20 人のためが、自分のため
「シノは、自分のためにしていることって、ある?」
「え? 私が……ですか?」
朝、鏡に向かって顔を整えることは、習慣になってきた。
こうして鏡越しにシノと顔を合わせながら話していると、朝から穏やかな気持ちになれる。
「そうですねえ……うーん、難しいですが、小松原家の皆様のお役に立てるのは、私の喜びです」
「ありがたいことだわ」
侍女としては完璧すぎる台詞を言うシノ。その言葉が本心であることを、いつもそばにいる私は知っている。
「ですから、お嬢様たちのためにいろいろな準備や勉強をしている時間は、私のため、とも言えるかもしれませんね」
「そうなのね……」
人のためが、自分のためになる。
「情けは人の為ならず、と言うものね」
困っている会長たちのために、助力を申し出た。感謝されて、私自身も喜びを覚えた。それだけでなく、慧にも褒められて、さらに嬉しくなった。
人のためにと思ってしたことが、自分の喜びを生んだ。
シノの言っていることは、きっと、そういうことだ。
「素敵ね、シノ」
「ありがとうございます」
シノの垂れた目尻がきゅっと細くなり、柔和な笑みに変わる。
人のためが、自分のためになる。
それはとても、幸せなことだ。
シノの柔らかな笑顔を見ていると、ますます、そうだと思える。
なら、私がするべき選択は?
誰かのためになることが、結果的に自分のためになる。そんな選択を、したい気がする。
婚約破棄を、無理やり撤回させるか。
このまま、破棄しておくか。
その二択を頭の隅に浮かべつつ、私は山口の運転する車に乗り込み、今日も学園へ向かう。
「あっ、藤乃さん! おはよう!」
「お、……おはよう」
教室に入った途端、声をかけられた。私はたじろぎながら、挨拶を返す。
相手は、会長だった。今まで、彼女から声をかけられたことなんて、一度もない。
「どうしたの、会長」
「仰々しいから、アリサって呼んで」
学級会長は、男女ひとりずつ。
女性の方の会長……もといアリサは、そう言うと、微笑んだ。爽やかな笑顔。会長を任されるだけあって、人望のある彼女は、表情も振る舞いも爽やかだ。
「藤乃さん、来週末、予定空いてる?」
「来週末?」
聞き返すと、彼女は頷く。その動作と共に髪が揺れ、爽やかな香りがふわっと漂った。
「そうなの。昨日企画がまとまって、物品とか予定は、これからなんだけど……来週末、買い出しに行こうと思っているの」
「ああ、そのこと。空いているわ」
昨日申し出た、会長への協力。
そのまま社交辞令になってしまうかもしれないと思っていたから、こうして頼られるのは、嬉しい。
「良かった。やっぱり二人じゃ手が足りなくて……藤乃さん忙しそうだから、先に予約しておかないと、って思ったの」
「そんな……」
週末の予定なんて、家族の予定以外は、いつでも空いている。
「忙しくなんてないわ」
「ええ? そうなの? 藤乃さんのお家はすごいから、家族の行事とか、たくさんありそうなのに」
「ううん、最近は滅多にないもの」
幼い頃こそ、家族揃って出かけることも多かったけれど、兄が友人と遊ぶことが増えてから、そうした機会はどんどん減ってきた。
「そうなんだ……迷惑じゃないなら、良かった。助かるわ、よろしくね」
「こちらこそ。お手伝いできて嬉しいわ」
「じゃあ、また、予定が決まったら声かけるね」
アリサはその爽やかな笑顔で、片手を挙げて挨拶し、自席に戻る。
週末に級友と出かけるなんて、考えたこともなかった。
高等部に進級して、初めてのことだ。まだ先のことなのに、買い出しのことを想像すると、少しわくわくする。
こんな気持ちになるのも、会長のために、声をかけたことがきっかけ。結果的に慧に褒められ、楽しみな予定もできた。
人のためが、自分のためになる。
私は改めて、それを実感した。
「ねえ、藤乃さんっ!」
「……あ、泉さん。こんにちは」
「今日はいい天気で、風も強くないし、外でお弁当を食べるには最高の日だね!」
泉は言いながら、当然のように、私の隣に座る。
それは親しさの現れのようで、なんだかくすぐったい気持ちになった。
「そうね」
「藤乃さんがこんなに気持ちよくお昼を食べてるなんて、他の人は知らないんだろうなあ……」
泉はそう言うと、くすっと悪戯っぽく笑う。
「ふふ、わたししか知らない藤乃さん」
「それって、嬉しいの?」
「嬉しいよ。仲良くなれた、って感じがするから」
弁当箱を開け、泉も昼食をとり始める。
談笑しながら食べると、いつもより時間がかかって、いつもより楽しくて。
こんな風に、友人と過ごすゆったりとした昼休みがあるなんて、泉と話せるようになる前は、考えたこともなかった。
泉と話すきっかけは、シノにお化粧を教わったから。
お化粧をしたのは、悪役令嬢の本を読んで、目に見える変化を得たいと思ったから。
本を読み続けたのは、図書室に慧がいたから。
だとするとこうした変化に1番大きな影響を与えたのは、慧である。
