25 気持ちの整理
「優勝、おめでとう!」
結果は言うまでもなく、早苗たちのチームが優勝してビーチバレー大会は終わった。
「やったね!」
優勝の景品を受け取り、ハイタッチを交わす彼ら。泉と並んでその喜ぶ様子を見ていると、輪の中心で、喜んだ勢いで海斗と早苗がハグしあった。
早苗の視線がこちらを向き、一瞬、確かに目が合った。
「あっ」
泉が、声を上げる。そして私を、ちらりと見る。
「今、藤乃さんを、見ていたわね」
「……そうかしら」
海斗と抱き合いながらこちらを見るなんて、明らかな挑発だ。泉はそう感じ取ったようで、眉間を強張らせている。
「そうよ。いくら早苗さんでも、今のは……」
早苗は、ゲームの展開を知っている。
ビーチバレーで優勝したあとは、「私」が早苗に文句を言うのだ。そして海斗がそれを庇い、イベントが発生する。
先ほどの視線は、私が来るかを確かめたのだろう。
「本当にいいの、藤乃さん? 気持ちを伝えるなら、今なんじゃないかしら」
「いいの。楽しい行事に水は差さないわ」
だからこそ私は、今は行動を起こさない。
あの、ゲームの中のかわいそうな「私」と、同じになってはいけない。
「藤乃」
そのとき、後ろから、声がかけられた。
「お兄様?」
いつ着替えたのか、兄も場に合わせた水着姿になっている。
太陽に照らされた腹筋がまぶしい。兄の腹部をこうして見ることなんて、滅多にない。
思わず視線が吸い寄せられた私の隣で、泉も、ぽーっと兄を見つめている。
見惚れるのも仕方がないわ。
それでも家で、兄の姿を見慣れている私はともかく。
何をしても様になる兄は、一般的な女生徒には目の毒だ。
「ちょっと、おいで。ごめんね、妹を借りるよ」
「……どうぞ」
兄に話しかけられ、はにかむ泉はかわいらしい。
私は立ち上がり、脚についた砂を手で払ってから、兄について歩く。
「どうしたの?」
「うん? あの喜び方は、見ていられないだろうと思ったから」
「……ああ」
海斗と早苗のちょっとやりすぎた喜び方を見かねて、兄は、距離を置いてくれたのだ。
「ありがとう」
「いいんだよ。藤乃は、つらくなかった?」
「つらく……?」
兄が、オレンジジュースをグラスに注いで渡してくれる。氷の入ったグラスを持つと、ひんやりした結露で手が濡れた。
運動後の熱い喉に、冷たいジュースが心地良い。
「いや……何とも思わないのなら、それでいいよ」
兄も、グラスに注いだジュースを飲む。喉仏が大きく動き、ごくん、と美味しそうな音が鳴った。
「僕が前に話した2択、覚えてる?」
「もちろん」
兄が言っているのは、水族館に行ったあの夜、兄に示されたもの。
海斗との婚約を、続けたいのか。
それともこのまま、破棄したいのか。
自分のためになる方を、選びなさい、と。
「考えているんだけど……自分のためになるっていうのが、結局、いまひとつよくわからなくて」
どちらにも、良い点と悪い点がある。
婚約を継続すれば、両親は喜ぶ。両親が喜ぶなら、私も安心する。でもきっと、海斗の心が私に向くことはないだろう。その点では、虚しい生活が予想される。
婚約を破棄すれは、海斗は幸せだ。両親は悲しみ、私も肩身の狭い思いをするけれど……婚約者が他の異性と仲が良い、というつらい事態からは逃れられる。
「誰かのためにしたことが、自分のためになる、という方を選びたいの」
「誰かのためが、自分のため?」
「そう」
私は、最近の出来事を、いろいろと思い返す。
