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15/49

15 デートには、保護者が同伴するそうです。

「休日にお出かけになられるのは、珍しいですね」

「そうね。なかなか、お友達ができなかったから」


 シノと他愛のない話をしつつ、身支度を進める。私は化粧をしながら、シノは私の髪をまとめながら。

 今日は、慧との約束の日である。


「お友達……千堂様ではないのですね」

「そうよ。彼とは別に、一緒に出かけるなんてこと、しないわ」


 シノはいささか、残念そうな表情をする。


「ごめんなさいね」


 何かを期待していたのだろうか。とりあえず謝っておくと、シノは「いえ」と首を振った。


「千堂様とのお出かけなら、思いっきり可愛らしくして差し上げても宜しいかしら、と思ってしまいまして」

「そう……」


 肩を狭め、照れたように話すシノ。

 以前、化粧の仕方を教わった時もそれを感じたが、どうもシノは、私を着飾らせることにやりがいを覚えているらしい。


「思いっきりだと困るけど……シノの好きなように、してもらっても構わないわ」

「……良いのですか?」

「ええ。今日は休日だし、シノに任せたら、きっと綺麗になるもの」


 私は、持っていた化粧道具を机に置いて、シノに任せることを態度でも示した。

 途端に彼女の垂れ目の奥に、力強い光が灯る。わかりやすくて、私の口角は自然に上がった。


 綺麗になるのは嬉しいし、シノが喜ぶならそれも嬉しい。私がどんな装いで行っても、きっと、慧は否定なんてしないだろう。


「今日は、どちらへ行かれるんですか?」

「水族館に行くの」

「そうですか。なら照明が暗いから、濃い目の方がお綺麗かもしれませんね」


 あれこれと独り言のように言いながら、シノは手際良く粉を叩く。


 最近は、自分で化粧することの方が多かった。久しぶりに見るシノの手つきは、滑らかで無駄がなくて、思わず見入ってしまう。


「いかがでしょうか?」


 見入っているうちに、全てが終わっていた。

 鏡に写る私は、いつもの「すっぴんより何となく印象が良い」顔ではなく、「おめかしした」顔になっていた。頬が桃色に染まり、顔を傾けると頬や目蓋がきらきらと輝く。


「綺麗ね」


 以前の私なら、こんな風にめかしこむことには、大きな躊躇いがあっただろう。

 でも、今の私は、こうして目に見える変化を得られることに、どこか喜びを感じている。


 このひとつひとつが、自分の自信に繋がるんだわ。


 そう思うと、どんなことでも、やってみたい気になるのだ。


「髪型は、どうなさいますか?」

「……いつも通りでいいわ」


 後頭部の高い位置で結った、ポニーテール。水色のワンピース。いつもの休日と、何ら変わりのない服装だ。

 やはり私は、出かけるためにわざわざめかしこもうという気分には、まだならないのだった。


「あら、可愛い。藤乃ちゃんは、今日はお出かけするんだったわね」

「そうなの」


 朝食の席で早速母に褒められ、シノの腕に感心しながら、私は頷く。


「へえ、どこに行くの?」

「水族館よ。学外活動に」


 兄の質問に答えると、兄は、皿から顔を上げた。その動作で、前髪がさらりと揺れて額にかかる。そんな何気ない仕草が絵になるのを見ると、こんな兄を持っていることが、誇らしい気持ちになる。


