2 後ろ暗い欲望は創作に留める
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう」
山口が開けてくれた扉をくぐって、座席に腰掛ける。学園の座席と違って、ふかふかとしたクッションは、必然的に、眠気を誘う。
私はゆったりと背もたれにもたれ、欠伸を噛み殺した。それでも目尻に滲む涙を、ポケットから取り出したハンカチで拭う。
「寝不足ですか?」
「ええ……少しね」
「お勉強も、ほどほどになさってくださいね」
バックミラーに、案じる山口の顔が映る。白髪混じりの眉尻が、軽く下がっている。
「ありがとう」
私がしていたのは、勉強じゃないんだけどね。
その言葉は、心の中にしまった。私が昨晩、遅くまでしていたのは、「婚約破棄物」の小説の情報収集。
昨晩。夕食を家族と囲みつつも、私は、婚約破棄の件を誰にも相談できなかった。両親は心から海斗との婚約を望んでいるから、破棄されたなんて言ったら、悲しむに違いない。親よりは相談しやすい兄は、最近大学生活が忙しくて、落ち着いて話せる余裕はなさそうな雰囲気だった。
そこで私は暫く様子を見て、兄の生活が落ち着いたら、相談することに決めた。
先延ばしを決めても、つい婚約破棄のことを考えてしまう。ぐるぐると思考の渦に落ち、頭も妙に冴えていた私は、気持ちを紛らわせるために、『悪役令嬢は、婚約破棄を回避したい』の感想を検索し直したのだ。
ヒロインざまぁのことや、主人公の逆転劇に関する感想を読むと、結末を読んだときと同じ、胸のすくような気分になった。
現実逃避なのは、わかっている。それでも、気持ちのやり場がなくて、つい夜更けまで読みふけってしまった。
その中で、同じ作者の他の作品や、似たシチュエーションの作品の名も見かけた。私は今日、タイトルをメモして、ポケットにしまっている。これで暫く、気持ちのやり場には困らない。
「今日も良い天気ですよ、お嬢様」
「……本当ね」
朝日が、目にささるほど眩しい。『霞ヶ崎学園高等部』と黒地の校門の柱に彫り抜かれた金の字が、陽射しに照らされてきらきらと輝いている。
重厚な正門の、さらに正面に、山口は車をつける。私は、鞄を手に取り、車から降りた。ここが、私の通う学園である。
幼稚部、初等部、中等部、そして大学も近くに併設された霞ヶ崎学園は、ちょっとした学園都市となっている。
「行ってくるわ」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
振り向くと、山口は目を細め、人差し指と中指を絡めて胸元に掲げる。私も同じサインを出して、改めて、校舎に向かった。
まだ幼い頃に山口が教えてくれた、「幸運を祈る」のサイン。何があったかはもう覚えていないが、当時通学を渋っていた私は、山口のそのサインに励まされて、登校する気になったものだ。
今朝も、山口のサインのおかげで、勉強道具が詰まった鞄が少し軽くなったように感じた。
正門を抜けると、登校した生徒たちを、大きな噴水が出迎える。噴き出す水しぶきも、朝日を浴びて、美しく光っている。その優雅な光景を横目に、挨拶活動をする風紀委員の脇を通り過ぎ、昇降口へ入る。
1年A組の下駄箱から、上靴を取り出す。履き替えて、教室を目指した。
「おはよう」
「おはよう!」
明るい声。挨拶をしたのは、私ではない。既に席についていた私は、頬杖をつき、窓の外を眺める。
入学してから、1ヶ月ほど。教室に入るときに、挨拶をしなくなったのは、いつからだろう。挨拶しても、ぼそりとした返事しかないし、そこから何の発展もない。無駄だと思ってやめたのは、もう何週も前のことだ。
「おはよう、早苗さん」
「あ、おはよー」
対して、早苗は登校するなり、他の女生徒から話しかけられている。
「それ、素敵な髪型ね」
「そう? ありがと」
早苗は、緩く編み込んだ髪を褒められ、華やかな笑顔を浮かべる。確かに、後れ毛を出してふんわりと仕上げた髪型は、彼女によく似合っている。私は遠目で、そのやりとりを観察した。
「でも、恥ずかしいな。自分で結んだの」
「私も、今度侍女に頼もうかしら。素敵よ」
「あら、本当ね。素敵」
ひとり、またひとりと、早苗の側に女生徒が寄る。席についた早苗は、相手が名家の子女であっても、立ち上がることもしない。
生意気だと、思わないのかしら。
私は内心、毒づいた。
何しろ、早苗は一般庶民の子なのだ。その賢さを買われ、特待生として、高等部から特別に入学を許された存在。その高い能力は確かに賞賛するべきである。それでも、あくまでも彼女は、庶民の子だ。
……思わないから、皆ああして、寄っているのだ。庶民であることを覆すほどの魅力が、彼女にはある。私にも、そのくらいのことはわかる。
今のは、嫉妬だ。
私は、早苗の魅力には敵わない。
「へえ、可愛い髪型だな」
「千堂くん!」
早苗の背後から現れた海斗が、その緩く巻かれた毛先を摘まみ上げる。
「やめてよ、恥ずかしい」
「褒めてるんだから、素直に受け取りなよ」
