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29 父からの評価

「ただいま」

「お帰りなさい、藤乃ちゃん」


 帰宅すると、玄関ホールで、ちょうど母に会った。

 母は、両手で大きなクッションを抱えている。花柄の刺繍が入っていて、かわいい。あれは、向日葵だ。


「それは?」

「書斎に置く、クッションよ。夏になるから、替えておこうと思って。今日は帰りが早いみたいだから、ご飯の前に、ね」

「そっか」


 書斎とは、父の仕事兼趣味の部屋だ。大きな本棚がたくさん並んでいる、秘密の部屋。

 いろいろと仕事上の書類もあるらしく、許可なく入室できるのは、母だけだ。


 もちろん、父がいるときには、私たち家族も入ることができる。あのクッションは、ソファの片側に置かれているものだろう。


「今日は、お父様は早いのね」

「そう。夕飯を、一緒に食べましょう、って。桂一くんも早めに帰ってくるわ」

「ただいま」


 母の言葉に合わせたかのようなタイミングで、兄が帰ってくる。


「おかえりなさい」

「藤乃も、今帰ってきたんだね」

「ええ」


 白いシャツに、紺色のチノパン。こういう何気ない格好が様になる兄は、なんだか、ずるいと思う。

 同じ血が流れているはずなのに。


 兄は侍女に鞄を渡し、私たちの傍に立った。


「お母様、このクッションは?」

「これはね……」


 私にしたのと同じ説明を母は繰り返し、そして「置いてこなくちゃ」と言い残してホールを出て行った。


「今日は、お父様が早くお帰りになるんですって」

「聞いたよ。だから僕も、早く帰ってきたんだ」


 食堂に向かいながら、そんな話をする。


 父もそのあとすぐ帰宅して、久しぶりに、4人揃った夕食となった。


「頂きましょう」


 母の笑顔は、輝いている。この場にいる誰よりも嬉しそうだ。

 こんな風に喜ぶのなら、家族の時間をもっと取った方が良いのかとも思うけれど、皆忙しくて、なかなかそうできないのが事実である。


「桂一は、もう夏休みに入ったのか?」

「まだだよ。今はちょうど、試験が終わったところ」


 大学は、夏休みに入るのが早いらしい。


「単位は取れるのかな」

「まあ、1年生はね。だんだん、難しい講義も出てくるようだけれど」

「そうか。僕の頃とあまり変わりないんだな」


 父は、皿に乗ったステーキを丁寧に切り分ける。


「藤乃ちゃんも、テストが終わったのよね?」

「あ……うん」


 母に話を振られ、私は頷く。


「順位の発表が、もう済んだところ」

「そうか。何位だった?」

「……2位」


 父に順位を伝えるときは、なんとなく緊張する。無意識に声のトーンを落としたことに、言ってから気づいた。


「また2位か。海斗くんはなかなか、超えられないね」

「そうなの」


 私は今まで、海斗よりも良い点数を取れたことはない。残念ながら。


「千堂と僕も、いつもトップを争っていたなあ……」


 懐かしそうに、目を細める。父は、海斗の父と同級生だった。親友であった彼のことを語るとき、父はいつも、嬉しそうだ。


「まあ、藤乃は2位でもいいんだよ。女の子だから」

「……うん」

「それに、海斗くんは将来の旦那様だからね。競う必要もない」


 父は、厚切りのステーキを口に含む。

 私も食べているこのステーキは、肉汁したたる、美味しいもの。父が同席する夕食なので、少し奮発するよう、母がシェフに頼んだらしい。


 美味しいはずなのに、なんだか私は、味のない弾力のあるものを、ただ噛んでいる気分だった。


「良かったなあ、藤乃。あんな素敵な子が、君の婚約者で」

「そうね」


 いたたまれなくなって、視線を逸らす。兄と目が合うと、彼は、眉尻を下げて笑った。


 兄は、私と海斗の間にある、婚約破棄宣言について知っている。

 父がもし知ったら、どんな反応をされるのだろうか。


「……あのね」


 聞いてみようか。

 私が言い出すと、父の視線がこちらを向く。

 この優しげな目は、海斗が婚約破棄を申し出たことを知ったら、どう変わってしまうのだろう。


「どうした?」

「……ううん、何でもない」


 言おうとした言葉が、瞬時に引っ込む。

 怖くて、聞けなかった。


 私は俯き、肉を口に含む。

 やっぱりそれは、味のない、弾力のある、何かでしかなかった。


 父にとって、私の価値は、海斗との婚約に依る。やはりそれは、確かなのだ。

 いくら可愛い娘だと言われても。勉強していることを褒められても。2言目には、海斗を引き合いに出し、彼のことを褒める。

 いつもそうだ。


「式はいつにしようね」

「気が早いわ、あなた」


 嬉しそうな、両親の会話。

 私と海斗の婚約の話をするとき、ふたりはいつも、嬉しそうだ。


