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3 放課後は図書室へ行こう

 どこかで芝刈りでもしているのか、風は青臭い香りを運んでくる。時刻は、ちょうど正午。真上にある太陽に照らされて、屋上の地面が程よく温まっている。


 ハンカチを床に敷き、弁当箱の蓋を開けると、草の香りに食べ物の匂いが混ざる。

 色とりどりのおかずは、冷めても美味しいように、シェフが考えて作ってくれるものだ。私は卵焼きを取り、口に運ぶ。ふんわりとした食感と、ほんのり甘い後味。


 霞ヶ崎学園の売りのひとつが、学園専属シェフの作る美味しい学食である。出す金額によってはちょっとしたコース料理にもなる学食は、舌の肥えた学生たちにも高評価を得ているという。


 だとしても、学食より、こっちの方がずっと美味しいわ。


 温かな紅茶のマグボトルを開け、ゆっくりと飲む。食後の温かい飲み物には、満たされた気持ちにさせられる。そうしながら私は、四月の最初に学食で食べた昼食を、苦々しく思い出した。


 中等部までは、皆持ち込みの弁当だった。それが高等部に上がると、学食という選択肢が増える。こぞって学食に向かう級友に紛れ、私も昼食をそこで食べてみた。

 混雑しているのに、あのとき私の隣には、誰も座らなかった。入学早々、早苗はたくさんの友人に囲まれていたと言うのに。美味しいと評判の学食は、噛んでも何の味もしなかった。


「……ご馳走さまでした」


 その点、ここで食べる食事は、人目を気にしなくて済む。

 食事を終え、下を眺める。噴水の周りに集う人、中庭で談笑する人。ぼんやり眺めていると、眠気が襲ってくる。


 本格的に眠くなる前に、教室に帰った。早苗たちの姿は、まだない。私は席に着き、次の授業の教科書を開く。


 定期考査では、学年で上位十名の生徒の名前が貼り出される。中等部の頃から、私はその掲示に、漏れたことはなかった。

 成績を保つためには、日々の勉強も、欠かせない。教科書をぱらぱらとめくりながら、前回の内容、次の授業の内容に目を通す。


「千堂くん、今度一緒に勉強しようよ」

「ええ? 早苗に手の内は明かしたくないな」

「いいじゃない、1位にはなれないの、わかってるよ」


 静かな教室が、急に騒がしくなる。生徒たちを引き連れて帰ってきた海斗と早苗。今年度に入ってから、順位のツートップを独占するのが、彼らだ。

 あの二人は容易には抜かせない。海斗が1位、早苗が2位。入学直後の学力試験、そして先日行われた1回目の定期考査でも、その順位は変わらなかった。

 学費を免除される特待生の資格を得ただけある。早苗の学力は、確かなものだ。


「私たちも、参加したいわ」

「いいわよ……ね、千堂くん?」

「ええ……いやあ、教えるなら、僕は早苗で手いっぱいだよ」


 やんわりと断られることすら、喜びらしい。頬を染めて手を取り合う女生徒たちに、私は冷ややかな視線を浴びせることしかできなかった。


 いけない、見てたらまた怒られちゃう。


 海斗の冷たい声を思い出し、窓の外を見る。流れる、白い雲。霞ヶ崎という名だけあって、運動場の遥か向こうに、海が見える。高台から見下ろす海は、それでも、青い。


「抜け駆けするなよ、俺も参加する」

「僕たちの勉強に、ついてこられないだろう、お前じゃ」

「ひどいよ、千堂くん。仲間に入れてあげようよ」


 白い鳥が、風を受けて舞っている。大きく円を描くのを、私は眺めていた。


 ひどいのは、誰よ。


 平静を装ってみたものの、胸がきりきりと痛む。

 海斗と出かける時には、いつもどちらかの親が同伴していた。海斗と個人的に会ったことなど、私にはない。


 一応、私は海斗の婚約者だったのだ。私に聞こえるところで、仲睦まじい会話をするなんて。あまりにも、心ない仕打ちである。

 それとも早苗は、私と海斗の婚約自体を、知らないのだろうか。海斗が婚約のこと自体を隠して、彼女と接している可能性も、なくはない。

 頬杖をついて、外を見ながら、止め処ない思考を巡らせていた。空の抜けるような青さは、胸のもやもやを紛らわしてくれる。


「教科書の46ページを開きなさい。今日は……」


 指示に従い、教科書やノートに、細々とメモを書き加える。私には、海斗や早苗のように、飛び抜けた才能があるわけではない。こうして書いたメモを何度も見返して、記憶に定着させるのだ。

 集中していると、授業の時間は、あっという間だ。疲れた、と伸びをする隣の男子を横目に、教材を鞄にしまう。授業は、苦ではない。休み時間より、よほど気が楽だ。


「早苗、今日の予定は?」

「帰るよ」

「それなら、僕と一緒に、生徒会に手伝いに行こう」

「えぇ、今日も? あたしには、生徒会は荷が重いよ」


 ここのところ毎日、海斗は早苗を連れて、生徒会に顔を出している。

 生徒会本部役員。学園を牛耳る、有力子女の集まりだ。海斗の知り合いが会長をしているので、入学したばかりではあるが、海斗は手伝いに駆り出されている。


 私も、誘われたんだけどね。


 中等部からの知り合いだったので、声がかかったのを、私は断った。生徒会は忙しいし、私は偉そうに前に立って、あれこれ指示するのは得意ではない。生徒会の権威を笠に着るのも、趣味に合わない。

 代わりというわけではないが、海斗が早苗を連れ回しているのを見て、そうなるなら生徒会の手伝いを承諾しておけばよかった……と少し後悔したのは、今更誰にも言えない話だ。