「学外活動で水族館に行くなんて、珍しいね。貸し切ったの?」

「ううん……私のクラスは、スポーツ大会よ。あの方は、特待生なの。金銭的な問題でクラスの方には参加できないから、個別で行くんですって」

「……ふうん、そうなんだ。僕の友人も、学外活動には、参加できないって言ってたな」


 兄の高等部時代の親友は、特待生だったという。ゆるり、とコーヒーを口に運びながら、兄は懐かしげに遠くを眺めた。


「だから僕は、3年のときには、彼が参加できるように、予算内で収まるよう企画したんだよね」

「お兄様も?」

「そう。藤乃も?」


 予算に収まるよう意見を述べ、クラスの学外活動はスポーツ大会に決まった。その経緯を説明すると、兄は「1年次にそれに気づくなんて、流石だな」と褒めてくれる。


「僕があいつと同じクラスになったのは2年からで、だから、どうにかできたのはその次の年だったんだよね。藤乃のおかげで、クラスの特待生の子は、助かったんじゃない?」

「さあ、それはわからないけれど……」


 むしろ、早苗はクルーザーに乗りたいとずっと主張していた。そのことを知らない兄は、「きっと助かったよ」と重ねてフォローしてくれる。


「藤乃ちゃんが仲良くしているのは、同じクラスの、特待生の方なの?」


 母が、食後のフルーツを摘みながら問う。私はそちらを見て、「違うわ」と答えた。


「2年生。私の、ひとつ上なの」

「うん? 2年の特待生?」


 不思議そうな声を上げたのは、兄である。


「言ってなかったかしら」


 兄は忙しくて、家で話す機会もそれほどない。慧の話も、そういえば、した記憶はあまりない。


「初めて聞いたよ。それで、藤乃は2年の特待生と、ふたりで行くの? 水族館に?」

「そうだけど……」


 兄は、顎に手を添え、思案顔をする。そういう真顔も様になるのは、美男子の特権だ。家族ながら、ついしみじみと眺めてしまう。

 それにしても兄は、急に何を、真剣に考えているのだろう。


「どうしたの、桂一くん」


 母が、不安げな顔で訊く。


「いや……お母様は心配してないの、藤乃がその先輩と、ふたりで出かけることを」


 兄は、なぜだか詰問じみた調子で話す。


「ええ……?」


 微笑む母の眉尻が、困ったように垂れ下がる。私も、兄がどうして急に苛立ち始めたのか、全くわからない。


「どうして心配するの?」

「どうしてって……その特待生の人は、本当に信用していいのかな。お母様に挨拶もなしに、藤乃を連れ出すなんて」

「桂一くん、その言い方は失礼よ。私たちの常識を、押し付けてはいけないわ。藤乃ちゃんが仲良くしているんだから、信用していいに決まっているじゃない」


 母に咎められ、兄は一瞬、口をつぐむ。母は穏やかに微笑みながら、しかし咎めるように、言葉を続けた。


「女の子ふたりで遠出するなんて、心配なのはわかるわ。でも、あなたも高等部のときには、ずいぶんと出歩いていたでしょう。もう、子供じゃないのよ」


 ん? 女の子ふたり?

 驚いて母の顔を見ると、母は「藤乃ちゃんは気にしなくていいのよ」と笑った。


 慧のことを、女生徒だと思っているのだ。言われてみれば、慧という名は、男女どちらでもあり得る。


「楽しんでいらっしゃいね」


 穏やかな母の表情を見て、私はひやっとした。もし、慧が男子生徒だとわかったら、「やっぱり行くのは駄目」と言われてしまうのだろうか?

