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21 かわいそうな「私」

「藤乃さん、何か飲む?」

「何か……紅茶なら持っていますが」

「それもいいね。俺、ジュースを買っておいたんだけど、どう?」


 この小部屋には、冷蔵庫もついている。慧はそこから、黒い液体の入ったペットボトルを取り出した。


「……いただきます」

「はい」


 グラスがひとつ用意され、泡立つ液体が注がれる。


「慧先輩の分は?」

「俺は、このまま飲むからいいんだ。藤乃さん、どうぞ」


 グラスに口をつけると、弾ける泡の感触が、唇に当たる。甘く、爽快な味わいが鼻から抜ける。

 勝手に喉がごくりと鳴り、冷たさが喉を駆け抜けていく。


「美味しいです」

「なら、良かった。ゲームっていうと、ジュースってイメージがずっとあってさ。飲みたかったんだ」


 慧は、ペットボトルをそのまま口に運ぶ。

 いつの間にか彼は、ネクタイを緩めた、いつものリラックスした装いになっている。

 首回りがあいているせいで、喉仏がよく見える。飲み込むたびに大きく動く喉仏に、つい、見入ってしまった。


「さ、始めようか」

「……はいっ」


 見つめていたことに、気づかれただろうか。慧に促され、私は慌ててコントローラーを持つ。


 そうして始まったスポーツ大会の競技は、やはり、ビーチバレー大会であった。


「ビーチバレー……」

「話し合いで、ビーチバレーをやることに決まったんです。同じです、やっぱり」

「本当に……不思議だね」


 これから描かれるストーリーは、実際に起こるはずの未来。見るのが怖いような、それでいて気になって仕方のない気持ち。


 水着を着た、上半身裸の海斗が画面に現れる。単なる水着姿なのだが、知っている人のあられもない姿が恥ずかしくて、画面を目の端で確認する。


『おはよう。似合うな、その……』


 彼の台詞とともに、水着を選択する画面が出てきた。

 手持ちの金額に余裕があったので、最も高い、白のビキニを購入する。


『水着。白い肌に、よく合ってて……だめだ。眩しくて直視できないよ』


 目を逸らす海斗の頬が、桃色に染まっている。照れているのだ。

 画面は遷移し、ミニゲームが始まる。


「慧先輩」

「任せて」


 ミニゲームは、慧の担当だ。

 例の如くほとんど完璧な操作をし、ビーチバレーの結果が出た。主人公が大活躍したので、そのチームが圧倒的な勝利を収める。


「反射神経が良いですね」

「そんなことないよ。慣れれば誰だってできる」


 できないから、頼んでいるのに。慧の自覚のない謙遜に、私は苦笑した。


『あの』


 横からスライドして現れる、腰に手を当てた、偉そうな女生徒。


「私だわ」

「藤乃さん……たびたび出てくるけど、いつも意地悪な顔をしているよね」


 海斗のルートを進めていると、時々出てくる「私」の姿。画面の彼女は、目尻を吊り上げている。


『あなたが勝ったのなんて、まぐれなんだからね』


 腰に手を当て、口を尖らせ、不満そうだ。声も自分そっくりで、いつも、気味が悪い。


『海斗さんは、そのくらい運動ができる女の子が好きなのかもしれないけど……本当は、彼の隣に立つべきなのは、私なんだから』


 彼女の台詞と同時に、慧は、くっと喉を鳴らす。


「ほら、藤乃さん、また情報を垂れ流したよ」

「どうしてぺらぺらと海斗さんのことを喋ってしまうんでしょう」


 ゲームを進めていると、私は度々登場する。そして、嫌味を言うついでに、こうして海斗に関する情報をさりげなく落としていくのだ。

 今の場合は、「そのくらい運動ができれば」の辺りから、体力ステータスは充分であることが察せる。


 おかげでどのステータスを上げれば良いのかわかるものの、本当に負けたくないのなら、何も言わない方が良い。


「困った藤乃さんだね」

「そうですね」


 こうして私たちは、ストーリーに都合の良い彼女の言動を、揶揄しているのだ。


「現実は、こうはならないのにね」

「ええ、絶対言いません」


 彼女の台詞は決して口には出さない、という決意を込めて。間違っても同じセリフを早苗に言ってはいけないと、頭の中にメモをする。


『何をしている?』


 普段なら、「私」は言いたいだけ言って去り、それで終わる。ただこれはイベントであるので、それでは終わらなかった。

 主人公と対峙する彼女たちに、海斗が声をかける。


『また、嫌がらせをしているんだね』

『海斗……心配してくれたの?』

『もちろんだよ。当たり前じゃないか。だって、僕は……その……』


 口籠もり、頬を染める海斗。

 ストーリーはふたりの世界に切り替わり、難癖をつけていたはずの「私」の存在は微塵も感じられない。


