4 教室はふたりの甘い世界
「えーと……」
片手には、メモ帳。もう片手で、ひとつひとつの背表紙を確かめる。私は、昨日メモした小説を、探していた。
それにしても、「悪役令嬢」が登場する「ゲーム的な小説」だけで、こんなにたくさんあるなんて、すごい。それが学園の図書館にこれだけ並んでいることも驚きではあるが、この世には私の知らない世界は、いくらでもあるのである。
「これだわ」
メモした小説のひとつを発見し、私は抜き取った。どの書架だったか確認してから、本を片手に移動する。
本を読むなら、据え付けの机や椅子を使うように。
先ほど示された図書室のルールには、そう書かれていた。当たり前のことだ。それに従って、読書に向いたスペースを探す。
できるだけ、人目につかなそうなところ。
図書室の奥にある、小さな机。椅子は壁に面して置かれており、狭くて、座りにくい。
不自由だからこそ、ここなら、誰も来ないはずだ。
私は安心して腰掛け、本のページをめくった。
異世界、貴族女性、学園、転生。
要素は同じなのに、その展開は、昨日読んだものとは全然違った。
冒頭。学園の卒業パーティとやらで、いきなり王子から婚約破棄された悪役令嬢が、追放先で内政に力を入れ始める。
前世の知識によって、廃れた領地がどんどん栄え、力をつけていく。逆に、王子を射止めたヒロインは、結婚後も男性との関係に溺れ、国庫を食いつぶして行く。
力をつけた悪役令嬢が、国の害悪でしかないヒロインと王子を糾弾し、武力蜂起。ヒロインと王子は処刑され、密かに見初められていた第二王子と、悪役令嬢は結婚。
さらりとした描写ではあったが、しっかりとヒロインの首が斬り落とされたのを見て、私は手早くラストまで読み流してページを閉じた。
早苗と重ねて読むには、いささか過激な結末であった。処刑までは望んでいない、と思う気持ちと、清々した気分とが入り混じる微妙な読後感を味わいつつ、書架に戻る。
「こっちは……」
穏やかそうな表紙のものを選び、手に取る。そもそもが創作なのだから、この手の話に現実感を求めるのは間違っている。それでも、もう少し現実に近い設定のものを読みたい。
「藤乃さん」
「はいぃっ!」
びくん、と肩が跳ねた。取り落とした本が、絨毯の上にぱさりと落ちる。
ああ、開いたページが下になっちゃった。本を雑に扱うと痛がるよ、と私に忠告したのは、誰だっただろうか。
慌てて屈む私の視界に、緑のマークが入った上履きが映り込む。
「ごめん、いきなり声かけて。大丈夫?」
差し出される、手。私は、片手を床についたまま、その手を見つめた。
「……起こしてあげようかって、意味」
「あぁ! ありがとうございます」
その手を取ると、ぐっと力強く引かれる。意外な力強さを感じて、また、妙な緊張感を覚える。
すっくと立ち上がってから、私は、慧に頭を下げた。
「そろそろ閉館だからさ。……借りてく? それ」
慧の視線が、私が持っている小説に注がれる。表紙には、美男美女のイラストと、ポップな文字。
「意外だな」
こんな本を読んでるって、思われた……!
恥ずかしくなって後ろ手で隠すと、慧は僅かに目を開け、それからはにかんだ。頬に、えくぼが現れる。
「隠さなくていいのに。誰がどんな本読んだって、それは自由だよ」
「でも、意外って……」
「それは失言だった。ごめんね。藤乃さんみたいな、真面目そうな人が、そういう本を読んでるって、意外だからさ。いいんだよ、俺は悪いとは思ってない」
フォローの言葉を重ねられると、余計に、恥ずかしさが増す。私は俯いて、自分の足のつま先を見つめた。
「むしろ……ほら、そのくらいの方が、人間味があって、親しみやすいよ」
「え?」
つま先から、慧の顔に視線を戻す。まるいえくぼが、まだその頬に浮かんでいる。
「藤乃さんみたいな完璧そうな人が、そういう大衆的なものを読むのって、すごくいいよねってこと」
なんか、褒められてる……?
