33 私、悪役になります
「お嬢様、また寝不足ですか」
「そうなの……山口の目は、お化粧でも騙せないわね」
目の下にクマがあるということで、今朝はシノに、厚めに化粧された。我ながら上手に隠れていると思ったのに、車に乗り込んだ途端、山口には見破られてしまう。
「長いお付き合いを、させていただいておりますから。ご自愛くださいね」
そう強く咎めるでもなく、どちらかと言えば案じる雰囲気で。山口は柔らかく言い、ハンドルを軽く叩いた。
揺れもなく滑り出す車。流れる車窓の風景。
私は、昨日ベッドの中でずっと巡らせていた思考を、思い出す。
家同士の婚約破棄を成立させるためには、私の父に海斗と早苗の様子を見せて、信じてもらう必要がある。それも、「私に非はない」と、はっきりわかる方法で。
イベントをうまく利用すれば、きっとできるはず。まずはゲームを進めて、情報を集めるところからだ。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
「ありがとう。行ってくるわ」
山口と交わす、いつものサイン。
私は車を降り、門を抜け、噴水の脇を通る。毎朝通る、変わらない道。しかし今日は、何だか足取りが、力強かった。
漸く、進むべき方向がわかった。父も海斗も関係ない、私たちのために、進むべき方向が。
その方法も、ぼんやりとではあるが、うまく行きそうな気がする。
そうなったら、お腹の底から、エネルギーが湧いてくるような気持ちになった。
「おはよう、アリサさん」
「藤乃さん、おはよう」
アリサとの朝の挨拶は、もう習慣になった。
彼女は誰に対しても優しいので、こちらも安心して声をかけることができる。
席について朝の支度をしていると、いつものように、始業間際に海斗と早苗が入ってくる。
腕を組んで、睦まじげに。
「早苗、髪に葉っぱがついてるよ」
「え?」
「……ほら」
海斗が自然に早苗の髪に触れ、葉っぱを取って見せる。
「ほんとだ、ありがとう」
「綺麗な髪だから、葉っぱも付きたくなったんだろう」
なにそれ、と言いたくなる甘い台詞。
きゃあ、と上がる歓声。
父だってあの様子を見れば、海斗が早苗に熱を上げていることが、一目でわかるはずだ。だから、何とかして、父に見せたい。
あんまり見つめていると、また海斗に怒られてしまうから、私は視線を逸らす。
「楽しみだなあ、また海斗の家に行くの」
「今度は、僕の母に紹介するよ」
……親にも、紹介するんだ。
視界には入らなくても、彼らの会話は耳には入ってくる。
早苗と海斗の仲は、着々と縮まっている。
きっとそれは、早苗の思惑とは、裏腹に。
「うん、楽しみ」
明るい声で、早苗は言う。
彼女は内心、どう思っているのだろう。
彼女の思惑を知った上で早苗を見ると、驚くほど巧みに、その本心を隠していることがわかった。
海斗といるときの何気ない表情、言葉からは、本当は彼女が海斗ではなく樹のルートに入りたいなど、全くわからない。
言われなければ、彼女は海斗に心から思いを寄せているようにしか、見えないのだ。
演技力なのか、割り切りなのか。
早苗の振る舞いに感心しているうちに、1日は過ぎて行った。
「こんにちは」
「……こんにちは、藤乃さん」
図書室に入ると、穏やかな空気が出迎えてくれて、漸く私は肩の力が抜ける。
慧はいつものようにカウンターのところにいて、本を広げて読んでいた。
「何の本ですか?」
「これ? 紅茶の本だよ」
「紅茶……」
私の頭に浮かんだのは、シノの顔である。紅茶といえば、シノ。彼女は茶葉についての理解が深くて、いつもいろいろと教えてくれる。
「俺のクラスは、喫茶店をすることになったからさ。ちょっと興味が出て」
「喫茶店、ですか?」
「そう。……ああ、文化祭の話だよ」
私は納得して、頷いた。
慧のクラスの、文化祭の企画が、喫茶店に決まったということらしい。
「皆いろいろお茶の銘柄の話をしていたんだけど、俺、よく分からなくてさ……藤乃さんも、やっぱり、お茶には詳しいの?」
「私は、それほど……侍女が詳しいです。私はよくわからないまま、美味しい美味しいと飲んでいるだけで」