 母を騙した形になってしまうのは申し訳ないけれど、もう出かけるのは今日なのに、今更行けないなんてことになったら、慧にも申し訳ない。


 兄を見ると、怪訝そうな表情で、口を開きかけたところだった。慌てて兄にかぶせ、先に言い放つ。


「ありがとう。そろそろ時間だから、もう出なくちゃ」


 口を挟めないよう、間をおかずに、すぐに席を立つ。

 母が視線を上げ、ゆるりと片手を振った。


「いってらっしゃい」

「うん、行ってきます」


 兄の視線を振り切るように、そのまま食堂の出口へ向かう。

 まだ約束の時間には早いけれど、余計な追及を避けるために、さっさと出かけてしまおう。


「待って藤乃、僕も同行するよ」

「桂一くん、やめなさいよ」


 兄は即座に立ち上がり、後を追ってきた。


「でも、お母様。『女の子』ふたりじゃ、やっぱり心配だからさ。大丈夫、邪魔はしないって」

「そう……藤乃ちゃんが嫌でないなら、構わないでしょうけど……」


 母の制止を、兄はそう言って振り切ろうとする。「女の子」を殊更に強調するあたり、兄はやはり、私の嘘に気付いているのだ。


「いいでしょう、藤乃」


 ここで断ったら、慧は男性だと言われてしまうかもしれない。そうなったら、今日の学外活動に、いけなくなってしまうかもしれない。


 兄の麗しい微笑みは、このときばかりは、本心を隠す仮面のように見えて。


「……はい」


 数拍の間を置いて、その静かな迫力に負けた私は、仕方なく、了承の意を伝えた。


「おはようございます、お嬢様……に、桂一様」


 玄関ホールに出ると、既に身支度を整えた山口が背筋を伸ばして立っていた。いつもの、ぱりっとしたスーツ。休日の早朝であっても、山口の装いは、抜かりない。私の後ろに兄の姿を認めると、目を僅かに見開いた。


「山口、今日は僕もついていくから」

「……左様でございますか」


 山口は詮索もしないし、余計な意見も言わない。頷くと、「もう行かれますか?」と付け足す。


「ずいぶん、お時間には早いようですが」

「落ち着かないから、もう出発しようと思って」

「かしこまりました」


 山口とともに、私と兄は、外へ出る。ここから、待ち合わせている最寄りの駅までは車で行って、そのあと合流する予定だった。

 慧は、兄が来ることを知らない。きっと居心地が悪いだろうと思うと、申し訳ない気持ちになる。


 けれど、こうなってしまった以上、もうどうにもならない。後部座席に、兄とふたりで乗り込む。


「ふたりで山口に乗せてもらうなんて、いつぶりだろうね」

「そうですねえ……」


 山口に話しかける兄の、和やかなムード。しかしそれは未だ、胸中にあるものを隠す和やかさのように見え、私は内心どきどきしながら、水色のスカートの裾を掴む。


 普段から優しい兄は、怒るときも、優しいまま怒る。


 幼い頃、兄の大切にしていた模型を、私がいじって落としてしまったとき。ひびの入ったそれを丁寧に修復しながら、兄はこんな風に、笑顔を浮かべていた。

 口では「気にしないで」と言い、微笑んでいるので、幼い私は許されたと思って、安心して話しかけた。するとそのままの優しい表情で、なぜ勝手に触ったのか、いかに大切なものだったのか、小さいからといって許されることではない、二度と兄の大切なものを許可なく触らないように、と厳しく叱られたのだ。


 だから、こうして兄が穏やかに振る舞っていても、私には恐ろしく思える。


「……ね、藤乃」

「はいっ!」


 いきなり話しかけられ、背筋がひゅっと伸びた。私の反応に、兄がくす、と笑いをこぼす。


「聞いてた?」

「え、と……」

「どうしたの、ぼんやりして」

「ああ……」


 兄の声音は、あくまでも柔らかく、穏やか。


「ねえ藤乃、それで、その先輩の話だけど」


 そのままの優しい声で、いきなり話題が変わる。

 来た。私の首筋から肩にかけて、一気に緊張が走る。


「どうして藤乃は、お母様に女の人だって嘘をついたの?」

「う、嘘をついたわけではないの」

「でも、否定しなかったでしょう」


 兄が膝に手をかけ、こちらに上体を少し寄せる。無意識的に、私は自分の上半身を、その分だけ離れる方向に寄せた。


「やましいことでもあるの?」

「それは、ないわ」

「なら、どうして男性だって言わなかったのかな」

「だって……もしかしたら、男の人だとわかったら、行けなくなるかもしれないと思ったの」


 自分でも、言い訳じみた話し方になっている自覚はある。


「どうして男の人だと、行けなくなるかもしれないのかな」

「それは……それは、なんとなく、そんな気がしたの」

「そっか。なんとなく、ね」


兄ははあ、とわざとらしく溜息をついた。呆れたようなその仕草に、私は胸がせまくなった感覚に陥る。

 浅い呼吸しかできない。静かに苛立っている兄は、やはり、恐ろしい。


「なら、教えてあげるよ。水族館でしょう? 男女ふたりで行くなんて、それは『デート』だからだよ、藤乃」


 デート?