「良いわね、生徒会長とも、お知り合いだなんて」

「私も紹介していただきたいわ」

「お知り合いってほどでもないわよ。人使いが荒いんだから、あの人」


 はあ、と溜息をつく早苗。そのあけすけな言い方から、会長とも親密な関係を築いていることが察される。


「仲がよろしいのね~」

「羨ましいわ」


 両手を頬に当て、甘やかな息を吐き出す女生徒たち。


「早苗と会長は、仲良くなんてないよ。だろう、早苗」


 不服そうな海斗の言葉には、嫉妬の色が明らかににじみ出ている。それを察した女生徒たちは目配せをし、嬉しそうな表情になる。

 嫉妬の対象は早苗であり、彼女たちではない。それでも頬を染め、うっとりしている。おめでたい人たち。


 私はその集団を置いて、教室を出た。向かう先は、もう決めている。


「あ、連絡しておかないと」


 山口には、帰りが遅れる旨を、一報入れておいた。これで心置きなく、読書に専念できる。

 図書室のガラス窓の向こうには、相変わらず、人はいなかった。閑古鳥とは、このことである。せっかく、設備が整っているというのに、使われないようでは、宝の持ち腐れだ。


 私も、持ち腐れを担っていたひとりだけれど。


 何しろ、本なんて、欲しければ買ってもらえる。私の場合は、兄が学園時代に購入した本もたくさんあるので、勉強に必要なものは、大体家にある。それは私だけの話ではなく、この学園に通う子女の多くが似たような環境にある。

 中へ入ると、ブラインドの隙間から射す光に、埃が照らされてきらきらしている。悪くない眺めだ。私は、昨日と同じ書架へ、向かおうとした。


「あ、君」


 静かな図書室に、抑え目な声が響く。人が少なすぎて、ちょっとした話し声もよく響いてしまうらしい。


「そこの、1年生。昨日の」


 私は、辺りをそっと見回し、話しかけられている1年生がどこにいるのか探した。同学年の生徒がいるのならば、少々気まずい。


「君だって」


 がしっ。

 腕が掴まれ、前に進む私の勢いが削がれる。


「え?」

「あ、ごめん、手荒なことをして。でも君が、全然振り向かないから」

「私を、呼んでいたんですか」


 学園内で、先生以外の人に呼ばれるなんて、あまりないことだ。教室ならまだしも、ここは図書室。まさか自分のことだなんて、思いつきもしなかった。


 私の腕を掴んでいたのは、昨日会った、あの眼鏡の先輩だ。緑のネクタイが、生真面目にきっちり締められている。

 振り向くと、掴まれた手は、すぐに離される。


「図書室の利用は、初めてなんじゃない? いろいろ教えるから、本を読むのは、その後にしたらどうかな」

「構いませんけど……あなたは?」

「俺、図書委員なんだ。利用者に説明するのが仕事だから、一応」


 はにかむと、厚めのレンズの向こうで、切れ長の目がきゅっと細くなる。


「そうでしたか」

「そう。悪いね、しつこく呼び止めて」

「いえ……たしかに私は昨日、利用マナーを破ったようなので」


 何しろ昨日の私は床に座り込み、閉館時間は無視するという不良だった。私なりに事情はあったものの、それは図書室の使い方を破っていい理由にはならない。


 先輩と共に、カウンターに移動する。腰の高さの、やや低めな台の上に、利用マナーの書かれた紙が置かれている。私はそれに、一通り目を通した。静かに過ごす、飲食禁止、など。よくある決まりが並べられている。


「……理解しましたわ」

「よかった。貸出票は持ってる?」

「いえ……」


 図書室に来たのが初めてなら、当然、手続きに必要なものもない。彼は柔和な笑みを浮かべ、手慣れた手つきでカウンターの引き出しを開ける。


「作っておきなよ。減るものでもないし」

「……まあ、そうですね」


 親切な図書委員の申し出を、断るべき理由もない。差し出された紙の貸出票に、私は名前を書く。


「小松原、藤乃さん……ね」


 私の名字を見ても、先輩は、あまり驚いたそぶりを見せない。その反応に、私は内心、驚いた。


 小松原という名前は、学内でもそれなりに知れているという自負がある。小松原家という家系と、昨年度は生徒会長をしていた兄の存在があるからだ。


 わざわざそんなことを言う必要もないので、私は、黙って頷いた。


「君にだけ名乗らせるのも悪いね。俺は、松見、慧。よろしく」

「まつみ、けい先輩」

「下の名前でいいよ。苗字で呼ばれるの、あまり慣れてないから」


 差し出された手を、私は見下ろす。柔らかそうな手のひらだ。


「あ……握手は、嫌だった? ごめん」

「あ! いえ、わからなかっただけです」


 思わず握った手のひらは、見た通り、柔らかかった。海斗の手だって、数えるほどしか握ったことがない。もちろんこれは、ただの握手なんだけど、しっとりした感触に、妙に緊張してしまう。


「よろしくね、藤乃さん」

「こちらこそ……慧、先輩」


 海斗以外の男性を、下の名前で呼んだことだって、数えるほどだ。


 下の名前で呼ぶと、妙に距離感が縮んだように感じる。戸惑っていたところで、ぱっと手を離されて、やっとひと息つく。


「他にもわからないことがあったら、聞いて」

「……はい」


 慧は微笑むと、眼鏡を直して、手元の本に視線を落とす。私は不思議な気持ちで暫くその顔を眺めていたが、すぐに方向を変えた。

 ルール違反の生徒を排斥せず、こんな風に丁寧に説明をするとは。やはり図書室は、随分と心の広い場所らしい。そう感心しながら、今度こそ私は、昨日と同じ書架に向かう。

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