なんで褒められているのか、よくわからなかった。私は隠していた小説を戻して、その表紙を見る。大衆的なイラスト。丸みを帯びた可愛らしいタイトル。
私の父がこの本を見たら、鼻で笑って、「しまいなさい」と言うだろう。
だけど慧は、小馬鹿にせず、褒めてくれさえする。
やはり図書室は、心の広い場所だ。
「……ありがとう、ございます」
自分で思っていたよりも、その声はぼそぼそとして、素っ気なく聞こえた。
「そろそろ閉館だからさ。声をかけたんだ」
「そうでしたか! すみません……」
今度は場違いに大きな声が出て、私は肩をすぼめる。
「もう他の人はいないから、大丈夫だよ」
さらりと笑って、慧は私の失態を流した。
その笑顔に、自然と肩の力が抜ける。
「それよりも、貸出手続き、していく?」
「……はい」
その雰囲気に飲まれて、私は頷いた。
借りてしまった。
鞄の中には、今まで家で読んだこともない、大衆的な恋愛小説。父に見られたら、きっと、信じられないものを見るような目で見られる。母は、言わずもがな。だからこれは、家族に気づかれてはいけない。
そわそわしていたら怪しいから、努めて鞄の中を気にしていないふりをして、車に乗り込んだ。
「おかえりなさい、お嬢様」
「ただいま、山口」
柔らかな座席に腰を落とし、私は両脚を脱力させた。こうしてリラックスすると、自分が思いの外、疲れていたことに気がつく。
「お疲れですか」
「そうね」
何に疲れたのか、自分でもわからない。
早苗に婚約者を取られかけている女として、好奇の視線を浴びることか。私たちの婚約はそれほど公にはなっていないものの、知っている人はいるだろうし、周りの視線はやはり気になる。
それとも、海斗の視線が気になって、一挙手一投足に緊張することか。思わず早苗と海斗を眺めてしまうのに、見ていると怒られる。視線を無理やり逸らすのは、それだけでエネルギーを使う。
あるいは、初対面の先輩と知り合って、言葉を交わしたことか。
その全てか。
「よろしければ、紅茶を」
「ありがとう」
蓋つきのカップに温かい紅茶を注いで、出してくれる。ひとくち含むと、じんわりと広がる紅茶の香りに、強張った心が和らいだ。
帰宅してから私は、家族にばれないよう、ベッドの中で借りた小説を読みふけった。
今回のお話は、処刑エンドのような過酷さはなかった。天然な悪役令嬢が、本当に悪気なく、本来の攻略対象を骨抜きにしていくお話。前世の知識持ちのヒロインが、自作自演をして、それを攻略対象たちが糾弾してくれる。
読み終えると、ネットで本の感想を検索する。悪役令嬢の素直さに好感が持てる、ヒロインが墓穴を掘っていく様が愉快だった、などの共感できる感想をひとしきり読み漁り、満足して部屋の電気を消す。
私には、こんな風に振る舞うことはできなさそうだわ。
本を読むたびに「ヒロインざまぁ」への憧れが沸き起こり、その度にそうして否定するのが、定番の思考パターンになっていた。何冊か本を読んでわかったのは、「悪役令嬢」たる主人公たちは、それはそれで能力が高く、人間的な魅力を備えているということ。
私には、海斗や早苗に張り合えるほどの魅力はない。
だから、やっぱり、後ろ暗い欲望は創作にとどめておくべきなのだ。
「おはよう、山口」
「おはようございます。……おや」
山口が困った顔をして、ロマンスグレーの髪を撫で付ける。白い手袋と、灰色の髪のコントラストが、朝の陽射しの中で眩しく光る。
眩しすぎて、目が痛い。
「お嬢様、今日も寝不足ですか? お疲れのご様子ですね」
「そうなの……考え事をしていたら、眠れなくって」
私は、「悪役令嬢」にもなれない。
なにしろ、海斗に嘲笑されるくらい、地味だし。
勉強だって、努力しても、程よく遊んでいるはずの海斗や早苗にも及ばないし。
……そんなことばかり考えていたら、どんどん気が滅入って、なかなか寝付けなかった。
「考え事、ですか」
山口は、いつものように詮索せず、穏やかに微笑む。
私は、鞄の上から、図書室で借りた本の存在を確かめる。
物語の中では、自分に似た状況から始まる「悪役令嬢」が、最後は爽快なハッピーエンドを迎える。
その結末を、清々しい読後感を思い出すだけで、少しは気が紛れる。
「ほどほどになさってくださいね」
「ええ……ありがとう」
聞かれたところで、今の私の口からは、泣き言しか出てこない。
こうしてそっとしてくれる山口の態度が、私には、ありがたいのだった。
山口といつものサインを交わし、きらきらと朝日に輝く噴水の隣を抜けて、校舎へ向かう。
いつもと同じ朝の景色、楽しげな学生、爽やかな風紀委員の挨拶。そして相変わらず、気分の重い私。
教室に着いたらまた、早苗と海斗のやり取りを目にしなければならない。
「おはよう」
「おはよー」
挨拶の飛び交う中で、できるだけ目立たないよう、そっと席につく。
教室が活気づくのは、早苗と海斗が、同時に教室に入ってきたから。ふたりの周りに、自然と人が集まる。
「早苗、チーク変えたよな」
海斗がさらりと、早苗の頬を指の背で撫ぜる。思わず見てしまったのは、女生徒たちが、例のごとく甘い歓声をあげたからだ。
「ええ、何でわかるの? すごいね、千堂くん。男の人なのに、そういうのわかるんだ」
頬を触られたというのに、動じない早苗。海斗は微笑み、頷く。
「母が化粧にうるさいからさ」
海斗の母は、プロの歌手だ。テレビには出ないが、コンサートなどには引っ張りだこの、実力派。私も、両親と共に会ったことがあるが、声が素晴らしいのはもちろんのこと、息を飲むほどの美人だった。
その血を引いている海斗が美形なのも、当然の話である。
「へえ。千堂くんのお母さんって、歌手なんでしょう? 楽しみだなあ、勉強会のときに、会えるの」
「あれ、話したっけ? 悪いな、その日は、親はいないんだ」
「そうなの? 残念」
海斗と早苗の距離が、みるみるうちに進んでいる。会話からそれが察され、きりきりとなる胸を、服の上からそっと押さえた。
授業中、目配せをして微笑み合う早苗と海斗。休み時間、どちらともなく、寄り添って触れ合う姿。昼食も一緒に、友人にもふたりで囲まれる。
彼らの周りに常に人がいるのもあって、どうしても意識してしまう。目の端に入り込む彼らをできるだけ意識の外に置きながら、私は俯き、じっと耐えていた。
こうして耐えるのは、慣れている。
海斗と早苗が睦まじいのは、今に始まった話ではない。親しげなふたりをできるだけ意識せず、大人しく過ごしていたのは、今までだってそうだ。
しかし、海斗が婚約破棄をしたくなるほど、彼女に入れあげているとわかると……その光景を目にするのは、あまりにも辛くて。私は早く放課後になることを、心から祈っていた。