慧のためになることが、自分のためにもなればいいのに。
そんなことを思いながら、卵焼きを口に含む。
甘くて柔らかな食感が、ふわっと口の中でほどけた。
「そろそろ、学外活動だね」
「そうね」
さっと吹き抜ける風が、泉のお下げを揺らす。今日も彼女は、向日葵みたいに明るく、可愛らしい。
「楽しみだなあ、スポーツ大会」
「泉さんは、クルーズじゃなくて良かったの?」
泉は、早苗たちとも親しくしている。
早苗があれほどクルーズを望んでいたのに、スポーツ大会で、いいのだろうか。
「うーん。何でも良かったなあ。学外活動の目的って、わたしは、新しい友達を作ることだと思ってるから。内容は何でも」
「……へえ」
そういう人もいるのだ。
「わたしは、クラスのみんなと友達になりたいから」
「そうだったわね」
確か彼女は、初めて話したときも、そう言っていた。
「すごいわ」
私には、そんなこと、できない。
泉みたいに、自分から誰かに話しかけるのなんて、本当に勇気が要る。
「え? どこが?」
「私には、難しいもの。……全員と、友達に、なんて」
「そうかなあ。藤乃さんと話してみたい人は、けっこう多いと思うけど」
泉は水筒の蓋を開け、お茶を飲む。
「まあ、無理しなくてもいいとは思うけどね。全員と仲良くするって言っても、藤乃さんは、早苗たちとは仲良くなりたくないでしょ」
「それは……まあ」
仲良くなれるとも、思えない。早苗にとっては、私は単なるゲームの脇役だ。相手にもされないだろう。
海斗には、敵視しかされていないし。
久しぶりに彼らのことを考えると、気持ちが重くなった。
「ひどいよね、ほんとに。藤乃さん、どうしてあの人たちに、何も言わないの?」
「……言えないわ」
「我慢してたって、何にもならないと思うけどなあ。気持ちをぶつけあわないと、友情も恋愛も、うまくいかないって」
泉の正義感が私に望んでいるのは、早苗に物申すこと。
自分に自信をつけるまで、そんなこと言えない、と思っていた。
「うまくいかないと思うわ」
「やってみないとわからないって。わたしも色々あったけど、言わないと伝わらないことって、多いよ」
泉のためには、早苗に言うべきことを言いたい気持ちもある。
本当にうまくいったら、泉のためにやったことが、自分のためにもなる。
……本当に、なるのだろうか。
「もしひとりじゃ言えなかったら、わたし、協力するからね」
「ええ。ありがとう」
早苗に物申すということは、私が、海斗との婚約継続を望むということ。
結局事態は、兄に示された二択に収束する。
海斗との婚約を、無理やり継続すること。
このまま破棄を受け容れること。
どちらが、私のためになることなのだろうか。
迷いながら飲む食後の紅茶は、いつもよりも、香りが薄いように感じる。
温かな紅茶が、喉を落ちてゆく感覚は、心地よい。
「そういえば藤乃さんは、どんな水着にする?」
「え? 水着?」
泉の質問は唐突で、私は思わず聞き返した。
水着って、何のことだろう。学園で水着を着る機会なんて、授業くらいしか思い浮かばない。
「高等部の水泳の授業は、中等部の水着を使ってもいいのよね?」
「え?」
今度は泉が驚いたように、目を丸くする。
彼女は暫くその表情で固まり、そのあと、ふっと吹き出した。
「やだ、藤乃さん。違うよ。スポーツ大会は浜辺でやるんだから、水着を買うでしょ」
「そうなの?」
「そうよ。学園の指定水着なんかで来る人、絶対にいないよ」
泉は顔の前で手を振りながら、からからと笑っている。
「考えてもいなかったわ。ありがとう、泉さん」
「わたしも、水着の話して良かった。楽しみだね、学外活動」
「そうね」
こんな風に、級友と学外活動の話ができている時点で、私は楽しい。
「もう、教室に戻ろうかな」
「私も戻るわ」
「うん、一緒に行こう」
世間話をしながら、廊下を、泉と並んで歩く。
こうして友達と並んで歩くことも、新鮮だ。ひとりだと隠れるようにして歩いていたけれど、誰かといると、何も気にしなくていい。
「あっ、泉。どこ行ってたの?」
「ちょっとね」
教室に入ると、泉は早苗に声をかけられ、そのまま彼らの輪に入っていく。
私は自席に座り、午後の授業の教科書を開いた。
「こんにちは、藤乃さん」
「慧先輩、こんにちは」
図書室の扉を開けると、静止したような、密度の高い空気に出迎えられる。この空気も、今となっては、慣れ親しんだものになった。
慧は今日もカウンターにいて、穏やかな笑顔で出迎えてくれる。
「さあ、今日もしようか」
「はい。いよいよですね」
流れるように、カウンターの奥へ。いつもの小部屋に入り、手分けしてゲームの準備をする。
画面が明るくなる。私は、セーブデータを選択した。
今日は、スポーツ大会を選んだ場合の、ストーリーを確認するのだ。
室内にやや緊張した雰囲気が漂っているのは、気のせいではない。
ここから私たちは、未来を知ることになる。