」
「そうですか。凛ちゃん、お元気ですか?」
「元気だよ。夏はプールに行くんだって、張り切ってる」
そう言う慧の顔は、妹が可愛くて仕方のない兄だ。自分の兄と重なるものがあって、温かな気持ちになる。
警備員に学生証を見せ、砂浜に足を踏み入れる。
学園管轄の場所なので、許可を得た学生であれば、砂浜への出入りは自由だ。まだ海開き前とあって、浜辺には誰もいない。
「普通の靴で来ちゃった。砂が入り込むね」
「本当ですね。歩きづらいです」
真っ白な砂を、ローファーで進む。足元が沈み、中に砂がざらりと入り込んでくる。
「嫌だなあ。俺、靴を脱いでいいかな」
そう言うなり慧は、靴から足を抜く。靴下も外し、素足になる。
砂の上に靴を置いて、慧はスラックスをたくし上げた。意外と筋肉質な、ふくらはぎが露わになる。
「ああ、気持ち良い。砂浜の感触って、けっこう好きなんだよね」
「なら、私もそうします」
彼にならって、靴を脱いでみる。
制服に素足なんて、人生で初めてする格好だ。
太陽の熱を含んだ砂を、裸足で踏み締める。暑くて、さらりとした感触が、指の間をくすぐる。
目の前に広がる、青い空と、青い海。爽やかな気分だ。
靴を置き去りにして、私たちは歩き始める。砂はさらさらと頼りなく、踏み込むたび、足が沈み込む。
わざと足を沈ませ、その不思議な感触を楽しみながら歩く。右足、左足、ゆっくりと。すると、踏み込んだ足が、うまく抜けなかった。
「わあ」
バランスを崩し、間抜けな声を上げて、ゆっくり前に倒れ込む。
地面は砂だから、何も痛くない。ただ膝と手を地面について、転んでしまった。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「歩きにくいよね、砂の上は。はい、つかまって」
差し出された手を握ると、慧が引っ張ってくれる。立ち上がった私は、空いた片手で膝の砂を払った。
「また転んだら困るから……このまま、繋いでいようか」
「ありがとうございます」
まるでパーティでエスコートする男性のように、慧は私の手を引き、砂の上を進む。
父や兄が、こうして先導してくれることはあるけれど。家族以外の男性に手を引かれるのは、初めてだ。
規則正しい、波の音。空から降ってくる、海鳥の鳴き声。砂を踏む私たちの足音は、微か。
「なかなか、砂浜も広いから、見つからないね……」
慧は立ち止まり、腕で額の汗を拭う。私も、ポケットからハンカチを取り出し、額に当てた。砂浜は、遮るものがない。傾き始めてきた太陽の、少し緩んだ日差しでも、直接浴びればまだ暑い。
休憩しながら、辺りを見回す。きらり、と視界の端で、何かが光った。
「慧先輩、あれは?」
光った方を指す。慧は目を細めて眺め、「行ってみようか」と私の手を引いた。
「あった!」
砂に埋まる、きらりと光る、水晶玉みたいなガラス玉。ゲームの中では、これをきっかけに、樹が将来を占うというイベントが起きる。もちろん占いは「ごっこ」で、遊びにかこつけて樹がヒロインに想いを伝える。
詳しく思い出すのはやめた。考えるだけで、恥ずかしさが込み上げてくる、
慧がそれを拾い上げ、こちらへ差し出す。私は、ガラス玉を受け取った。光に透かして見ると、虹色の模様が、反射して浮かび上がる。
「……綺麗」
「本当だね。ゲームで見たのとそっくりだ」
暫く眺めてから、慧にそれを返す。彼はスラックスのポケットに、ガラス玉をしまった。
その後も砂浜を歩き回り、メッセージボトル、おもちゃの指環も、なんとか回収する。
「骨が折れたね。なかなか」
「ええ。疲れました」
おもちゃの指環を、慧がポケットに入れる。これでアイテムは、全て私たちが手に入れた。
「ちょっと休憩したいな」
慧の手が、するりと離れる。
海風が、手の汗を乾かしていく。結局ずっと手を繋いでいたことに、それで気づいた。掴むもののない手のひらは、なんだか、心許ない。
慧はそのまま、砂の上に座り込む。私はポケットから出したハンカチを、砂の上に広げた。
「慧先輩、制服が汚れますよ」
「俺はいいよ。でも、藤乃さんが汚れるのはだめだね。やっぱり、移動しようか」
「いえ、ハンカチを敷いたので構いません」
ハンカチの上に腰を置き、慧の隣に座る。まだほのかに温かな砂の熱が、じわりと伝わってくる。
目の前に広がる水平線。太陽は今沈もうとしていて、濃い橙色から、頭上に向かって深い藍色にグラデーションがかかっている。頭上の藍色の空には、早くも一番星が光っていた。
「空が綺麗ですね」
空全てが大きな虹のような、幻想的な光景。
「そうだね」
慧の眼鏡にも、その七色が映り込んでいる。
「これで、明日のイベントは起きないのかな」
「朝になって、アイテムが復活するような奇跡がなければ」
「……それは、自信がないな」
早苗に先回りして、イベントに必要なアイテムは拾った。私たちの予想通りなら、これでもう、樹と早苗のイベントは起こせないはずである。
「確かめられたら良いのですけれど」
「……確かめに来る?」
「できますか? そんなこと」
膝の間に腕を差し込み、背中を丸めた楽な姿勢のまま、慧がこちらを見る。
「明日も来れば、見られると思うよ。あの二人は目立つから」
「なら、来ましょう」
「藤乃さんがいいなら。ついでに、朝早く来ようか。もしアイテムが復活していたら、また拾えばいい。場所もわかったし」
遠巻きにして、早苗と樹の様子を見守る。これでアイテムがなく、早苗と樹のイベントが起きなければ、私たちの目標は、ひとつ達成される。
私と慧の間が、視線で結ばれる。慧の目に宿るのは、好奇心と、期待感。私もきっと、同じ目をしている。
「もう、日も沈むね。そろそろ帰らないと、お迎えの人が心配するかな」
「山口は何も聞かないと思いますが……そうですね。あんまり遅くなると、母が心配するかもしれません」
来た時と同様、自転車に二人乗りをする。慧の腰にしっかり手を回すと、落ちそうな恐怖心は、だいぶ和らぐのだ。
二回目なので、少しは心の余裕を保って、自転車が走り始める。
「夏休みに入ったら、なかなか会えなくなりますね」
慧の背中からは、太陽と砂の匂いがする。
「そうだね」
目の前に背中があるから、声の響きが、いつもよりも大きい。
「寂しくなるよ」
風に乗って、慧の声が運ばれてくる。
「私も、寂しいです」
夏休みなんて、待ち遠しいだけのものだった。
それが、夏休みが来ないでほしい、寂しいと思う日が来るなんて。
「でも、とりあえずは、また明日」
「はい、慧先輩」
自転車を降り、同じ潮の香りを漂わせながら、私たちはそれぞれの家に帰った。