シノが教えてくれたことは覚えているものの、私自身が詳しいわけではない。
そう答えると、慧は「なるほどねえ」と言ってから、今開いているページの1箇所を指差した。
「かつて、カフェの店員っていうのは、男性がしていたんだって」
それは、喫茶店の歴史について書かれた文章らしい。慧の示す部分を覗き込むと、たしかに、そう書かれている。
「だから俺たちのクラスは、執事喫茶なるものをやるんだってさ」
「執事喫茶……?」
「そういうの、今街中で流行ってるらしいよ」
慧は本を閉じ、はあ、と浅くため息をつく。なんだか、憂鬱そうだ。
「嫌なんですか?」
「まあ……今年も人前に出ないで、裏方でやろうと思っていたからさ。男子生徒全員が給仕って言われたら、俺だけ何もしないわけにはいかない」
「……なるほど」
文化祭がどういうものなのか、よくわからない私は、なんとなく相槌を打つ。兄のを見学に来たことしかないので、今ひとつイメージが浮かばない。
「藤乃さんのところは?」
「決まってません、まだ……」
「そう。決まる前に、続きを知っておかないとね」
慧は、本を鞄にしまった。そして、カウンターの奥へ向かう。
その向こうは、私たちの秘密のゲーム部屋。
「久しぶりに、続きをしようよ」
「……はい!」
テスト後も、何かとごたごた続きで、ゲームをする時間が取れなかった。
作戦を練るためにも、未来を知りたい。
慧に続いて、私も部屋に入る。
「久しぶりですね」
「そうだね。……いろいろ、あったから」
いろいろ。
この間は、早苗や婚約破棄の話をしていた。その前は、慧の同級生が来た。それ以前はテスト勉強をしていたから、ここに来るのは、本当に久しぶりだ。
最近の出来事をふと思い返し、私は慧に伝えることがあるのを思い出した。ゲーム機の準備をする彼の背に向かって、「あの」と話しかける。
「ん?」
慧は動作を止め、こちらを振り向いた。柔らかな眼差し。
「お父様に話したんです、海斗さんに言われた、婚約破棄のこと」
「あ……そうなんだ。早いね」
慧はゲームのケーブルを床に置き、体ごとこちらに向ける。
「それで、どうだったの?」
「信じてもらえませんでした。お兄様も協力してくれたんですが、海斗さんが婚約破棄なんて言い出すはずがない、なんなら私に非があるんじゃないか……って、そんな感じで」
「……そうなんだ」
声のトーンが、一段落ちる。言葉を探すように、慧が視線を揺らした。
「なら、藤乃さんは……」
「でも私、好きでもない海斗さんとの婚約を、このまま続けるのは嫌で。お父様に信じてもらう方法を、考えたんです」
慧が視線を上げ、こちらを見る。レンズ越しに、真っ直ぐに目が合った。
「目で見たものは、信じられますから。早苗さんと海斗さんの間で、見てわかるイベントを起こしてもらって、それを父に見てもらえば、きっと信じてもらえます」
「藤乃さんのお父さん、手強そうだけど……やりたいことはわかるよ」
慧は、つるりとした顎を撫でる。視線を斜め上に動かし、また戻した。
「でも藤乃さん、彼女に、生徒会長との仲を取り持ってもらうよう、頼まれたんじゃないの?」
「それは……」
頼まれたのは、事実だ。
自分が海斗のルートに入って、好きにしているのに、樹と親密になりたいという、早苗の願望。
「早苗さんと海斗さんが離れたら、婚約破棄の話もなくなって、困るんです。だから、早苗さんには申し訳ないけれど、私は彼女の言う通りにはしません」
早苗と海斗のストーリーを進め、父に見せるタイミングを図る。
そして、私と海斗の婚約破棄がやむを得ないことを、父にも理解してもらう。
「断ります。ちゃんと」
それが私の、目指すと決めたところ。
「藤乃さんは、それでいいの?」
「はい。そう、決めたんです。……私たちのために」
慧は、私と一緒にいたいと言ってくれた。
私も、慧と一緒にいる時間は失いたくない。
慧のためにしたことが、私のためになる。
私たちのためになる。
そんな気持ちを込めて言うと、慧は微笑んだ。
「嬉しいよ」