 それは、兄の思い違いだ。会話の間があいて、私はぱちぱち、と幾度か瞬きをする。


「え……違います、あくまでも私たちは、学外活動をしに」

「そう見えるよ、という話なんだよ」


 腕を組み、兄が座席に深く座り直した。体が離れ、私は少し、ほっとした気持ちになる。


「違うなら、どういう経緯で、ふたりで出かけることになったのか、説明してもらってもいいかな?」

「それはね、お兄様……」


 私が話している間は、兄に責められることはない。そんな安堵感から、私は、話し始める。


 悲しいことがあって、図書室に逃げ込んで、慧と出会ったところから。


 話しながら、なつかしい気持ちになる。

 慧のおかげで、私にとって、図書室が居場所になった。慧と私は、立場は違うものの、互いに他者に対しての卑屈な思いを抱いていた。私は早苗に、慧は周囲の裕福な生徒たちに。互いを認め合ったり、慧が私のために怒ってくれたりして、そうして、徐々に親しくなった。


「……それで、水族館に行くことになったの」

「なるほど。藤乃は彼に、ずいぶん救われたんだね」

「ええ。教室では肩身が狭くても、図書室ではほっとしていられたの。彼は私の頑張りを認めてくれたし、私のために怒ってくれるし……」


 ここぞとばかりに、慧のしてくれたことを伝える。

 何か誤解していそうな兄に、慧が良い人であることを、アピールしなければならない。


「今日、水族館に行くことになったのも、私が一緒に行ってみたいと言ったからで」

「そう。……いい人なんだね」

「そうなの!」


 少なくとも、慧への悪いイメージは、払拭できただろうか。

 ほっとして、私も兄のように、椅子に深く座り直す。ふかふかした座面に、背中ごと埋もれた。


「藤乃はその人に、婚約者がいるって伝えてあるの?」


 緩んだ気持ちが、またひゅっと硬直する。


「えっ……」

「そんないい人が、婚約者のいる女の子と、ふたりで出かけるのかな。藤乃、ちゃんと話してる?」


 ああ、だから怒ってたんだ。


 漸く、兄の言動に、少し合点が行った。

 婚約者がいるにも関わらず、異性とふたりで出かけるなんて。泉が早苗に憤っているように、それは、常識外れの行動だ。


「話してるわ、その……」


 私は、一瞬躊躇った。

 兄の詰問から解放されるには、海斗とのことを、正直に言ったほうがいい。

 しかしそれは、このタイミングで、言うべきことなのだろう。


「ふうん。知ってて、藤乃と出かけることになったんだ」

「違うわ、そういうことじゃなくて」


 兄の、ぴくりともしない微笑。静かな迫力に、冷たい汗が背中を流れる。


「海斗さんに、婚約破棄を申し渡されたってことを、慧先輩は知っているから。だからそんな、おかしな関係じゃないわ」

「ん?」


 兄の片眉が、ぴくりと跳ね上がる。

 もともと、海斗とのことを相談するなら、まず兄だとは思っていた。ただそれが、こんな形になるなんて。


「婚約破棄だって?」

「実は、そうなの」

「お話中申し訳ありません。到着しましたが、どうされますか?」


 窓の外の景色はいつの間にか止まり、ここは、待ち合わせの駅であった。


「……降りよう」


 兄の言葉で、私たちふたりは、駅へ降り立つ。


「事情が全く掴めないんだけど、さっきの話は後で聞くから。とりあえず、待ち合わせは、どこでしてるの?」

「駅の、改札の外なの。確か、エレベーターを上がって……」


 慧が渡してくれた計画表を確認し、歩き始める。


 エレベーターで改札まで上がり、辺りを見回す。

 休日の午前は、駅を行き交う人も、皆楽しげだ。大きな荷物を持った、旅行に行くような雰囲気の人たち。賑やかな家族連れ。手を繋いだ男女。当然中には、仕事に行くような雰囲気の、きりっとしたサラリーマンもいる。

