38 それは嫉妬らしい
「ごめんね、本当に。ちょっと、クラスの手伝いをしててさ」
「クラスのお手伝いですか?」
「そう。文化祭の準備をしていたから」
慧と並んで、廊下を歩き始める。私は、持っていた鍵を彼に手渡した。
「そうだったんですね」
「そう。俺も、今年度は後夜祭を目指さなくちゃいけないから」
慧が後夜祭を目指すのは、私のためだ。
あの場で、早苗と海斗のイベントを発生させたい、私のため。
「ありがとうございます」
そう言うと、慧は「俺たちのためだからね」と笑ってくれた。
頬に浮かぶまるいえくぼ。心が緩む。
慧と話しているときには、何よりも心が安らぐ。先ほどの樹との対比で、ますます、今の穏やかさが際立った。
「藤乃さんが鍵を取りに行ってくれて、良かったよ」
「そうですか?」
「うん。俺しかいないと、早く行って図書室を開けなきゃ、って焦るんだ。どうせ、ほとんど誰も来ないんだけど」
慧の言う通り、今日も、図書室に向かう廊下には誰もいない。慧が鍵を開け、私たちは中に入った。
照明をつけ、カーテンを開ける。明るい光が差し込み、見慣れた図書室の風景になった。
「もったいないですよね。こんなに、居心地の良い空間なのに」
「俺たちにとっては、ね。そうは思わない人ばかりなんだ」
慧はカウンターの上に、いつもの札を出す。それから、小部屋に入った。
「鍵の場所、わかりやすかった? 生徒会室、散らかっていたでしょう」
「そうなんです。さっき、図書室の鍵を取りに行ったときに……」
慧に、先ほどの樹との出来事を、かいつまんで話す。
「……ということがあったんです」
私は肩をすくませ、はあ、と小さなため息をついて見せる。
「へえ……それは、おかしいね。今まで、そんな親密な関係じゃなかったんでしょ?」
「もちろんです。そんな、あんな距離で、話したことなんて、一度もありません」
レンズの向こうの慧の目つきは、やけに鋭い。咎められている気がして、私は否定した。
「藤乃さんが呼ぶ前に、先輩は、何か言ってなかった?」
「呼ぶ前、ですか?」
樹とのやりとりを、思い返す。あのとき樹は、私に顔を寄せて。
「『でも』って、何かを言いかけていました」
慧は、顎に手を添える。軽く俯き、考え込む表情。
「……『でも、君の香りの方が好き』かな」
「え?」
「え? って、藤乃さん、気付いてないの?」
レンズ越しの瞳に、漸く感情の揺れが見える。
「気付いてないの、って……」
何を?
私の鈍く回転する頭に、先ほど慧の言った、「君の香りが好き」という台詞を思い出す。私はそれを、聞いたことがある。
「あっ、イベント! 同じですね!」
思い至れば、あれは、ゲームのイベントそのもの。
樹の台詞も、樹の行動も、ゲーム内で主人公にして見せたものと同じだ。
「藤乃さん……」
彼の声には、哀れみが滲んでいる。
「慧先輩の頭の回転が、速いんですよ! 全然、気がつきませんでした。だって、どうして私と樹先輩の間で、イベントが発生するんですか」
「うん、それが不思議だよね」
あくまでもヒロインは早苗であり、私は脇役。その立場は、入れ替わるはずがないのに、なぜ。
「実はイベントは、相手は誰でもいい……なんてこと、あると思いますか?」
「横取りできる、ね。可能性はあるよね、実際、こういうことが起きたわけだから」
私の思いつきに、慧も同意する。
「今日は途中で止めてしまったけど……私が樹先輩とのイベントを横取りしたら、もう早苗さんは、彼とのストーリーを進められないかもしれませんね」
イベントは、1つ1つ積み重ねていくもの。早苗は今まで上手く積み重ねて来たようだけれど、私が奪ってしまえば、さすがにもうイベントは起こせないだろう。
素晴らしい思いつきだ。
早苗が樹のストーリーを進めているのはわかっていたのに、どうしていいのかわからず、やきもきしていたこの頃。
新たな光明が見えて、私は嬉しくなる。
「そう……だけど」