「早苗さんが私のこと、『脇役』って言っていたんです。こうしてゲームをしてみると、本当に脇役ですね」

「そうだねえ……あの小説みたいに、悲惨な目に遭う悪役じゃなくて、良かったとは思うけれど」


 慧は、私の読んでいる悪役令嬢物を、最近読んでくれている。おかげでこんな風に、同じ土壌で話ができるようになってきた。


 物語で悲惨な結末を迎える、悪役令嬢。そうでなかったのは、確かに良かったかもしれない。


「それって、影響力もないってことですからね」


 しかし、悪役には、悪役なりの影響力があるのだ。脇役には、何もできない。

 やはり私は、ヒロインの早苗には敵わない。


「そうかなあ。影響力はあると思うよ。実際、クルーズが選ばれるはずだったものを、スポーツ大会に変えたわけだし」

「……まあ」


 海斗に言われると、少しはそんな気がして、私は頷いた。


「それにしても、不思議だね。俺の知っている藤乃さんは、あんな風に突っかかることなんて、しないと思うのに」


 慧は、空になったペットボトルを、とんと机に置いた。軽い音が鳴り、ボトルが倒れる。

 転がり落ちそうになったボトルを、私は片手を伸ばして止めた。


「そうでしょうか?」

「え、藤乃さん、あんなこと言うの? 『彼の隣に立つべきなのは、私』……とか」

「言いませんけど……」


 言わないけれど、ゲームの中の私は、未来の私なのだ。ああした台詞を言うのには、訳があったはずである。


 自信のない私が、主人公に突っかかる理由。何か物申したい理由が、あるはずだ。


「……あっ」


 思い至ったとき、私は、背中がぞくっとした。


「どうしたの?」

「いえ……その」


 泉だ。


 私に、早苗に物申すよう、勧めてくるのは。


「私、最近、友人ができたんです。泉さんという女の子で、『クラス全員と友達になりたい』って言って、向日葵みたいにいつもにこにこしていて、素敵な子なんです」

「……うん」


 脈絡のない話に、慧は相槌を打ってくれる。


「彼女は、私と海斗さんの婚約のことも、話したのでなんとなく知っていて……婚約者がいるのにあんな風に他の異性と親しくしているのはおかしい、何か言ったほうがいい、そのときは協力するから、って言ってくれるんです」

「それは……普通の感覚だよね。俺も、最初に聞いたとき、おかしな話だと思ったよ」

「だけど、慧先輩は、早苗さんに物申した方がいいとは仰らないじゃありませんか」


 私は顔を上げ、慧を見る。

 眼鏡越しの、優しげな眼差し。慧を見ると、私はほっとする。


「確かに俺は言わないよ、そんなこと。言いたくもないからね」

「はい。……もし、泉さんの言う通りにしていたら、ああいった言動をしていたかもしれません」


 泉のためになることをしたい。彼女の望みを叶えたい。そのために、自信をつけて、早苗に物申した方が、いいのかもしれない。

 私は今日、そんな風に考えていた。


「もし、私に、慧先輩がいなかったら……」


 自信のない私も、劣等感のある私も、受け入れてくれる慧と、居場所となる図書室。

 それがなかったら、私は、泉の言う通りに行動していたと思う。


「じゃあ、この藤乃さんには、俺がいないんだ」

「はい、きっと」

「へえ……」


 慧は画面に視線をやる。

 イベントはもう終わっていて、主人公は(水着姿の海斗、かっこよかったな……)などと、呑気に考えている。


 慧が見ているのは画面ではなくて、先ほど、イベント中に現れた「私」であろう。それは、私にもわかった。


「藤乃さんは、どっちがよかったと思う?」

「どっち……」

「ゲームの中にいる『彼女』と、今ここにいる、藤乃さん自身と」


 その問いの答えなど、考えるべくもない。


「今の方が、ずっといいです」


 間を置かずに答えると、慧は「良かった」と頬を緩めた。まるいえくぼ。


「どうして、そんな当たり前のことを聞くんですか?」

「藤乃さんにとって、それが当たり前なら、俺は嬉しいよ。わからないからさ、実際、どう思われているかなんて」


 慧の言葉は、昼間の泉の言葉と重なった。

 気持ちをぶつけないとうまくいかない、言わないと伝わらないことは多い。

 彼女の言葉は、むしろ、慧と接するときの教訓になるのだ。


「慧先輩がいなかったら、私はきっと、こうなっていたんです。相談できる相手が誰もいなくて……きっと唯一、前向きな言葉をかけてくれるのが、泉さんだったと思います」


 泉は、クラス全員と友達になる、と言っている。私が今の私でなくても、どこかのタイミングで、声をかけてくれていたに違いない。あの、向日葵のような笑顔で。


「泉さんは、私たちの婚約を知ってから、海斗さんと早苗さんの関係に対する嫌悪感が強くて……当たり前ですけど……彼女の言葉は、私が、言って欲しいことだったと思うんです」