 きょろきょろしていると、改札前の柱の陰で、ゆらりと人影が動く。


「あ、慧先輩!」


 顔を出したのは、慧であった。私たちを見て、戸惑った顔をする。当然だ。いるはずのない兄が、一緒に来ているのだから。


「おはようございます」

「おはよう、藤乃さん。それと……えーと、小松原先輩?」


 私は、慧の前で立ち止まった。慧が、私と兄を交互に見ながら、僅かに微笑む。

 頬が強張っているのか、いつものへこみが見えない。


 制服を着ていない彼を見るのは、初めてだ。淡い水色のワイシャツ。腕まくりした袖から、男性的な腕が覗く。黒いチノパン。

 高級そうではないが、清潔感がある。シンプルで、柔らかそうな生地が、慧の雰囲気によく似合っている。


「……藤乃、紹介してよ」

「あっ」


 つい、見惚れてしまっていた。私は慌てて片手を持ち上げ、兄を紹介する。


「えっと、慧先輩。こちらが、私の兄です。その……私たちを心配して、ついてきてくれて」

「突然ごめんね。よろしく、慧くん?」


 挨拶を交わし、慧が頭を軽く下げる。

 笑顔の兄は、目だけが、探るような光をたたえている。正直言って、今の兄は、やっぱり怖い。


「いえ、小松原先輩とお会いできるなんて、光栄です」

「僕のこと、知ってるの?」

「もちろん。生徒会長をされてましたよね」

「一応ね」


 慧と兄の会話は、思ったよりも、スムーズだ。


「桂一、でいいよ。藤乃も小松原、だからね」

「わかりました。桂一先輩ですね」


 目尻を垂らし、目を細める慧の頬は、まだ平らか。うまく会話しているように見えるけれど、やっぱり緊張しているのだろうか。

 当たり前だ。兄が来る予定もなかった上に、初対面なのだから。


「それにしても、藤乃さん達、随分早かったね」

「はい、慧先輩こそ……まだ、集合より、ずっと前なのに」

「藤乃さんを、待たせたくなかったから。良かった、早く来ておいて」


 慧はさらりと言い、首を回して、券売機の方を見る。


「とりあえず、切符を買いましょう。自分の分は自分で、という約束になっているのですが、桂一先輩も大丈夫ですか?」

「もちろん、自分で払うよ」


 3人で連れ立って、券売機へ向かう。


「あれ? えっと、どこを押せば……」


 慧が切符を買い、兄も買った。私は自分の分を買うために、機会の前に立つ。

 券売機は、脇にたくさんボタンがあって、画面にも複数の数字が表示されている。


「……うーん?」

「藤乃さん、いくらのを買うかわかる? 計画表に書いてあったでしょう」

「ああ、そうだったわ。ええと……」

「この辺を見てごらん」


 慧が画面を覗き込み、教えてくれる。顔が近づく。甘くて、爽やかな香り。慧の慣れ親しんだ香りを外で感じると、なんだか、どきっと心臓が跳ねた。


「どれ藤乃。見せて」


 私と慧の間に、兄が手をねじ込んできた。

 慧がすっと離れ、さっきまで彼がいた場所に、兄が顔を差し込む。柑橘系のさっぱりした匂い。

 慧の匂いとは、全然違う。


「藤乃は、こういうのも、もしかして初めてなんだね」

「切符なんて、自分で買わないから……」

「そう……普通の電車に乗るのも、いい経験なのかもしれないね」


 出てきた切符は、新幹線の切符よりも遥かに小さいもの。私はそれを、ハンカチで包んで鞄にしまった。


「お待たせして、ごめんなさい、慧先輩」

「大丈夫。桂一先輩は、藤乃さんに優しいんだね」

