17 選択肢はふたつ
「ただいま」
「お帰りなさい、桂一くん、藤乃ちゃん! もう暗いのに帰ってこないから、心配したわ」
帰宅すると、玄関ホールに入った瞬間、母に出迎えられた。待ち構えていたのだ。
兄と私、順番に母の抱擁を受けてから、食堂に向かう。
「水族館が、思いの外楽しくてさ。予定より、長くいてしまったんだ」
「そう、楽しかったなら良かったわ。どうだった、藤乃ちゃんのお友達は?」
兄がちらりと、私を見る。
その口角が、ひゅっと片側だけ上がった。
「いい子だったよ」
兄は、それだけ、答える。
慧が男の人だということは、言わないんだ。
兄が明かさないので、私もつい、言わずにおいてしまった。
そのあとは、今日見たものについて、私と兄で母に説明する。たくさんの魚、青い癒しの空間、ショーのこと。
慧の性別に触れなくても、話せることは、いろいろある。
「いろいろ聞かせてくれて、ありがとう。桂一くんも、安心したでしょ? もう、ついていくなんて、わがまま言ったらだめよ」
「うーん……それはどうかなあ」
慧の人となりを知っても、それと、私たちがふたりで出かけることは、別の問題なのだろう。
兄の微妙な反応に、母は表情を曇らせる。
「またついてこられたら、困るわよね、藤乃ちゃん?」
「うーん……そうねえ」
私も、微妙な反応を返すことしかできない。兄を拒んだら、慧が男性であると、言ってしまうかもしれない。
いや、言われてもいいはずなのだが……自分でも、よくわからなくなってしまった。
「なによ2人とも、仲がいいわね」
母は頬を軽く膨らませ、拗ねた表情を作って見せた。本気で怒っているわけではないことは、私でもわかる。
「まあ、仲の良い兄妹だからね」
「いいことだわ、もう」
食後のショートケーキの生クリームをすくい、「美味しい」と頬を緩める母。
私は、苺を口に含んだ。甘酸っぱい水分が、ふわっと広がる。
食事を終え、自室に戻る。
いつもはそれぞれの部屋に戻る私たちだが、今日は、兄と同じ方向に歩いている。
私の部屋の前に到着すると、当然のように、兄はそこで立ち止まる。
「僕と藤乃で、少し話すから。紅茶は2人分、用意してもらっていい?」
「かしこまりました」
シノは、兄に命じられて、用意をしに向かう。
「……お母様には、聞かれたくないんだよね?」
「そうなの。どう話したらいいのか、わからなくて。お父様とお母様が知ったら、悲しむと思うし……」
「そうだねえ」
兄はそれを、否定しない。
私と海斗の結婚にかける両親の期待は、大きい。だから、あんなことを知ったら、ショックを受けるに違いないのだ。
「今日の様子を見て、なんとなく察しがついたんだけどさ……一応藤乃から、今までのこと、教えてもらってもいい?」
「……うん」
私は、高等部入学にまで遡って、話し始める。
特待生として入学してきた、早苗。彼女と海斗の距離が縮まるのに、そう時間はかからなかった。
「それで言われたの。『君との婚約は、破棄させてもらう』って」
海斗の言葉は、焼き付くように心に残っている。
「破棄させてもらう、か……海斗は藤乃に、そう言ったんだね」
「ええ。だから本当は、私たちの婚約は、もうあのときには終わっていたんです」
慧の名誉のために、そこは強調しておく。
「うーん……」
兄は顎に手を当て、考えるそぶりを見せた。その横顔が、例の如く、整っている。
手前味噌ではあるが、絵になる兄だ。
「どうぞ」
「ありがとう、シノ」
ちょうど良いタイミングで、シノが紅茶を運んできた。兄との会話の内容は、聞かれていないはずだ。
山口はともかく、シノは婚約破棄のことを知ったらショックを受けるだろうし、きっと、他の人にも報告してしまう。
「ちょっと下がってもらっても、いい?」
「かしこまりました」
シノが下がって、またふたりになる。
湯気の立つ紅茶のカップからは、フルーティな茶葉の香りがした。
「藤乃と海斗の間では、婚約は破棄されたことになっているんだね」
「……そうだけど」
「でもさ、お父様もお母様も、知らないわけだろう? それってつまり、海斗は自分の親に話していないか、話しても、反対されてるってことじゃないの?」
横目で、兄の視線がこちらに向く。
「……え?」
そんなこと、考えたこともなかった。親が決めたとは言え、私と海斗の婚約なのだ。結局、どちらかが嫌だと言えば、それで終わりではないのか。
「これって、家と家の問題だから」
「でも、私と海斗さんの婚約なのに」