 もし、婚約を破棄されたら、この笑顔はなくなると思うと。


 気持ちは重く、食事の味は感じられない。

 父の好みで濃い目に淹れたコーヒーは、ただ苦くて、美味しくない。


 やっぱり私は、家族のために、海斗との婚約を続けるべきなんだろうか。


 答えを求めて兄を見ると、彼はぼんやりした顔で、両親の会話を聞いていた。

 兄が答えを教えてくれるわけではない。自分のためになることは、自分で判断しなくてはならない。


 両親の笑顔のために、海斗との婚約を継続する。ふたりが悲しむよりも、ふたりが笑ってくれる方が、私は嬉しい。

 そうなの、だけれど。


「……うーん」

「お嬢様、何かお悩み事ですか?」


 机に頬杖をついて考え込んでいると、シノがそう言いながら、目の前に紅茶を置いてくれる。


「……ありがとう」


 私は、カップを取って香りを嗅いだ。

 どこかひんやりとした、爽快な香りがする。


「ミントティー、好きなのよね」

「存じております。何か考え込んでいるご様子でしたので」

「いつもありがとう」


 温かいのに、清涼感のある紅茶。

 この不思議な感覚が、何とも好きなのだ。


「考えることがいくつもあって、頭が疲れちゃったわ」


 両親が、私と海斗との婚約に寄せる期待。

 早苗の、「樹ルートに入れたら海斗は譲る」という趣旨の発言。

 兄から示された、2択。


 何から考えたらいいのかわからなくて、ただ、いろいろな思考が散発的に浮いては消えていく。

 そのせいで、頭の中がごちゃついている。


「シノは、どうしてる? 考えたいことがいくつもあって、考えがまとまらないとき」

「そうですねえ……」


 紅茶を飲んで、ひと息つき、そう質問する。

 シノは、お盆を両手に持ったまま、首を傾げた。


「……考えたいことというか、考えなければいけないことがいくつもあるときは、優先順位をつけますかね」

「そう……」


 勉強だって、優先順位をつけるのが大事。勉強なら優先順位をつけられても、現状に優先順位をつけるのは、難しい。


「……どんな風に? どれも同じくらい大切な、気がしているのよね」

「同じくらい大切、ということはあまりなくて……それはきっと、情報が足りないのですよ」


 シノは、人差し指を立てて微笑む。垂れ目の目が、さらに垂れる柔和な表情。シノは何かを教えてくれるとき、こうして、指を立てるのだ。

 かつてはシノに、様々な教えを受けていたものだ。なんだか、懐かしい気持ちになる。


「きちんと調べて、詳しくわかったら、多くのことは、優先順位がつけられます……私の、狭い経験からですが」

「それでも同じくらい大切、ってこともあるの?」

「もちろん、ありますよ。そのときは、頑張るしかありませんでしたね」


 我が家で長年勤めるにあたって、たくさんのタスクをこなしてきた彼女。

 経験豊富な彼女の語る、経験談は頼もしい。


「情報量が、足りない、か……」


 私はちょっと、考えてみる。


 両親が、私と海斗との婚約に寄せる期待。

 早苗の、「樹ルートに入れたら海斗は譲る」という趣旨の発言。

 兄から示された、2択。


 両親のことは、今まで近くで見てきたから、よくわかっている。

 兄から示された2択は、選ぶだけだ。

 しかし、早苗の発言に関しては、彼女の意図するところ、真意がよくわからない。


「……たしかに、情報量が少ないかもしれないわ。ありがとう」


 わからないのに悶々と考えているから、ずっとわからないのだ。


「お嬢様の参考になったのなら、嬉しく存じます」

「シノの言うことは、いつも参考になるのよ」


 シノといい、山口といい。

 私の従者は優秀で、彼らの言葉には、いつも学びがある。


「シノたちがそばにいて、本当に良かった」


 例えばこれが父なら、評価が怖くて、なかなか相談に踏み切れない。母なら、心配されるから、なかなか話せない。兄は親身になってくれるものの、最近は忙しくて、迷惑をかける。

 いつも傍にいて、相談に乗ってくれる人々。


「いつもありがとう、シノ」

「まあ……もったいないお言葉です」


 シノの、細く消える優しげな目尻。

 言葉では言われなくても、喜んでくれているのが、よくわかる。


 こんな風に、改まってシノに感謝を伝えたことは、あまりなかったかもしれない。


 気持ちは、伝えないと、伝わらない。

 そう教えてくれたのは、泉だ。


 そして、逆も然り。


 気持ちを知りたいなら、伝えて貰わないといけない。


「ありがとう、シノ。すっきりして眠れそうだわ」


 シノと就寝の挨拶を交わし、私はベッドに向かう。


 早苗の気持ちがわからないなら、早苗に聞くしかない。

 シノの助言の通り、まずは情報を集めて、それから考えよう。

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