髪を押さえて、頬を膨らませる早苗。あざとい上目遣いを受けて、海斗は、彼女の頭をぽんと撫でる。
きゃあ、と周囲の女生徒が歓声を上げた。海斗の打ち解けた態度を間近で見て、興奮しているのだ。
彼は、私の髪を、あんな風に触ってくれたことはない。あんな、悪戯をしてくれたこともない。そもそも向こうから話しかけてくれることなんて、最近では、全然ない。
早苗と私の扱いの差は、歴然としている。婚約者である私にもしないことを、彼女にはする。それは、つまり、そういうことだ。
海斗の気持ちは、察するまでもない。
「君たちも、早苗のように身だしなみに気を配れば、素敵な出会いがあると思うよ」
「海斗様みたいな素敵な方とお近づきになれるのなら、いくらだって気を配りますわ」
「保証はしないよ? だけどさ、中等部と同じ髪型をいつまでもしてるのって、つまらないし、地味じゃないか」
……察するまでもない。
私は、努めて彼らから視線を逸らす。
くすくすと聞こえる笑い声は、誰に向けられたものでもないと、自分に言い聞かせた。
後れ髪の出ないように、きっちり結ったポニーテール。中等部では、長髪はひとつに結わく決まりになっていた。
高等部にはそうした決まりはないから、進学した途端、皆、それぞれに髪型を変え始めた。私も一度だけ、髪型を変えたことがある。でも、すぐにやめてしまった。普段と違う髪型は、落ち着かなかったのだ。
「おはよう、早苗」
「お前、隣のクラスだろう。勝手に入ってくるなよ」
「余計なお世話だ。大体俺は、早苗と話をしにきたんだよ」
新たな美男子が現れて、海斗と言い争い始める。あれは確か、隣の組の学級会長だっただろうか。
「やめてよぉ、ふたりとも」
ふたりの間で困ったように微笑む早苗。美男子に迫られる彼女を見て、周囲の女生徒が、またも色めき立つ。
昨日読んだ小説の「ヒロイン」に、男たちに囲まれた早苗が重なる。
早苗は可愛らしくて、おしゃれで、男女ともに好かれている。見かけだけでなく、内面も魅力的なのだ。文武両道の彼女は、入学当初の試験で2位という好成績を叩き出し、体育の授業ではいつも中心になって活躍している。
まるで早苗は、物語のヒロイン。
物語では、「悪役令嬢」の活躍によってストーリーと逸れていくことに、ヒロインは焦る。自作自演によって墓穴を掘り、「ざまぁ」な結末を迎えるわけだ。
しかし、早苗はそんなこと、する必要もないだろう。何しろ彼女の学園生活は、順風満帆、そのものだ。
黙っていてもあんな風にみんなに囲まれ、誰もが憧れる美男子も、彼女に好意を寄せている。その一人が、私の婚約者である、海斗だ。
……もう、元婚約者って言った方がいいのかも、しれないけれど。
とにかく、海斗は今も、私には見せない朗らかな笑顔で、早苗と言葉を交わしている。
見ないようにしようと思っても視線が吸い寄せられ、私は下唇を軽く噛んだ。
やっぱり私は、早苗には敵わない。
あの完璧な早苗が、崩れ落ちる姿を見られたら。そんな早苗に、「ざまぁ」と言えたら。そんな後ろ暗い欲望が、また、むくむくと湧いてくる。
「……あのさ」
大きな手が、机の上に、どんと置かれる。整った爪。
「藤乃さん」
「はいっ」
名前を呼ばれて、話しかけられていることに気づいた。
私の目の前には、海斗の顔がある。惚れ惚れするほど、端正な顔立ちだ。整った目、筋の通った鼻。喋ると覗く歯も、美しく並んでいる。
眉間に皺を寄せる険しい表情すら、絵になる。
彼から話しかけてくるなんて、本当に珍しい。
腰を浮かしかけた私は、海斗の鋭い視線に晒されて、改めて座る。様子がおかしい。さっきまであんなにご機嫌に、早苗と話をしていたのに。
「早苗を睨むなよ。妬くのはわかるが、君の出る幕じゃない」
「え……?」
「とぼけないでくれ。怖がってるんだよ、早苗は」
海斗の肩越しに、早苗の顔が見える。口元に手を当て、か弱そうに、眉尻を垂らしている。
「に……」
「言ったからね、僕は。それだけだ」
睨んでいたつもりなんて、ないのに。
言葉が出る前に、もう海斗は私に背を向けていた。口から手を離した早苗が、顔を綻ばせる。海斗は、その頭を、また撫でる。色めく女子たち。
私との緊迫感のあるやりとりなんて、まるで初めからなかったように、浮かれた光景が続く。
その落差に、私は誰にも聞こえぬよう、小さくため息をついた。
早苗さえいなければ、こんな惨めな思いをすることも、なかったのに。
「あ、時間だ。みんな、座ろうよ」
「また後でね、早苗さん」
予鈴が鳴り、早苗に促されて、ようやく皆自席に戻り始める。
あんなに慕われている早苗を、いったい誰が、貶められるというのだろうか。
私には、できない。何しろ私は、海斗の言うように地味だし、勉強だって、早苗や海斗ほどできない。運動だって、ふるわない。
そんな私が彼らと張り合うなんて、身の丈に合わない話で……だからやはり、後ろ暗い欲望は、創作に留めておくべきなのだ。
ポケットからメモを取り出し、チェックした本のタイトルを眺める。今日もまた放課後に図書室へ行って、気分を紛らわそう。