「もちろん、そうだけど……今回の場合は、親を通すのが筋ってものじゃないのかなぁ」
兄も確信はないのか、うーん、とまた考える様子を見せた。
「藤乃としては、どうなの? 実際のところ」
「実際?」
「海斗との婚約が、家同士では破棄されていないとして。それって、嬉しい?」
「それは」
もちろん。
言おうとして、私は、言葉に詰まった。
嬉しい。
嬉しいのは、婚約が破棄されなければ、両親をがっかりさせないで済むからだ。
別に、海斗への好意があって、だから彼と結婚したいというわけではない。
そんな状態で、もちろんなんて、答えていいのだろうか。
頭の中には、「好きでもない人と婚約していた」「かわいそう」という、慧の言葉がこだまする。
「……わからないわ」
「嬉しいか、わからないんだ」
「そうね」
わからない。
兄は、「そうかあ」と言い、片手で髪をくしゃりと乱した。
「難しいなあ」
「ごめんなさい」
「藤乃は悪くないよ。ただ……うーん、どうするのが、藤乃のためなんだろうね。結局、藤乃のためになることを、した方がいいと思うんだけどさ」
私のため。
またその言葉を、聞くことになった。
この間は慧に、努力するなら自分のために、と言われた。
そして今日、兄にも、自分のためになることをした方がいいと言われた。
「私のためになること……」
「それが、藤乃自身も、わかってないでしょう。協力したくても、現状では、どうしていいかわからないな」
その通りだ。
私が頷くと、兄は、人差し指と中指を立ててこちらに見せた。
「選択肢は、ふたつだとは思うよ。ひとつめは、どうにかして、海斗との婚約を維持すること。まだ親には伝わっていないわけだからね。なんとかなるとは思うよ」
兄は、人差し指を折りながら話した。
なんとかなるのだろうか。
そんな可能性があるなんて、考えたこともなかった。
「もうひとつは、逆に両親に伝えて、ちゃんと婚約を破棄すること。今の状況は、どっちつかずだからね。それはそれで、言ってきたのは向こうなんだから、なんとかなる」
それも、考えたことがなかった。
両親は海斗との婚約を喜んでいるから、そんな2人に、婚約破棄のことを伝えるなんて。うまく言える自信もなければ、どう反応されるか、という不安もある。
「藤乃のためになる方を、選んだらいい」
「すぐには……」
「決められない? なら、少し考えてごらん。僕はどっちでも、応援するから」
海斗との婚約を続けることが、自分のためなのか。それとも、きちんと破棄することが、自分のためなのか。
兄に求められたのは、その答えを決めること。
「わかった」
その判断は、私がするべきことだ。さすがにそこまで、兄や慧に頼ることはできない。それは甘えすぎだ。
「おやすみ、藤乃」
「おやすみなさい」
兄は、部屋から出て行く。
私は、ぬるくなった紅茶に口をつけた。するすると、喉の奥に落ちてゆく琥珀色。飲みながら私は、兄との会話を脳内で繰り返していた。
私のためになる判断って、なんなのだろう。
海斗との婚約が続けば、両親が喜ぶ。
海斗との婚約を破棄することは、海斗と早苗は喜ぶ。私は、好意のない人との婚約を、しなくていいことになる。
でも、婚約を維持できるのなら、海斗の気持ちはいずれ、こちらに向くしかなくなるかもしれない。好意を向けられたら、私も、好意をもつかもしれない。
「難しいな……」
自分のためになることが何かなんて、真剣に考えたことは、あまりないから。
その判断は私には難しくて、すぐに答えを出せそうにはなかった。
「はあ」
ため息が、浴室に響く。
体を洗っても、湯船に浸かっても、頭の中では、ふたつの選択肢がぐるぐる渦巻いている。
きっといくら考えても、今答えを出すことはできないのに。
わかっているのに頭から離れなくて、もう、疲れてきてしまった。
こんなときには、本を読むのが1番いい。
私はベッドに入り、いつものように、本を開く。
最近読みあさっている、溺愛ものの悪役令嬢小説。今回のお話は、悪役令嬢が、一推しの従者にひたすらアタックし、最後は結ばれるものだった。
こんなに自信をもって好きだと言えるのなら、その人と結ばれるのが、自分のためになるんだろうな。
読んでいても、ふとした瞬間に、同じことが思い浮かぶ。
「……寝よ」
本を読み終え、部屋の明かりを消した。
いろいろ考えて、物語にも没入して、頭が疲れた。今日はたくさん歩いたから、体も疲れている。
考え込んで眠れないかと心配したけれど、思いの外あっさりと、私の意識は眠りの中に沈んでいった。