「なるほどね」


 あんなのおかしい。やめさせないといけない。


 泉の述べるストレートな批判は、確かに、私の心を救ってくれるのだ。

 悪いのは自分ではなく、早苗たちだ、と。


「彼女の力を借りて、二人を問い詰めることも、できます。……だけど、そんな自分より、今こうして慧先輩と一緒にいて、穏やかに過ごしている自分の方がいいです」


 そうだ。

 ゲームの中の「私」よりも、今の私の方が、ずっと良い。


「彼女は……かわいそうだわ」


 泉しか頼れる人がいなくて、嫉妬に駆られ、精一杯早苗に辛く当たる「私」。そのことを考えたとき、浮かんだ言葉は、「かわいそう」だった。


「……そうだね」


 隣で、慧が同意してくれる。

 その横顔を見て、私は、急に胸がきゅっと狭くなった。


 慧がいない「私」は、かわいそうだ。

 今の私にとって、慧の存在が、どれほど大きいことか。


「今の私は……慧先輩に出会えて、本当に幸せです」

「……そうなの?」


 囁くように問い、慧は目を細める。私の心を解いてくれる、その優しい眼差し。


「はい……慧先輩、いつもありがとうございます」


 言わないと、伝わらない。


 感謝の気持ちを口に出した途端、胸から、何か温かいものが溢れ出るような気がした。思わず、それを抑えるように、胸に手を当てる。


「藤乃さん、それは……ずるいな」

「えっ?」


 頭頂部に、圧が加わる。軽く後方に頭が押され、私の視線は、慧から逸れて天井を向く。

 はあ、と慧が大きく息を吐く。


「いや、ずるいっていうか……ごめん、藤乃さん。痛くなかった?」

「いえ、全然。すみません、お気を悪くさせるようなこと……」

「違うんだ。嬉しいんだよ。嬉しくて、俺、今、どう反応したらいいか分からなくなったんだ」


 慧の手が頭から離れたので、私は視線を戻す。

 慧は、はにかんだような、困ったような、なんとも言えない表情をしていた。その頬が、薄く染まっている。


 まるで、イベントのときに、海斗が早苗に見せる表情みたいだ。

 そう思ったけれど、慧と海斗を重ねるのは失礼だと思って、私は口には出さなかった。


 そのとき、ピピ、といつものアラームが鳴る。


「ああ……もう、閉館か」


 それは、帰宅時間を告げる音。

 私たちは、来た時と逆の手順で、ゲームを片付けて行く。


「そういえば、ゲームに出てきた私は、学園指定の水着を着ていましたね」

「そうだっけ?」

「そうですよ」


 片付けながら、私は、ゲームに出てきた自分の姿を思い返す。あれは間違いなく、指定の水着だった。


「言われたんです、泉さんに。指定の水着なんて着ていく人いないから、絶対買ったほうがいい、って」

「ゲームの彼女は、教えてもらえなかったのかなぁ」

「それか、気にしなかったか、わからないですけど……」


 片付けが終わり、扉を開けて図書室に出る。窓の向こうでは、日がすっかり沈んでいた。夕焼けの名残の濃い橙色が、空の端だけを染めている。


「水着、買いに行かなくちゃ。そんな、普段用の水着なんて、持ってないです」

「家族で出かける時、着ないの?」

「それも、指定の水着で済ませていたので……」


 家族だけで使うプールやビーチでは、見た目を気にしたこともない。幼い頃はともかく、ここ数年、新しい私用の水着は買っていないのだ。


「困ったわ。どんなのがいいかなんて、わからない」

「俺で良ければ、付き合おうか?」

「いいんですか? ぜひ」

「え、いいの?」


 言い出した慧が、驚いた声を上げる。

 彼の方を見ると、やや目を見開いた、不思議な顔をしていた。


「いや……買うの、水着なんだよね?」

「はい。……あれ、今、一緒に行ってくださるって……」


 聞き間違いだっただろうか。

 不安になって、語尾が小さくなるのがわかった。


「言ったけど……藤乃さん、いいの? 水着でしょ?」

「何か問題があるんですか?」


 慧の念押しの、意味がわからない。首を傾げると、慧の方から、「藤乃さんがいいならいいんだ」と話を切り上げてきた。


「いつがいい?」

「いつでも大丈夫です」

「なら、今週末にしようか」


 そう約束し、私たちはいつもの挨拶を交わして、図書室を出た。


 泉には申し訳ないが、私は、彼女の望む通りにすることはできない。

 他に頼る者がいなくて、早苗に当たり散らすかわいそうな「私」に、なってはいけない。


 そう今日のことを振り返りながら、山口の待つ車へ向かい、もう薄暗くなった校舎内を急いだ。

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