頬に浮かぶ、薄くまるいえくぼ。自然な笑みに、私は気持ちが楽になる。
「なら、藤乃さんは、ヒロインであるところの彼女の思惑を、結果的に邪魔する形になるんだ」
「そうですね。早苗さんには申し訳ないけれど……父に信じてもらえるまでは、少なくとも」
慧が、おかしそうに、くすりと笑う。
「ゲームの展開を知っているから、ずいぶん厄介な存在だろうね」
「そう……ですね。まるで」
ヒロインの思惑を、意図的に邪魔する存在。それも、一筋縄ではいかない厄介さ。
そう、それはまるで。
「悪役みたい」
「俺も思った。藤乃さんは悪い人じゃないけど、彼女からしてみたら、悪役に近いよ」
物語で見た、悪役令嬢たち。
私はゲームでは、脇役でしかない。海斗の情報を垂れ流し、イベントのきっかけを作るだけの存在。
だけどここは現実で、私はゲームの先を知ることができる。
海斗との婚約破棄をする、そのために早苗には、海斗のルートに居続けてもらう。
早苗と相反する、私の目的。私は早苗にとって、迷惑で、邪魔な存在になるだろう。
そう。
私は、ヒロインの思惑を邪魔する、悪役になるのだ。
「悪役を全うしますね。私たちのために」
「そうだね。俺たちのために」
他の何でもない、「私のため」になる結末を目指して。
「そうと決まったら、しっかりゲームを進めないとね」
「はい。父に見せられるイベントが出てくるまで、進めてしまいたいです」
早苗と海斗のイベントを、父に見せられるのはどこか。まずはそれを確認してから、細かい展開を追っていきたい。
「それがいいね」
慧はゲームのセッティングを終え、コントローラーをこちらに渡した。
ゲームの展開はパターンが決まっていて、暫くステータス上げと小イベントの発生が続き、いくつかの選択肢とイベントが起き、ミニゲームの結果で内容が決まる。
前回はテストのところでゲームを終えているので、続きは夏休みからだ。
夏休み期間は特別に行き先が増えて、準備の合間に海斗とプールに行ったり、夏祭りに行ったり、遊園地に行ったり、花火大会に行ったりした。
「ずいぶん楽しんでいますね」
「羨ましい限りだね」
感想を言い合っているうちに、夏休みは終わる。そして、例の文化祭のイベントになった。
文化祭の出し物は3択で、【メイド喫茶】【お化け屋敷】【劇】から1つ選ぶ。
「慧先輩は、執事喫茶……? っておっしゃってましたよね」
「そうだよ」
「なら、メイド喫茶にしておこうかしら」
大した意味もなく、そう決める。
「好きにしなよ」
隣で慧は、何ともいえない表情をしている。緩めたネクタイの隙間から見える、首筋の白さが目を引く。
イベントは、慧が手慣れた調子で高得点を出す。
「ふうん、高得点だと、後夜祭に参加できるんだ」
「後夜祭、ですか」
「そう。毎年あるんだけどね。文化祭のあと、賞を取ったクラスが主になって、後夜祭が行われるんだ」
へえ、と私は相槌を打つ。
そういえば兄が、そんな言葉を言っていたこともあるかもしれない。
「……ああ、ここまでだ」
電子音が鳴り、深く息を吐いて慧が言う。閉館を告げるアラーム。私はコントローラーを起き、目頭を指先で解した。
集中して画面を見つめたおかげで、目が疲れてしまった。
「なかなか進みませんね」
「そうだね。そんな簡単にクリアできてもつまらないだろうから、仕方ないよ」
ゲームを片付け、部屋の電気を消す。図書室へ戻ると、窓の外は、濃い橙色に染まっていた。
慣れ親しんだ空の色。帰る時間だ。
「また明日、藤乃さん」
「はい。慧先輩、また明日」
心落ち着く、いつもの挨拶。
変わらないということは、こんなに嬉しいことなのだ。
変わらない慧との時間を過ごすために、私は確実に、海斗との婚約破棄を父に信じてもらわなければならない。
図書室で過ごした時間を反芻し、幸せな気分に浸るとともに、私は決意を新たにした。
私は、「悪役令嬢」になるのだ。
ゲームでは脇役だけれど、偶然知ったゲームの展開を利用すれば、それだけのことができる。
悪役として早苗の思惑を挫き、私にとっての幸せな結末を手に入れる。
それこそが、私の選んだ道だ。