「そうですね、優しいです」


 兄を見ると、相変わらずの穏やかな微笑み。

 今みたいに、その笑顔の奥で何を考えているのか読めないときがあるのが、兄の怖さだ。だけど、普段は優しい。


 切符が揃ったので、改札に向かって歩く。私を中央に、左に慧、右に兄という位置取りだ。


「慧先輩も、優しいですけど」


 切符を改札に通すと、吸い込まれた切符が、向こう側で出てくる。


「藤乃さんもね」


 慧はそう言って、笑顔になる。丸い頬の中央に現れる、柔らかなへこみ。


 あ、えくぼ。


 いつもの慧の笑みが見られて、私は嬉しくなった。


「さあ、行きましょう。5番線です」


 慧が先導し、階段で5番線に下りた。


「これに乗るの……?」

「藤乃、どうした? 何か、問題でも」

「いえ……なんだか、新幹線とは全然違うから」


 窓も大きいし、座席は壁沿いに並べられて、向かい合わせになっている。車内を見渡した私は、見慣れない光景に、困惑していた。


「藤乃って、新幹線にしか、乗ったことないのか? 在来線は?」

「在来線……?」

「……藤乃ってあんまり、出歩かないんだね」

「一緒に出歩いてくれる友達なんて、いなかったもの」


 兄は、呆れたように息を吐いた。

 そんな風に呆れられても、友達がいないのは仕方がない。兄とは違うのだ。


「この辺りは混み合ってますから、もっと前方に行きましょう」


 慣れた様子で誘導する慧に従って、車内を移動する。乗客はまばらで、思い思いの場所に座り、自由に話している。


 どうしてこんなに、座席が長いのかしら。


 側面に並べるより、新幹線のように、同じ向きに並べた方がたくさん座れそうなのに。

 疑問に思いながら歩いていると、車両を移動した先の座席配置は、全然違っていた。


「まあ……」


 四人がけの座席が、向かい合わせになっている。そこでは、家族連れが数組座り、賑やかに過ごしていた。

 私たちは、席に座る。兄は奥の座席に、私はその向かいに腰掛けた。


「慧くんは、僕の隣においでよ」

「そうですね」


 促されて、兄の隣に、慧が腰掛ける。


「窓が広いわ、外がよく見える」


 新幹線と違って、窓が大きく、広い。反対のホームで電車を待つ人の様子が、よくわかる。

 じっと見ていると、電車を待ちながら携帯を見ている男性が、ふと顔を上げて、目が合ってしまう。私はさっと、視線を逸らした。


「おふたりは、こうした普通の電車にお乗りになることは、あまりないんですか?」

「いや……僕はよく友人と出かけていたから、乗る機会もあったんだけどさ。藤乃は、初めてみたいだね」


 私は頷く。

 昔から友達がたくさんいて、休日は遊びに出かけていた兄。兄が電車に乗って出かけていたことを、私はあまり知らなかった。


「藤乃がここまで何も知らないなんて、思ってなかったよ。慧くんが誘ってくれて、良かったのかもしれないね」

「そう言っていただけるなら、良かったです」


 兄と慧の会話の合間に、がたん、と電車が揺れ。


「まあ、ゆっくり走っているわ」


 新幹線とは違い、外の景色をじっくり眺められる速さで、電車が次の駅に向かう。


「……良かったね、藤乃」

「楽しそうで何よりです」


 こうして、3人の学外活動が、幕を開けた。

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