「例えば今回の学外活動は、会長たちのためにと思って準備を手伝ったのだけれど……結局喜ばれて嬉しい思いをしたのは私で、慧先輩にも褒められて。人のためにしたことが、自分のためになったの」
「なるほどね」
さっと風が吹き、潮の香りが弾ける。規則正しい波の音によって、私と兄の会話は、ふたりだけのものになる。
遠くでは、次の動きが始まったらしい。声は波に消されてよく聞こえないものの、歓声が上がっているのはわかる。
「シノは、私たちのために勉強したり準備したりすることが、自分の喜びにもつながっているんだ、って。だから私も、誰かのためにもなって、自分のためにもなることを選びたいのよ。だけど……」
今回の選択肢は、どちらも一長一短。どちらが良いと言い切れなくて、私は溜め息をつく。
兄と話して、考えが整理された。つまり、まだ私には、決定打がないのだ。
「藤乃は今、それを比較しているんだね」
「そう。それまでは、あの二人は、そのままにしておくしかないの」
泉や兄の見咎めた、やりすぎた海斗たちの姿。彼らに対してどう行動するかも、私の意思が決まっていないと、決められない。
「……そう。いろいろ考えることが、大切だからね。僕は藤乃の選択を応援するよ」
兄は、遠くに目を向ける。お昼ご飯を食べ始めるようで、大きな円になって、それぞれが砂浜に腰を下ろし始めている。
「桂一せんぱーい!」
円の一箇所から声が上がる。見ると、樹が手を振っていた。彼の左右にはそれぞれ、間が取られている。席を空けておいてくれたようだ。
「ごめん、気を遣わせて」
「いーえ! ですが、家族の話は家でした方がいいと思うんで、ふたりはおれの左右に離れて座ってください」
樹は柔らかな笑顔で、左右の地面を平手で叩く。
水着なのだから、汚れるのも構わない。私は、皆に倣って、そのまま地面に腰を下ろした。
日に熱された砂の、ほんのりとした温度。ざらついた感触。新鮮だ。
「ちょっと、藤乃が心配でさ。悪かったよ」
「ごめんなさい」
確かに今は学外活動であり、私は兄とではなく、クラスの人と話すべき時間だ。兄と併せて謝ると、私の隣に座っているアリサが、「いいのよ」とフォローしてくれた。
「助かったわ、桂一先輩と話していてくれて。どうご案内したらいいか、わからなかったから。……さ、頂きましょう」
食事の挨拶をし、それぞれに談笑しながら、用意された弁当を食べ始める。
「美味しいわ」
「でしょう? 食堂の厨房に頼んで、人数分用意してもらったの」
「アリサさんが? 顔が広いのね」
厨房で働く人など、顔も見たことがない。
感心しながら、また食べ物を口に運ぶ。
冷めても美味しく、風味の高い食事。
こうして、広い空と、広い砂浜の中で食べると、格段に美味しく感じられる。
「藤乃ちゃん、今日の水着、よく似合ってるよ」
「ありがとうございます」
食事の合間に、樹に褒められる。
これを選んでくれたのは、凛だ。
凛の嬉しそうな表情を思い出して、自然と、頬が緩む。
「大人っぽいよね。その、布の透けてる感じとか。藤乃ちゃんの綺麗な肌が、よく映えてる」
「樹。妹の肌を、じろじろ見ないでもらえる?」
兄の、少し硬い声。
顔は爽やかだけれど、どこか仮面めいたものを感じて、私は僅かに背筋を正す。
「なにそれ、水着って、見せるために着てるんですよね?」
兄の声色の変化を気にも留めない勇敢な樹は、そう言って笑った。屈託のない笑顔。
「ねえ、藤乃ちゃん?」
そのままこちらを見て、私の顔を覗き込んでくる。
「え……」
不意に返答を求められて、戸惑った。
私は肌を見せるために、この水着を買ったんだろうか?