ところが、慧の言葉は、歯切れが悪い。
「いや……何でもない。これも、俺たちのためだから」
顔を逸らされると、レンズが反射して、表情が伺えなくなる。
「……慧先輩?」
「何でもないよ。そうとわかったら、続きを見ないとね」
「ええ。そうしましょう」
ゲームを起動し、樹のデータの続きを選ぶ。
ゲームの中では、樹との香水イベントが終わると、夏休みに突入する。次の大きなイベントは、樹と行く海水浴らしい。
イベント用に、効果のもっとも高い、高価な水着を選択する。場面は、海水浴場に切り替わった。
「あら……これ、すぐそこじゃないですか?」
「そうなの?」
「そうですよ。私、学外活動では、ここでビーチバレーをしました」
それは確かに、見覚えのある場所だった。
「へえ、そうだっけ。ゲームで見たはずだけど、もう覚えてないや」
興味深そうに、慧は画面を眺めている。
そんな彼に、私はコントローラーを手渡した。
「お願いします」
「任せて」
相変わらず、慧は手際良く、ミニゲームをクリアする。
真剣な眼差し、緩んだ首元、器用な手指。ただゲームをしているだけなのに、変に見入っていた自分に気付いて、私は視線を引き剥がす。
「はい、藤乃さん」
「ありがとうございます」
高得点を叩き出した慧から、コントローラーを受け取る。
『おれ、海って好きなんだよね。……あれ?』
笑顔だった樹が、下を見下ろす。
「砂の中に落ちていたものは、ですって。どれにしましょう」
画面には、【メッセージボトル】【おもちゃの指環】【綺麗なガラス玉】という選択肢が表示されている。
「どれでもいいんじゃない? きっと、全部見るんだろうから」
「そうですね。なら、メッセージボトルから」
砂に埋まっていたメッセージボトルを、樹が拾い上げる。蓋を取ると、中には手紙が入っている。
『ラブレターだね、これ。えーと、なになに……』
樹が読み上げるのは、どうやら、ラブレターらしい。片想いしていた相手が、遠くへ行ってしまった。離れてしまった想い人に、もう気持ちを伝えることはできない。だから、想いを海に流して清算する、という内容。
そしてどうか、これを拾った人は、自分の想いを伝えてください、と締め括られている。
「切ない手紙ですね」
「……そうだね。でもこの人は、幸せかもしれないよ。物理的に離れてしまったら、諦めがつく」
「どういうことです?」
「物理的な距離以外にも、相手との距離って、いろいろあるからさ」
慧は、画面を眺めているようで、もっと遠くに目が向いている。
「それは……」
「ああ、ごめん。つい。藤乃さんは気にしないで」
そう会話を切られると、それ以上質問を投げかけることができない。私は言葉を飲み、画面に視線を戻す。
『ふうん。想いを伝える、かあ。おれにはわかんないな。言いたいことを我慢するなんて、向いてないから』
樹は、主人公の顎に手を添え、軽く上向かせる。
太陽を背にし、きらきらと輝く光を背負った、眩い樹。口づけしそうな距離に顔を近づけ、ひゅっと目を細めて、白い歯を覗かせる。
『好きだよ。きみのこと』
『あたしも』
『……ふふ。わかんないなあ。本気で言ってる?』
顔を離した樹が、頬を染めて笑う。
『本当に好かれてるのか不安になるのは、君だけだよ。おれ……おかしいな、やっぱり。君のせいだ』
その照れ笑いを最後に、イベントが終わる。
私は、静かにコントローラーを置いた。
「藤乃さん、大丈夫? 今回は最後まで見たんだね」
「はい……あの、横取りするつもりだったので」
慧が、物珍しそうに言う。
いつもは途中で目を背けるイベントを最後まで見たのは、私がそれを、再現しないといけないからだ。イベントを「横取り」することは、私が樹と、それを再現することに他ならない。
それにしても、見ていてつらかった。
見知ったふたりがあんなに顔を近づけて、想いを伝えあう光景といい。飄々とした樹の浮かべる、ありえないほどに照れた顔といい。