買ったのは、似合うと言ってもらえたからだ。
似合うものを来たら自信にもなるし、選んだ凛も喜んでくれた。
「いえ……樹先輩に、見せるためというわけでは」
ふっ、と吹き出したのは、兄である。
「ほらね。ふられたよ、樹」
「ええー? なに、藤乃ちゃん、おれは見るのも駄目なの?」
樹は眉尻を下げ、目をさらに細めて困った顔をする。
「そこまででは……」
「ほら! 見ていいって言ってますよ、過保護なんですよ、桂一先輩は!」
「藤乃はそんな言い方をしていないよ」
強く拒絶したつもりもないのに、何気ないひと言が拡大解釈され、兄と樹の言い合いになる。
ふたりとも笑顔であり、喧嘩をしているわけではないのだけれど。
私を挟んで、私の言葉でこう盛り上がられると、なんだか居心地が悪い。
仕方なく、ふたりの会話を聞き流しながら辺りを見回す。
「あっ」
ふと、早苗と目が合った。
すぐに目を逸らされたけれど、間違いなく、見られていた。
気にされているのだろうか。
早苗からしてみれば、私がゲーム通りの行動をしていないことは、明白だ。
「どうした、早苗?」
「ううん。美味しいね、海斗」
「なら、僕のも食べなよ」
海斗がフォークで刺した具を、早苗の口に運ぶ。小さな口にぱくりと含み、早苗は笑顔になった。
愛らしい表情。海斗とうまくいっているのだから、今のところ何もしていない脇役なんて、気にしなくていいのに。
昼食を食べ終え、次の企画が始まる。
ここからは、ゲームの展開とは関係ない部分だ。
アリサたちに協力し、泉と話をし、兄や樹に声をかけられ、そんな風にしていると、どんどん時間が過ぎていく。
気付けば夕日が水平線に近付き、青かった空は、橙色に染まってきた。
「では、これで全ての企画を終了したいと思います」
アリサの号令で、学外活動が終了する。あとは、着替えて、バスに乗って帰るだけだ。
「ありがとう。楽しかったわ」
バスを降り、アリサに声をかける。
「藤乃さん、ありがとう。いろいろ手伝ってもらえて、助かったわ」
「私がしたことなんて、ほんの少しだもの。こうして楽しい時間を過ごすために、あんなにいろいろな準備が要るなんて、思ってもみなかったわ」
それは、少しではあるが手助けをしたからこそ、身をもってわかったこと。
「そう言ってもらえると、やった甲斐があるわね」
爽やかに微笑む、アリサ。
その笑顔を見ると、私まで、なんだか明るい気持ちになる。
そう、この感覚だ。
私は思った。
人のためにしたことで、自分も良い気持ちになる。
そういう選択を、私はしたいのだ。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、山口。……あら、お兄様」
待機してくれていた車に乗り込むと、後部座席には、兄の姿もあった。
私が隣に乗り込むと、車は揺れもなく発進する。
「楽しかった?」
「ええ。お兄様も、楽しめたかしら」
「まあね。僕の場合は、どこかの学外活動には顔を出さなきゃならなかったから、ついでに済ませられてよかったよ」
兄は言いながら、背もたれにもたれる。
1日、日差しを浴び続けて、少し疲れた。兄に倣って、背を座席に預けた。
「またお母様に叱られちゃうな」
「そうなの?」
「そうだよ。樹にも言われたけど……過保護だ、ってさ」
ふ、と兄の口角が薄く上がる。
「そうなのかしら」
「わかんないや。僕は僕なりに、藤乃を大切にしているつもりなんだけどね」
兄の、私を思う気持ちはよくわかる。
確かにそこまで心配しなくてもと思うこともあるが、その原因は自分にもあるので、兄を責めようとは思わない。
はあ、と軽い溜息。疲れた様子の兄に、何を言ったらよいだろう。
「……奥様は、仲の良い兄妹で嬉しい、とおっしゃっていますよ」
静かになった車内に、山口の声がそっと響いた。
「……そう?」
「ええ。大人になっても、支え合えるだろうから、安心だ、と」
「……ふうん。そっか」
頭は後ろに傾けたまま、兄の視線だけが、バックミラーに向く。鏡越しの山口の顔を、見ているのだ。
「なら、どうして叱るんだろう」
「お母様は、私と女友達の間に、お兄様が割って入っていると思っているから……」
「え? だって藤乃が出かける相手は……ああ、そっか」
母はまだ、慧が女生徒だと勘違いしている。
兄もそれに思い当たったようで、また溜息を吐かれた。
「僕は言わないけど……その誤解は自分で解いてね、藤乃」
「……はい」
母にいつまでも、嘘をついていてはいけない。
慧が男性だとわかったとき、兄は最初に、「海斗という婚約者がいるのに、ふたりで出掛けたのか」と言った。
その反応は至極当然で、現状を伝えない限り、母は同様の反応をするだろう。
慧と会えなくなるのは、困る。
ということは、兄に示されたふたつの選択肢。それを選ぶまでは、おいそれと言い出せないのが、現状だった。
「そんなに、先延ばしには、しないわ」
どちらを選ぶのが、本当に「自分のため」になるのか。
きちんと考えて、心を決めなければならない。