「ただ、ちょっと心が限界ですね」
私は胸元に手を当てる。あの甘やかなやりとりは、見ているこっちが恥ずかしくなるのだ。
「そんな状態で、藤乃さん、あのイベントをこなせるの?」
「それは」
ぐ、と俯く。慧の疑いも、もっともだ。
「……心の準備をしておいたら、きっと」
「心の準備? どうやって?」
慧の、畳み掛けるような質問。
焦りで頭が無駄に回転して、うまく考えられない。
「練習すれば……」
練習なんて、どうやってするというのか。
言ってから、思いつきなんてどうしようもないな、と思った。
「誰と?」
「誰と、って……そうですよね」
樹とヒロインのイベントを、事前に練習しておくなんて過激な頼みは、誰にもできない。強いて言うなら、慧くらいだ。
「……頼めるのは、慧先輩、くらいしか」
「いいの? どういう意味かわかっているのかな、藤乃さんは」
「きっと」
言葉が途中で途切れ、顎が上を向く。慧の指先に、押し上げられたのだ。
爽やかで甘い香りが、鼻先を過ぎる。慧の香り。何か当たったと思ったら、もう慧と鼻が触れ合うほどの距離になっていた。
「あ、あの」
「『好きだよ。君のこと』」
震える慧の声。胸に迫るものがある。私は、声が全然出なかった。喉が突然、からからに渇く。
「藤乃さん」
「……」
「藤乃さん、せりふ」
目の前に慧がいるのに、なんだかそこに、焦点が合わない。頭の中に何もない。
「藤乃さん、これは無理だよ、絶対」
慧の顔が離れ、顔の前に新鮮な風が吹く。どこかへ抜けていた魂が、私の中に返ってきた。
「……だめですか」
渇いた喉から、かすれた声がやっと出る。慧の手が私から離れ、その手で自身の顔を覆っている。
「だめ。俺も耐えられない」
そのまま、深いため息をつかれる。
「そんなに……」
いつも認めてくれる慧に、ここまで否定されるとは。少しショックを受けたものの、ちょっと立ち止まって考えれば、だめだと言われるのは当然だ。
見慣れた慧の顔ですら、接近したら、恥ずかしくて何も考えられなかった。
「……そうですよね。今のは、『私も』って言うところでした」
落ち着いて考えたら、今、慧が再現したのは、樹と主人公のイベントだ。私が練習すればできると言ったから、練習を仕掛けてくれたのである。
ところが、実際やってみたら、頭が空っぽになって、何も出てこなかった。
親しくない樹を前にしたら、なおさら、うまくいくはずがない。
「やめよう。藤乃さんのそんな顔、俺は誰にも見せたくない」
「顔ですか?」
私は頬に手を当てる。自分の手のひらが、ひんやりと感じられる。
こんなに手が冷たく感じるのは、きっと頬が熱いからだ。もしかしたら、頬が真っ赤になっているのかもしれない。
「すみません、お見苦しいものを」
「いや……俺はいいんだ。ただ、人に見せるのはやめよう? 横取りしなくても済むような、他の方法を考えよう」
「そう言われても、他の方法なんて」
ぱっとは思いつかない。
こうしている間にも、生徒会室で、早苗と樹のストーリーが着々と進行しているのだ。それを止める方法なんて。
「考えよう、藤乃さん。夏休みまで、まだあと少しあるから。もっと考えて、どうしても無理だったら、横取りすることにしようよ」
「わかりました」
私が樹と早苗の間に割り込むのは、結局は、私たちのため。慧がやめようと言うことを、無理に押し通す道理はない。
頷くと、慧は微笑んだ。頬に浮かぶえくぼ。
「……良かった。藤乃さんが、どうしてもイベントをしたいって言ったら、どう止めようかと思った」
「今ので、無理だってわかりましたよ」
「うん。良かった。ほっとした」
すっと肩が落ちる様子から、慧もずいぶん、力が入っていたのだとわかる。
「片付けようか。時間だ」
そう言う慧の雰囲気は、すっかりいつも通りになっていて。
「はい。ありがとうございました」
私もいつも通り、穏やかな気持ちで片付けを始めるのだった。




